青い文字盤の時計(2000.9.18)


 車のハンドルを握るたび、歩くたびに、いや正確には左腕を動かすたびにちゃらちゃらと金属の音を立てて私の腕によじ登る輩がいる。こやつは何度言っても一般の成人男子からするとやや細めの私の手首にまとわりついて、まとわりつくだけならばまだ良いとしても、本来こやつがそこにあるべき場所から上へ上へともそもそ這い昇ってこようとするのである。

 ええい、そこへなおれとばかりに左腕をぶるぶるっと振ると、こやつは申し訳なさそうに所定の位置へとおさまる。やればできるではないか。と油断するや否や今もまた私のキータッチの動きに合わせてずるずると這い上がってくるのであった。これはなにも、旅行を英語に訳したときのような状態になるための植物の葉や、なにやら怪しげな粉末状のものやらが消費され尽くした際に起きる幻覚といった類のものではない。時計である。

 メタリックな青い文字盤がはめ込まれた腕時計である。本体、というのかどうかは知らないけれど、本体はシルバーであると想像していただきたい。シルバーといっても元素記号Agのしろかねではない。単なる色の名前である。この配色には個人的に何かしらの思い入れがある。それは何かと尋ねられてもちゃんと答えることなどできはしないのだが、なんとなく記憶の片隅に残る、初めて見た腕時計がそのような色使いだったとかそういうことらしい。なんだ、それでは例の実験のように、アヒルの雛が初めて見たオモチャを母親と思いこんでしまうというあの刷り込みと変わりがないではないか。アヒルかオレは。グワァ。

 こやつはそう、確か私が大学3年生頃に未成年立入禁止の遊技場にて景品として私の腕へとやってきた。であるから、かれこれ7年ほどのつきあいとなろうか。それほど名の知れた時計屋が作成した代物ではないが、7年間一度の電池切れは経験したものの、休まずチクタクと動いておった。私はいずれにつけ一つのものを愛好する癖があって、その品が破壊されて使用不可能となるまではそれを使い続けるというなにかポリシーというか信念のようなものがあるチクタクと。

 格好いいではないか。ポリシー。信念。新しいものを買う経済力がないという理由が9割方を占めるという説も無いではないが、ここではそう言うことにしておこうじゃないか。大人なんだからそう目くじら立てないでいいじゃない。と、7年間動き続けてきた青い文字盤の時計であったのだが、私のぞんざいな扱いに、ついに今世間を賑わせている10代の少年のようにキレたのか、ぴくりとも動かなくなった。ああ、正確には長針のみがぴくりとも動かなくなった。短針、秒針はぴくりどころかスイスイと動いておる。

 いかんのではないか。長針よ。君は時間という世界に身を置いて、時間、分、秒という異なる概念の下で、分という大でもなく小でもない中途半端な時を刻む長兄として生を受けたのではないか。長身でありながら分という小賢しい任務に就くことに嫌気がさしたのか、はたまたインスタントラーメンを食するときだけに注目するその視線に大人の汚れた心を見てしまったのか。長針はもはや分という時間の感覚など無視して、文字盤の4のところに居座り続けるのであった。

 心を堅く閉ざしてしまった長針のご機嫌を伺うべく、私はなだめたりすかしたり、上から叱りつけたり下から・・あ。原因が判明いたしました。下からみるとよく分かる。文字盤の5の所に付いていたポイントが何かの弾みで文字盤から取れてしまったようである。このポイントは青い文字盤という大海原の上をカラカラァ、カラカラァと乾いた小さな音を立てながら彷徨っていたようだ。幾ばくかの漂流の後、彼のポイントは長針という世の拗ね者と結託し、小判鮫のようにその巨体の下へと潜り込んだのであった。二人の距離はジャストフィット。文字盤、長針そして漂流者ポイントはがっちりと手を組み、時間という概念に敢然と立ち向かうべく、ぴくりとも動かなくなったのであった。

 後日、様々な紆余曲折を経てこの腕時計は無事私の手首へと納まることになったのだが、その辺の話はまた今度の話にして...カチャカチャ、ここでは長針の更正と...ちゃらちゃら、時計の無事帰還を...もそもそ、祝ってあげ....ずるずる。ええい、そこへなおれ。


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