携帯電話其の弐(2000.5.29) 以前「携帯電話」という題目で駄文をしたためたことがある。件の駄文の日付は四月壱拾五日であつたから、約一月と少しの間、携帯電話を使用して居る事になる。未だ呼び出しの音が鳴っても、自分のものとは思はず、「早く出なさひ、うるさいぢやないか」と言ふ無言の叫びを四方に発し、一寸後に申し訳なさそうに「もしもし」とやるのが常である。因みに呼び出しの音に、最近、巷で流行してひる「着めろ」などといふものは採用していなひ。男は寡黙にして飾らず。あんなものは女、子供のすることでおじゃる。嗚呼、募酢といふ缶珈琲が飲みたくなってしまつたでわないか。
携帯電話を使い始めて、否、使う前から漠然とは気付いていたのであるが、どうもこの携帯電話という通信道具は「電話」という名を冠してはいるものの、その実「電話」ではないやうな気がしてならなひ。と言ふのも、抑も廿年くらひ前までは、電話とは一家の一隅に鎮座し、大凡、家族全ての要件をたつた一台で滞り無く承っていたのだ。故に電話を掛ける方も「何某様はいらつしやいますでしょうか?」とか、「私、何某と申す者ですが」だとか、先ず名を名乗つたり、相手の所在を確認したりと、本題に入るまでの挨拶と言ふか、そういつた、形式化した会話が存在したのである。此の為、「光子さんはいらっしゃいますか?」「誰だね君は」「ひい、お父様ですか」「貴様にお父様と呼ばれる筋合いなど無ひ」などと言ふやり取りが、日常茶飯、悲喜交々、四捨五入、行はれていたのである。
然るに携帯電話の普及に伴ひ、かやうな光景はもはや見ることのできなひ今日と成つてしまつた。この様な電話を取り巻く諸現象の変化は、まだまだ他にもある。例へば携帯電話は何処に居ても繋がる。ある意味では此が携帯電話の一番の特徴やも知れなひ。何を今更。等と侮ってはいけなひ。電波の届かない場所か、或ひは電源が入っていない場所以外なら、火星であらうと、便所であらうと、運転中の自動車の中であつても繋がるのである。況や待ち合わせ場所に於いておや(反語)。・・・
私が言ひたいのは最後の待ち合わせ場所に於いてである。待ち合わせに遅れそうだ。或ひわ待ち合わせの場所が解らなひ。或いは抑も、そんな待ち合わせはしていなひ。かやうな場合でも携帯電話は確実に人と人とを繋ぐのである。言ひ換えるならば
其の壱、待ち合わせに遅れそうでも、予め遅れる旨を相手に伝える。詰まりは遅れても良い。
其の弐、待ち合わせ場所が解らなければ先に到着している人に聞く。方向音痴でもへいちゃらである。
其の参、先刻までそんな待ち合わせなどはしていないにも関わらず、突然、降つてわいた待ち合わせ場所に急遽急ぐ。
等々、先程の形式化された会話が無くなってしまったやうに、携帯電話はそれを持つ人間の行動様式までをも変化させてしまつたのである。
本来、「電話を携帯する」或ひは「携帯する電話」の意味から名付けられた携帯電話ではあるが、もはや携帯電話は電話の機能などは、とおに通り越して、全く違う、別の機械になってしまつたようである。何処にいても繋がる。ある意味では優れた機能であるとは言へる。しかしお母様、だからといって早朝に電話を掛けてくるのだけはやめてください。
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