前夜



四ノ宮 瑞香  様



まだ少し、わだかまりを残した表情のまま、石川先生が帰っていった。
彼が飲み残したグラスを片付け、自分用にブランデーを用意する。
夜は始まったばかりで、まだ長い。
手の中の琥珀色の液体は、口にする度に喉をヒリヒリさせる。熱い。まるで、今のあたしの気持ちを焼き尽そうとするかのようだ。
司馬くん――――これで、良かったんだよね……?
一人、心の中で呟く。
あたしがアナタにしてあげられることって、これしか無いんだもの。
もっと力になってあげたかったのに……あたしじゃ、ダメなんだよね?
涙がこぼれた。一粒、二粒――――
手の甲に透明な染みが広がる。色が変わって体の中に沈殿してゆくのが分かる。
どうしてあの時、気がつかなかったんだろう。
どうしてあの時、待てなかったんだろう。
どうしてあの時――――そう思い続けてきたのだ、この何ヶ月か。司馬が天真楼病院を去ってから、ずっと。
何も言ってくれなかった彼を責め続けてきたけれど、事情を考えれば言えるはずの無かったことだと、どうして思いつかなかったのだろう。
彼は女の子にお世辞やお愛想を言うのが下手だった。
口下手で、気の利いたこと一つ言えないけど、いつも誠実だった。
どんなに言葉数が少なくても、必要なことはちゃんと話してくれていたのに。
あたし、アナタの何を見ていたんだろう。
噂や中傷を耳にして、本人に問い詰めるだけしかできなかった女――――それの何処が、恋人だったのか。
おまけに「アナタのことが信じられない」なんて、傲慢もいいところだ。
それでも同じ病院で勤務することになって。
司馬が時折構ってくることに、密かな優越感を感じていた。
石川先生との間を勘繰られた時は、期待すら感じてたんだ――――もしかして、妬いてる? 私にフラれたこと、後悔してるの? って。
あたし、アナタに何を望んでいたんだろう。
彼が頭を下げて、「やっぱりお前しかいないんだ」と言ってくれること?
あの時話してくれなかったことをきちんと説明してくれること?
欲しかったのは、今思えばどうでもいいようなこと――――そんなことだけなんだろうか?
あたしの方はまだ司馬のこと、諦めてなかったことに気がついて、愕然とした。
なのに……
司馬くん、アナタってホント、昔から諦めがいいんだから――――
いろいろな苦労をいやというほど経験してるから、引き際が鮮やかなのよね。
追いすがって無駄な時間を使うより、さっさと気持ちを切り替えて勝算が望める方へと乗り換える。生き馬の目を抜く世の中では当り前の処世術だってことは分かってる。
だからって、女にもそれを適用してほしくなかったな……
涙が後から後から溢れてくる。
"後悔先に立たず"ってなんてイヤな言葉なんだろう。女々しいって、今のあたしみたいな状態を言うんだね。
アナタの隣に他の女が寄り添うなんて、今でも許せない気持ちになる。
だから、司馬があたしにちょっかいを出してくるのがくすぐったく感じられたんだ。あの厚顔なオットー製薬の女を彼が道具としてしか扱っていないことは、あたしの自尊心を大いに満足させてくれたっけ。
どうして、まだ好きなんだろう――――
アナタはあたしの手を拒絶したというのに……

