お便り(2000.6.15)


 便りがないのは元気な便り、頼りがないのは元気な私である。人はいつの頃からか、ことばを生み出した。人類最初の第一声はなんであったのか。この問いに答えるべく言語学者達はこれまでに様々なネタ、いや説を唱えてきた。

 動物の鳴き声を真似したのが始まりとしたワンワン説(bow-wow theory)、喜び・悲しみなど人間の感情表出から始まるとするプープー説(pooh-pooh theory)、かけ声などを始まりとするヨーヘイホー説(yo-he-ho theory)など、結構笑える説が勢揃いである。これは冗談ではなくて、本当に言語学者の中にはこういう説を唱える人がいたのである。ほんの一昔前の話だ。

 人間はワンワンだか、プープーだか、ヨーヘイホーだかの単純な音声あるいは単語から、より複雑なことばを次々と作り出していった。そう、「文」の登場である。文は昨日のことも、今日のことも、そしていつか来る未来のこと、さらにはまだ見ぬ人や、行ったことのない場所、そして実際には起こっていない現象までをあらわすことができる。例えば、

例文「私は明日、学校へ行く。」

ありきたりな例文で申し訳ないが、これは未来のことを表す文である。

例文「私はこれから、しし座M23星に行く。」

文としては間違ってはいない。文法的にも正しい。しかし内容がちょっと、限りなくアッチの世界に近い。

例文「私はスプーンを曲げられる。」

かなり重傷である。入院を勧める。

 後の2つの例文が最初の例文に比しておかしいと感じるのは、決して文法的に間違っているという理由からではなく、読み手がその内容を「嘘」だと感じるか否かという点においてのみである。では「私は明日、学校へ行く」という例文は正しいのだろうか。

「私は明日、学校へ行く」

 この文は、「明日」という時制を表す名詞を用いているという点で「今日」書かれたものであることがわかる。したがって正確には「明日」になって、実際に「学校に行く」までは、この文は「嘘」であり続ける。つまり現実にはまだ起こっていないことを表しているという意味においてこの文は「嘘」であると言える。

 ことばは明日のことを語れるようになった瞬間、同時に嘘を語り始めたのである。あくまでもこれは理論上のことであり、日常ではこれで充分に用が足りる。日常において、このような文が充分に機能するのは、その文の内容が受け手にとって、もっともらしいものであることと、さらに言うならば、その内容が確認可能なものであるという理由からである。逆に言うならば、確認不可能な文は、その内容がいかにもっともらしくても、信用することができない。では、確認すると はどういうことだろうか。それは明日、学校に来るかどうかを厳密に調べ上げたり、学校に来るように強く念を押したり、学校に来なかった場合の罰則を設けたりすることではない。

 その人が明日学校に来そうかどうか、表情、声、体調、そして今までに知る人柄などから曖昧に「確認」しているのである。その判断は曖昧ではあるが、何より正しい。だから文面で「元気です。」なんて言われても、その元気さはちっとも実感できない。

お元気でしょうか?


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