メヤメヤ(2000.10.6) 三軒茶屋に三件の茶店が並んでいるのかどうか定かではないが、世田谷のどこに「が」が隠れているのかも皆目見当がつかない。しかし私は今、世田谷のとある総合病院の待合いロビーのようなところで重い頭をうなだれて、じっと床を見つめ椅子に腰を下ろしている。じっと下を見てみればおや、こんなところに「が」が。などと見つかるはずもなく、ただただ私は自分の名が呼ばれるのを待つばかりである。
フィリピンという国ですくすくと育ったウィルスは確実に私の体内、奥深くへ居座り、私の鼻孔の粘膜と、咽頭の粘膜を破壊し、体中の白血球たちは彼ら外国種のウィルスと壮絶な戦いを繰り広げ戦場に華と散っていったのであった。私の中の純国産白血球は排ガス規制やエコロジーという名の人間純粋培養システムに守られ、もはや弱体化の一途をたどっていたようである。ジプニーなる排煙装置と、舗装の行き届いていないアスファルトが巻き上げる粉塵の中で狡猾に生き抜いてきたウィルスたちは、確実にその戦局を有利に運んできたとみえて、我が白血球軍は大敗を喫していた。
見渡す限りに我が軍の屍が累々と折り重なって居る。それら屍たちはもはや折り重なるべき場所を無くし、外へ外へと溢れ出そうとするのである。目から。
というわけで、世田谷のとある中央病院の待合いロビーの椅子の上には、次々と排泄される目やにと格闘する哀れな男がしょんぼりと首をうなだれて座っているのである。長年風邪と付き合って来たが、このような症状は初めてのことである。以前、眼病を患ったことがあるが今回のこの症状はその時と酷似している。
30代前半と思われるこの若い医者によれば、ウィルスによって目やにがでるという症状はさほど珍しいことではないとのことである。そういった話は聞いたことがないが、これもみのもんたが唱える学説なのだろうか。とにかくそれほど心配する症状でもないようであるからひとまずは安心したが、思うに風邪の症状の中でも目やにが出るというものほど屈辱的な現象はないのではなかろうか。
喉を患いゲホゲホとやったり、鼻をグズグズと言わせていれば、まぁ風邪をひいたのね、と同情されることもあろうが、目やには違う。何しろ目やにである。目いっぱいに目やにを溜めた男が近い付いて来た時、貴方は果たして、まぁ風邪を引いたのね、可哀想に、などと悠長に同情したりできるだろうか。恐らく答えは否である。怪奇、目やに男、と恐れおののかれ、半径3m以内から人影が消え失せることは先ず間違いの無い事実であろう。しかしながら当人は必死である。通常からはちょっと考えられないくらいの目やにが眼球の表面を覆い、視界は半分ほどに狭められ、司会は目やに男の登場を好奇の目で紹介し、歯科医は私の専門ではないとあきらめ、四海を泳いで渡りきるのである。
何故これほどまでに目やには風邪の症状として広く人々の心に定着しなかったのか。これは恐らく目やにに関する語彙の乏しさに由来すると思われる。咳はゲホゲホ、あるいはゴホン、鼻はグジュグジュ、グズグズなどという擬音語が比較的豊富に取りそろえられている。これは風邪の症状として喉や鼻の疾患が代表的だからこそ生まれた擬音語であろう。
しかしながら目やにはどうだ。目やにが止めどなく溢れ出る様を的確に表現する擬音語などというものは私の知る限りない。彼の医者、ああは言ったものの風邪によって目やにが出る症状というものはそれほど一般的ではないと思われる。こうなれば私がその擬音語を創るしかない。ここに「創る」という文字を当てたところに筆者の覚悟と意気込みが感じられるではないか。
目やにがニュルニュルと出る。なんだか旨そうである。トーストに付けて食べられそうである。これではいかん。もっと同情を集めることのできる悲壮感の漂った擬音がよい。目やにがメラメラと出る。なんだか燃えているのであるメラメラと。これも没。目やにがヤニヤニと、駄目だ。目やにがニヤニヤと、笑ってどうする。
目やにがメヤメヤと出る。これなどはどうだろうか。なんだか言いしれぬメヤメヤとした不快感と、ゆっくりとではあるが確実に排出される目やにの様を的確に表しているではないか。目やにがメヤメヤ。うむ、いい響きだ。あなた達が風邪を引いたとき、もし、目やにが止まらないというような症状が出たら是非使っていただきたい。先生、目やにがメヤメヤなんです。と。38度という高熱に浮かされた愚かな目やに男は世田谷のとある総合病院の待合いロビーにて、重い頭をうなだれて一人、このような訳の分からない妄想にとりつかれ、こう、つぶやいていたのであった。メヤメヤ。
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