歩いていくのである(2000.8.27)


 早朝である。早熟ではない。いや、早熟かも知れないが27歳にもなると早熟であろうが未熟であろうが、はたまたそろばん塾であろうが生活にさほど支障を来すわけではない。そう、27歳という年齢は早熟ということばに似つかわしくないのである。「早熟な27歳」。ちょっと駄目かもしれない。

 いや、早朝である。午前6時40分を早朝ではないと言う人がいれば、貴方はこれを読むべきではない。午前中とは私にとってすべからく早朝なのである。午前6時40分。普段ならば睡眠中である。間違いなく睡眠中である。時々ムーミン中であるかもしれないが、それは秘密である。誰にも言わないで欲しい。恥ずかしいから。何故、私が午前6時40分と言う早朝に起床しているか。それは別に午前と午後をうっかり間違えたわけではない。とある予定で東京行きのバスに乗らなくてはならない。そういう使命があったのである。東京行きのバスが出発するバスセンターまでは、これまたバスに乗車しなくてはならない。

 今、私は××会館前というバス停に佇んでいる。しかも途方に暮れて。現在6時40分。このバス停にはおよそ4種類の路線が存在する。内1つは大学内から脱出せず、永久に大学内をループし続ける恐ろしいバスである。これに乗車したが最後、永久に回り続けなければならない。その身が朽ち果て滅びるまで。恐ろしいことである。この呪いのバスから下車するための方法はたった一つしかない。「次、止まります」のボタンを押せ。

 徹夜明けで頭が真空状態になっているためこのような妄想が脳内でクルクルと回転する。大丈夫なのかオレ。妄想と闘いつつ、時刻表を見る。時刻表というものを読み慣れていない私ではあったが、今日は難なく分かったところを見るとどうやら私も立派な社会人に成り始めたらしい。西武線から山手線に乗り換えたくらいで大人になった気になってはならないと思う。

 話がそれた、4本の内1本は呪いの無限螺旋バスであるが残りの3本は全て私を目的地であるバスセンターまで運んでくれるのである。しかし私はここに来て自分の置かれている状況にへどもどすることになる。ところで「へどもど」とは何だろう。

 3本のバスがこのバス停を通過する時刻は6時52分、6時55分、6時57分。いかんのではないか。なぜ6時50分代にそう執着をみせるのか×東鉄道株式会社。40分代に1本増やそうとかそういう気は無いらしい。私は今、6時40分という時空間を生きている。6時50分代というのは10分も後の未来である。10分という時間、無駄にしてはならない。そう、秒刻みで生きる私は10分もあれば相当の仕事をこなすことができる。例えば、・・話を戻そう。

 この10分が待てない。煙草を1本吸い終わるのに約1分20秒。計算によると立て続けに7本吸って、8本目の半分くらい吸ったところでそれを揉み消さなくてはならない。そんなに煙草を無駄に吸うことはできない。私は名案を思いついた。次のバス停までは約100mである。6時52分のバスがここに到着するまでに次のバス停まで歩いて行ってしまうのである。100mに12分はかからないであろうから、もしかすると次のバス停、いやその次のバス停くらいまでは行けてしまうかも知れない。次の次のバス停まで辿り着けば、バス代も30円安くなるのである。

 躊躇無く私は歩いた。とはいっても時間にある程度余裕があるため、のんびりと歩いた。早朝であるためこの季節にも拘わらず涼しい。木陰をゆっくりと歩いていると頭上数十センチメートルに垂れ下がった枝にミンミン蝉が鳴いておる。じっくりと耳を澄ますと、みーんみーんと言っておる。擬音ではない。本当に Miiin,Miiin と鳴いている。そうとしか聞こえない。鶏はコケッコッコーとは鳴かないがミンミン蝉はミンミンと鳴くのである。ミンミン。

 感心している場合ではない。いくらなんでもあまりのろのろと歩いていれば、バス代30円浮くどころかバスに乗り遅れてしまう可能性だってあるのだ。そう、これはもはや一個人の問題ではない。関×バス株式会社と私との全面戦争である。命を懸けたレースが開始された。黙々と歩く。次のバス停到着。楽勝である。しかしおかしな点に気づいた。私が乗るはずであったバスの到着時刻がこのバス停の時刻表でもまた、6時52分とされているのである。いくらその距離100m前後であるとはいえそれは不可能なのではないか。客の乗車、降車とバスの走行時間を合わせて1分以内。無理である。老人の人が乗ってきたらどうするつもりであろうか。それともこのバスに乗車する人々はなにやら特殊な訓練でも受けているのであろうか。私は受けていない。不安である。

 そんなことを考えている場合ではない。レースは既に始まっているのである。タイヤ交換とガソリン補給を秒単位で終わらせ、サーキットに戻る。そうここは闘う狼の集うサーキットだ。あのバスは××会館のバス停に到着したらきっと驚愕するはずである。何しろそこで待っているはずの私はいないのだ。ふひひ。よもや裏をかかれたとは思っておるまい。しかも驚愕しながら次のバス停に到着すると、いるはずのない私がそこに待っているのだ。ヤツの驚く姿が目に浮かぶ。私はそれを余裕の笑みでもって迎え入れるのだ。息一つ切らさず。

 しかしこれでは30円は浮かない。恐ろしい妄想にとらわれている徹夜男であったがお金の計算はできるようである。もう1つ行くことに決めた。次のバス停までは少し距離がある。400mくらいであろうか。ここでくじけてはならない。残り時間は9分。いや、もう少しあるかも知れない。なにしろこのレースは次の次のバス停の時刻表までは見ていないという危険な前提の元に成されているのであった。取り敢えず歩く。渾身の力で。ミンミン。歩く。ミンミン。バス停が見えた。あと少しだ。ふと後ろに気配が。のっそりとした巨体をもたげホワイトバックにブルーのラインを鈍く朝日に輝かせながらバスが近づいてくるのが見える。まずい。

 私は歩みを早めた。接戦である。しかし僅差で勝つことは許されない。なぜなら私はしてやったりという余裕の笑顔で息一つ切らさずヤツを迎え入れなければならない。そうでなくてはこの戦い、勝ったとは言えぬ。してやったり。運転手にそれと気づかれず。私は余裕の笑みでもってバスを迎え入れる。少し上がり気味の息を押し殺し、悟られぬよう額の汗を拭う。運転手の驚愕の顔が目に浮かぶ。勝ったのである。目の前にバスが停車し、扉が開く。整理券を紳士的な物腰で抜き取り運転手の方を見やる。運転手の背は敗北感に満ち満ちている。ミチミチ。

 はずであった。運転手はだるそうにバスを発車させる。何事にも興味がないように。何故だ。何故お前はそのように平然としていられる。お前は負けたのだ。しかも私が居ると思っていたバス停に私を発見できず驚愕し、さらに驚いたことに次の次のバス停で突然私が現れたというのに。何故だ・・・原因に気づいたのは東京行きのバスの中であった。


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