海へ行こう(2001.7.22.)


 7月22日の今日は、日本の四季でいうところの夏である。今年は空梅雨だったせいか、夏が来たという実感が湧かない。それでも遠くに聞こえる蝉の声は、じわじわと空に吸い込まれ、音一つない入道雲は今が夏であることを控えめに主張している。そういえば、今年の夏は蝉の声が少ないような気がする。雨が降らないことと、蝉の羽化とは何か関係があるのだろうか。例によって調べはしないが、羽化できずに土中で眠るさなぎ達を想像すると、やはり遅れてやってきた気だるい夏は、なにやらいつもと違うようだ。こんな調子でこの雑文を書き始めるのは久しぶりなような気もする。いつもはウケを狙いにいくのを常とするが、たまにはこのようにだらだらと綴ってみるもいいだろう。更新のための間に合わせでは無いことを予め断っておく。

 夏は私の一番好きな季節であるが、今年は、この季節を充分に堪能できそうもなく、例年、数回は赴く大竹海岸にも、今年は一度くらいが限度であろう。家族連れで賑わうその砂浜も、ごろりと横になれば、なぜだか子どもたちのはしゃいだ声も四方に吸い込まれ、ファーストフードでは耳に付く彼等の泣き声も、さほど気にならない。太陽と波しぶきは防音壁のように音を無力化していくようだ。砂の上を吹く風は、熱気を払い、一時の静寂をもたらすが、あまりの静寂にふと体を起こすと、そこが、家族の賑わう海水浴場であることを思い出し、静寂の心地よさと寂しさが入り交じったような気持ちになる。どちらがいいのかは分からないが、この感覚は私が海に求めているものの一つでもある。

 海水に浸れば、さらに静寂が堪能できる。水面に顔を出せば、波に乗る少年達のはしゃいだ声や、カップルの嬌声も波の向こうに聞こえるが、ひとたび海中へ潜っていくと、そこには自分の吐く息の音と、頭上、1、2メートルから降ってくる海面のざわめきが包むのみである。わずか2メートルほどのダイビングであるが、海の藻屑となれる一時である。思いのほか日に焼けてしまった躯の表面を海水がすべらかに通り過ぎていく感覚は、陳腐な使い古された表現ではあるが、まさに命の水であり、人間がその場所から水を抱えて地上に這い出てきたことを証明するようである。薄い皮膚一枚を通した、中と外が同じ濃度の塩分で構成された水であることをまさに肌で感じる時間である。

 水からあがると、すっかり取れてしまったサンオイルを皮膚に塗布する。どうやら、私は皮膚一枚で海に臨むことが出来なくなってしまったようだ。けれども、あの安っぽいオイルの香りを私は非常に気に入っており、シャワーでも2日くらいは残るその香りの余白を楽しんでいる。余白と言えば今回の雑文はいつもよりうっかり、広めに獲ってしまったのであるが、むしろこのくらいの方がいいかもしれない。これからはこれで行こうと思うがどうだろう。帰りの車の中で、ビーチサンダルと素足の間から、ぽろぽろと乾いた砂が落ちる感覚もまた、海の余韻であり、海水の臭いと、サンオイル、そして汗の混じった車中の空気は、砂浜から私の家まで輸送される。火照った皮膚とサンオイルの皮膜は、第二の皮膚を作り、数日間、私が海に行ったという証拠をしっとりと残していく。

 と、この夏、未だ海へ行っていない私は、その思いを綴ってみたわけであるが、モニターに向かいこれらの文字列を眺めていても、全然効かない研究室のクーラーが先程からがーがーと、どうでもよい音を立てているだけで、涼しくもなんともなく、当たり前だが海の匂いもしない。急に車に乗り込みたい衝動に駆られたが、今、連れ合いの人間がいないので、私が海中の藻屑となれるのは、もう少し後になりそうだ。海から帰った後の飲酒も、遊泳の疲れとともに泥のような酔いをもたらせてくれるので楽しみにしつつ、8月になったらば、ちょっと海へ出かけてみようと思う。


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