森さんを考える。(2001.5.4.) 私の頭の中には今、うーたんさんが散歩している。その長い両の腕を力無く前へ投げだし、軽く握られた両のこぶしはコンクリートの生暖かい床に緩やかに押しつけられている。心持ち前傾姿勢の彼は双肩を左右に揺すり、うーたんさんと呼ばれれば、なーに、とは答えないが、霊長類の中でも恐らく五指に入るほどの巨体をもたげ、ゆっくりと自然石を象った階段を降りてくるのであった。無責任なことに、うーたんさんを呼びつけた推定40歳前後の女性は、彼に食事を与えるわけではなく、ただただ、自分の息子にうーたんさんの勇姿を見せたい一心なのであった。うーたんさあん。うーたんさあん。もし、このような声量でもって、この言葉を街頭で叫んでいる人物が居たとすれば、間違いなく数分後には白と黒のツートンカラー、いや、もしかしたら白と赤かもしれないが、そういった特殊な職業に従事する人々専用の車両が到着することは間違いないであろう。それ程に彼女の声は大きい。うーたんさんの関心を引くため、手拍子を打ったりしているところも加点の対象として加えたい。
用もないのに呼びつけられたうーたんさんは、それでも怒ることなく、彼女の息子にうーたんさんとは如何なる物かを教え諭すように、実にうーたんさんらしく振る舞うのであった。ほーら、うーたんさんですよう、はい、私がうーたんさんです、これがうーたんさんというものです、とでも言いたげな彼は、いや、本当のところはどうなのかは知り得ないが、のんびりとした物腰でもって、当時、推定4歳前後であった頃の私に、うーたんの、うーたんたる所以を鼻の下を伸ばしながら教授するのであった。20数年前の愛媛県松山市、道後温泉で有名な道後に鎮座する道後動物園には、うーたんさんと勝手に省略されてしまった名で呼ばれる一頭のオランウータンが、他の動物よりも比較的広めの檻で生活していたのであった。
オランウータン。古くから日本語を母国語とする話者は、このような外来語に直面した場合、可能な限り原音に近い形で片仮名表記を試みたり、日本語に翻訳するという知恵を持っていた。前者の場合でも、日本語にない発音であれば、それを日本語の音韻に当てはめて表記したり、その外来語が長すぎる場合は、適当な音節で区切って省略したりと、非常に機知に富んだ言語感でもって母国語へと吸収していったのである。オランウータン、マレー語であった。マレー語で「森の人」という意味だそうである。言綴りは Orang-utan 。尤も言綴りといっても、マレー語に古くからアルファベットがあったとは思えないので、恐らくはマレー語のネイティブ・スピーカーが発音したものを、英語圏の動物学者か人類学者が聞き取り、アルファベットに表記し直したものと考えて良いだろう。この表記に従えば、「オラングウータン」とでも呼ぶべきか。勿論「ング」の「グ」の箇所は、日本人には、ほぼ聞き取れない音声であろう。
当時、推定40歳前後の彼女は、彼のことを「うーたんさん」と呼んでいた。いや、もしかすると幼児の私には聞き取れないほどの正確さでもって「うーたんさんぐ」と発音していたかも知れないが、この際それはあまり重要ではない。問題は、オランウータンを本当に「オラン」と「ウータン」に分解してもよいものだろうかということにある。当時推定40歳前後の彼女は、当時発売されたばかりの「ポカリスエット」のことを、「ポカリス」と省略するほどの語感の持ち主であった。大体、私の語感では、「ポカリスエット」は略さないが、「ポカリ」と略す人間が居ないわけではなかったので、あの語を長いと感じる人間も居ると言うことであろう。然るに、ポカリスとは何事か。スを取られたエットが可哀想ではないか。話がそれた。しかし、ポカリスエットのポカリが何を意味するのかは、未だに判然としない。
オランウータン、マレー語で森の人、彼女の言語感に頼るならば、オランとウータン、どちらかが「森」でどちらかが「人」である。血の滲むような検索の結果、答えは次のようなものであった。orang:人、人間、utan:森である。ただし、utanは一般的なマレー語ではなく、サラワクという地方の方言らしい。標準語ではhutanらしく、マレー語では、オラングフータンとするのが標準的であろう。おそらく、生物学者か人類学者が初めて訪れた地がサラワクであったか、彼の地に訪れて雇った現地のガイドがサラワク出身であったかのどちらかだあろう。結局のところ、オランウータンを、オランとウータンに分解するという彼女の語感は、あながち間違ってはいなかったようである。もしかしたら、彼女はマレー語話者に近い語感を持っていたのかも知れない。マレー半島およびマレー諸島一帯にポカリスエットを大量に輸出すれば、数年後に彼の商品は「ポカリス」の名で浸透していくかも知れない。是非、頑張っていただきたい大塚製薬。
然るにうーたんさん。マレー語サラワク方言にて日本語に直訳すれば「森さん」。遠いマレー半島からはるばる船に揺られ道後の地にやってきた彼に、親しみを込めて「森さん」と命名した彼女の語感は特筆すべきものがあるんぐ。
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