石川先生が初めて天真楼へやってきた日のことはよく覚えている。
あたしは当直で司馬は非番。
最後に運び込まれたクランケ、交通事故を起こした代議士のバカ息子のせいで、あの二人は対立してしまった。もっとも、あの件が無くても、いずれそうなったに違いないけど。
誰もが遠巻きにしていた、性格の悪い外科医。技術は超一流で外科部長の篤い庇護下にあればこそ、皆が目を瞑っていた横暴さ。その司馬に正面から食ってかかるなど、普通の日本社会では考えられないことだ。アメリカ帰りの石川先生でなければ、出来なかったことだろう。
でも、それだけじゃないような気がする。
石川先生のスキルスが発覚した時も、司馬だけが告知にこだわった。
全員一致で反対したのに。
司馬の性格は分かっている。こうと決めたらやり遂げることは、五年付き合ったあたしが、よく知っている。
だから、しつこいくらいに「告知しないで」と頼んだけれど……ダメだった。
峰先生からその話を聞いたときには、なんてひどい男だろうと思った。人があれだけ頼んだのに……
だけど――――
石川先生が残りの人生全てを司馬を倒すことに注ぎ込んでいたあの頃、もしも彼が司馬から告知を受けなかったらどうなっていただろうと考えてゾッとした。
石川先生だって医者だ。それも、かなり優秀なドクターだ。
確かに最初の数日間は胃潰瘍で誤魔化せるかもしれない。でも胃潰瘍とスキルスじゃ、進行具合が違いすぎる。いくら皆の口裏を合わせても、本人が自分の容態に気がつくのは時間の問題だったはずだ。
それでも、誰も石川先生に本当のことを言わなかったとしたら………その時の石川先生はどんなにショックを受けるだろうか。担当医(この場合、峰先生になるんだろうか?)どころか、外科も内科も誰も信じられない、そんな悲劇ってあるだろうか。
司馬の取った行動は正しかった。
彼だけが、石川先生の性質を理解していたのだ。あれだけ衝突していたのに。
そして、石川先生だって、あれだけしつこく司馬に関わり続けたんだもの。
二人が親友になってほしいと思うのは、女のセンチメンタリズムなんだろうか。
明日、中川先生の命令で、石川先生は司馬に会いに行く。
だから今夜、あたしが知っていることの全てを打ち明けた。
どっちに転がるか――――吉とでるか凶とでるか、分からないまま、感情の赴くまま、全てを石川先生にぶつけた。
あたしが知る司馬の過去と、仮定の上にしか成り立ってないけど、多分本当にあったに違いない事実。
石川先生の知らなかった司馬の素顔を知ってもらいたかったから。
死の恐怖から大分離れた今なら、もう少し司馬を冷静に見てもらえるような気がして。
司馬の辛さと中川先生の哀しさとあたしの青さと――――
司馬が天真楼を去ってから、ずっとあたしが考え続けていたこと。
ほんとうは司馬はあんな人じゃないんだということ。
心には石川先生と同じ、熱いものを持っている、ちゃんとしたドクターなんだということ。
ねえ、石川先生。
先生だって、司馬が嫌いなはず、ないでしょう?
本当に嫌いで憎かったら、わざわざあたしに話を聞きにこないでしょう?
司馬のこと、気になって気になってしょうがないんでしょう?
だったら、今度こそ、司馬を捕まえてよ。
アイツ、妙に諦めいいところあるから――――早くしないと、また諦めちゃうかもしれないよ?
明日――――勝負に出てよ、石川先生。
あたしの持ってた全ての札を託したんだから。
あたし、石川先生に賭けたんだから――――多分、中川先生も、ね?

明日、きっと風が変わる――――
それを見るために、もう少し飲んで、眠ろう。
だって、前夜なんだもの――――何かが変わる、そのときめきを抱え込んだ、どきどきするようなイブ。
あたしだけじゃなく、石川先生も中川先生も司馬も、多分感じているはずの夜。
きっと何かが変わる。
明日、きっと風が変わる――――今夜はイブ。




♪作者様からのコメント♪
すみません、まとまりのない文の羅列になってしまいました!
初めて書いたお話らしき(?)文章です。こんなのもを掲載したいとおっしゃってくださったうさうさ様に感謝します。読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。






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やった〜〜〜!!!
ついにいただいちゃいましたっ! 切ない沢子先生のモノローグです。
メールに書いていただいたものを「ください」と拝み倒して、やっと許可を貰いました。ありがとうございまする〜♪
ウチの駄作『僕の大切なひとだから』の
5話に触発されて書いてくださったとのことですが、本当に沢子先生のけなげな心がひしひしと伝わってきて、読んだ後に思わずうなずいてしまいました。
また、明日顔を合わせる石川と司馬の『前夜』という捉え方が、とっても気に入りました。沢子先生の応援もあるんだから、石川、頑張ってよっ!
本当に本当に、どうもありがとうございました〜
反応次第では、また書いていただけるかもしれないとのことですので、皆様、沢山感想くださいね〜♪♪♪