葦簀に気を付けろ(2000.6.26) テレビのコマーシャルというやつはどうも困る。激しく影響されることが多い。なにしろ15秒ほどのスペースに社運をかけてありとあらゆる情報を詰め込むのである。影響されないという方が難しい。化粧品会社などのコマーシャルには綺麗なお肌のお姉さんが登場し、つるりとばかりにその美肌を見せつける。そもそもそれほどの綺麗な肌の持ち主ならば、何処の化粧品を使っても同じような気がするが、それでも視聴者はその女性、多くは女性があこがれる女性タレントのイメージに思いをはせ、次々と件の商品を購入するのである。
まあ、大体の商品においてテレビコマーシャルとはそういうものであろう。実物がどうであるか、というよりはむしろそれに付随するイメージのやり取りにその主眼を置く。いや、私は何も消費社会のシステムが間違っているとか、イメージの拡散がリアリティーを希薄なものにするとか、そういう朝まで生テレビ的なことを言うつもりは毛頭ない。ウハウハ消費経済万歳である。どんどんやっていただきたい。
ただ私が言いたいのは、多感な少年時代のような心を持つ1人の青年がここにいると言うことである。ここで重要なのは「青年」というところである。「おじさん」という単語や「オヤジ」などという単語が頭に浮かんでも決して口にしてはならない。諸君の持っている辞書にそのような単語がある場合は即刻そのページを破り捨てた方がよいかと思われる。それが鉄の掟である。ビリビリ。
まあ、そんなわけでうちのベランダには葦簀がある。簾を横にしたような例のあれだ。夏の風物詩とも言えよう。外からは見えず、中からは少しだけ外の様子が分かる。そして、夕刻になれば涼しい風を運んでくれるのである。六畳一間のアパートの住人にとって、このベランダの快適スペースを利用しない手はない。早速ベランダに簡易椅子を設置し枝豆をつまみながらの飲酒と相成った。
枝豆は茹で立てである。旨い。最高である。部屋の中と外でこれほど違うものかと驚嘆した。嬉しさのあまり眼鏡がずれたほどだ。枝豆とビールの取り合わせは体にもいいらしい。みのもんたが言っていたのだから間違いないだろう。しかし、何かが足りない。ビール、枝豆と来れば残るはそう、七厘である。何故そうなるか、その辺のところは私にもよく理解できない。枝豆とビールと葦簀で何故、七厘か。しかし、そこではたと気が付いた。コマーシャルである。一番に絞ったとうたわれる例のビールである。アジのフライや、揚げたて新じゃがや、牛タン、サンマ、取れたて完熟トマトを貪り食う例のコマーシャルである。
手元をふと見る。一番に絞られた例の商品がしかと握られていた。原因はこれにある。葦簀に囲まれ、簡易椅子に腰掛けて枝豆をつまみながらビールを飲み干すその姿は、例のコマーシャルそのものであった。そのコマーシャルの映像記憶と、自分の姿がダブった瞬間、私の脳の中ではそれにまつわる様々なイメージが次々と浮かび、取り出され、結合され、食欲を喚起する。
実際に役所さんが七厘を前に「プハア」とか言いながらビールを飲み干していたかどうかは定かではない。もしかすると中山さんかも知れない。しかしながら私のイメージの世界では見事にその映像が形作られている。喚起されるイメージとはそういうものである。関連する事物を芋づる式につなげて、「それらしいもの」を勝手に作り出す。3時間後、ベランダには七厘、アスパラ、ジャガイモ、さいころステーキ肉が並んでいた。まるで馬鹿である。
火をおこす。モクモク。
焼く。ジュウジュウ。
貪り食う。ムシャムシャ。
飲む。グビグビ。
焼く。ジュウジュウ。
貪り食う。ムシャムシャ。
飲む。グビグビ。
すっかり酔ってしまった。ヒック。
そろそろ撤収。ヒック。
炭を火鍋ね、片付けれぇ。狭みベランダれは、火ろ管理の怠ると大変らことになるのられる。ウぃぃ。
綺麗ににひひ、片づいたた。ヒャック。
・・・・・
目が覚めた。しかもベッドの上で。さっきまで片づけをしていたはずの私が何故ベッドに。あわててベランダを覗く。綺麗に片づいている。どうやら私は一時的な記憶喪失に陥っていたようである。原因を考えた。どうやら軽い一酸化炭素中毒のようだ。葦簀は確かに空気を通す。場所もベランダであるし、酸素は充分であるはずだ。しかしながら狭い狭いベランダでは、葦簀が空気の対流を止めてしまい。かえって空気のこもった状態にしてしまったようである。足元十数センチの場所から立ち昇る煙を直接吸い込んでいるわけだから、考えてみれば当たり前の話でもある。「葦簀は空気を通す」。この思いこみが仇となったようである。ここに泥酔プラス一酸化炭素中毒の一人の青年が誕生した。一番に絞ったビールのコマーシャルは的確に私を一酸化炭素中毒へといざなってくれたようである。葦簀は恐ろしいのである。ヒッっく。