虹(2000.5.22) 犬が居る。ちょっと小太りのビーグル犬だ。首輪を持たれたまま、主人の指をハムハムと噛み、嬉しそうにじゃれている。主人が首筋を撫でるたび、犬は首を左右に回しながらクルクルと体をよじらせる。主人のジャンパーは毛だらけである。さっきからその様子を20分ほど眺めている。
外は雨だ。トタン屋根に大きな雨粒が落ち、スチールドラムのような音を立て、遠くの方ではゴロゴロと雷の音も聞こえる。隣では以前釣り上げた大物の写真を誇らしげに眺める老人と、その話に聞き入るさらに年のいった老人2人。きっとこの2人は同じ会話をもう何年も続けているんだろう。
ボクは今、トタン屋根の下にいる。煙草を吹かしながら、雨が小降りになるのを待っている。ここは郊外にある釣り堀の休憩所だ。小学校のプールくらいの大きさの池には、ちょっと信じられないくらいの大きな鯉が居るらしい。
東の空が晴れてきた。雨もパラソルで凌げる位には止んできた。雨は、魚の活動を活性化させるらしい。ここの主である老人が言っているのだから間違いない。そろそろ再開だ。ちょっと湿った練り餌を右手で取り、指先で丹念に練る。練る。練る。大豆くらいの大きさに練り上げたそれを返しの付いてない針に付ける。さっきからこの作業を何十回も繰り返している。もう、練り餌の入ったボールを見なくても、同じ大きさの大豆を作れるようになってきた。お寿司屋さんの職人みたいに。
けれども鯉たちは、丹念に練り上げた練り餌を、針に引っかからないように上手に食べていく。浮きをじっと見る。わずか1センチメートルほどの、その動きに反応して竿をピクッと引き上げる。ここの針には返しが付いていない。だからピクッてしないと、餌だけ食べられてしまう。ピクッてして鯉の口に引っかける。
掛かった。グイグイと竿が引っ張られ、綺麗なカーブを描く。緑色に濁った水の中で鯉は右に左にとボクをからかうように逃げようとする。鯉はちゃんと、この針に返しが付いていないことを知っていて、どうやったら針が外れるのかも知っているそうだ。雨は知らないうちに上がっていた。西日が水面に反射してまぶしい。右の頬に赤い太陽の光が射す。あと、少しで釣り上げられそうだ。ふと東の空を見上げた。山の中腹からにょっきりと虹が立っていた。今まで見たことがないようなくっきりとした虹だった。いつの間にか竿は軽くなっていた。