心の香



チャイナ  様



雨の匂いがする、と何故か唐突に一倉は思った。
黙然と包丁を振るう板前の、更にその奥で細やかな音を立て続ける水槽のせいなのか、と思い直して隣席の男を見やった。

飲むほどに蒼ざめるかのような冷え冷えとした横顔を晒して、これまた腹立たしいほどに無口である。少し早いぞとか、止したらどうだとか、至極当たり前な科白を幾度も嚥下しながら、腹いせのように大仰に嘆息してみせたところで眼と眼が合った。
「別に酔ってはいない。君に迷惑はかけん。」
思わず聞きほれるようなしっかりとした声色が返ってきた。
「そのようだな、が俺はもうつきあえんぞ、室井。お前と同じペースでは飲めん。」
「そんなに女房殿の所へ帰りたいか?」
室井はこの男にしては珍しい少しからかうような口調で聞いてきた。
「女房とは、そんなに良いものか?」
こいつはやはり酔っているに違いない、と一倉は思った。
「ああ、その通りだ。お前も考えろ。話がないわけではなかろう?」
「降格処分を食らった男のところになぞこん。なんだ、一倉そんな話がしたいのか?」
そんな話がしたいのか、とは随分だ。女房云々と切り出したのはそっちの方ではないかと一倉は思ったが、口にはしなかった。彼とて目下仕事のことしか頭にない男を相手に女の話がしたいわけでも、女房自慢がしたいわけでもなかった。
「降格処分のことは・・…」と言いかけた一倉を室井は遮った。
「――――いい。それはもう・…俺は自分が間違ったとは思っていない。愚痴りたいわけでもない。」
言いながら杯に注ごうとするその手を一倉は制した。
「もう飲めんと言ったろう。切り出しかねていることがあるなら遠慮はいらん。酔いは充分に回った。この酔った頭に浴びせたいことがあるなら存分にやれ。明日には忘れてやる。」

数間ばかりの狭い間口を潜るとすぐに縦長いカウンターが続き、入り口に最も近い席に座った自分ら二人の他には、奥のテーブル席に男女が一組いるだけだ。それももう立ち上がろうとしている。「おあいそっ」と言う男性客の声に女主人が応え、背後の衣擦れの音がやがてドアの向こうに消えてしまった頃を見計らったように室井が一倉の視線を捕らえた。

「二週間前だ。千葉の主婦殺しの特捜が解散したことは知っているな?」
「ああ、マスコミも騒いでいたからな。新城が出向いた件だろう?容疑者は複数人いたにもかかわらず特定できず、最後の最後に自首してきた同じ町内の主婦も供述に不明瞭な点が多く、結局は時間切れだった。新城の歯軋りが聞えてきそうだったよ。」
新興住宅地で起こった主婦同志の軋轢として、現代社会に内包される様々な問題をワイドショーに提供した事件だった。日中の留守宅の多さ、地域社会の人間関係の希薄さ、個人の寄る辺無さ・…
「最後に自首して来た主婦には息子がいた。高校生だ。が、学校にはほとんど行っていない。家にもろくに帰らず渋谷当たりを徘徊する日常だ。彼にはクスリの前歴があることが捜査途中で浮上した。が、これも関連があるかどうかはやはり特定できなかった。」
視線を落としたまま口元に手をやって喋る声は聞き取りにくい。が、一倉はあらかたを了解した。

背後で、女主人が先刻店を出た客の皿を片付ける音がカチリカチリと遠慮気味にしていた。板前は椀物の仕度に余念がないように見えた。室井は大きく息を吸い込むと両手を顔の前で合わせ今度は静かに吐きながら、およそ関連のない事を口走った。
「・…脆いものだな、人は・…」
「脆い?何がだ?悪行に対してか?」言葉の真意を量ろうと一倉は一点を見つめたままの室井の視線を掬い取ろうとした。
「愛情に対してだ。全ての愛情に対して人がどれだけ脆いものかと云うことだ。事件の度にそう思う。」
「…愛情を受け入れる能力と伝える能力か…その自首した主婦が実は息子の身代わりだということは世間も喧しかったな、確か。他にも色々あったし、その他の容疑者の影もちらついた。結局は未解決か・…その高校生にはアリバイがあったのだろ?」
「完璧だった・…そうだ。」
「―――らしいな。子供一人の仕業とも思えんが、母親だけとも思えん。」
「一倉、今日クスリの売買に関係してくる未成年者の割合はどうだ?」
自分は少年課にいるのではないかと錯覚するほどだ、と返す一倉の口元を、室井はゆっくりと見つめ返し「二係に話は通してある」とだけ告げた。一倉は苦笑し、明日の朝には忘れてやるさと少しばかりの応酬をしたが、それきり暫し黙した。そして、悪いが吸わせてもらうと胸ポケットから封を切っていないタバコを取り出すと一本抜き取ったところで、「なぁ」と切りだした。
「俺も現場の経験が充分とは言いがたいが、少し前までは理屈上アリバイを崩せずとも母親か息子のどちらかを口で落とせる刑事がいたものだな。」
ああ、と応える室井の脳裏に和久の渋面が浮かんだ。が同時に白昼夢のように人通りのない住宅街に、この泥臭いほどの情深さをたたえた老刑事は如何にもそぐわないと感じた。しかし、その違和感こそが今回の事件の遠因でもあり、また現場がそれらに対応しきれなくなっている理由であろうとも思った。
50年以上もかけて起こった変化の結論はここ10年でその輪郭を明らかにし始めた。均質化した街並み、清潔な道路、生きている人間が見えにくい社会はただそれだけで充分に不幸だ。モデルハウスのような家々に住むのは、それでも泣いたり笑ったりしたい人間なのだ。かつて、人々がそぞろ歩き、立ち止まり、物売りの声を聞き、子供が走り、喧嘩をし、泣いたり笑ったりした路地は今では昼も夜静まりかえっている。繁華街すらかつての猥雑さを失いつつある。この静けさと反比例するように犯罪は増える一方だ。現代は「個人」を重視するあまり、逆に「個人」を希薄にした。
事件は人が起こすにもかかわらず、彼らと本当に話しのできる捜査員は減っていく。
捜査員の質の低下は事件の迷宮入りを呼ぶ。未解決事件は今後益々増えていくかもしれない。現実味の希薄な街を抜け出し、それでも人が群れているような繁華街に吸い寄せられる未成年者たちが起こす事件の裏を返せば、どれもこれも脆いばかりの人肌の欠落があった。しかしながら、それでも単身身代わりになろうとしたかもしれなかった母一人の心情に一体どれだけの捜査員が対峙し得ただろうか?或いは…と室井は思った。和久ならどうしただろう。そして更に、もし彼なら・…青島ならどうしただろうとも考えた。

突然がらりと引き戸が乱暴に開けられた。と同時に4・5人の男女がほとんど跳び込むような勢いで入って来た。彼らの髪も肩も濡れている。
「ああ・・やはりな。」と一服し終わった一倉が室井に聞かせる。
「匂いがすると思ったんだ。」
「何のだ?まさか雨の匂いがしていたと云うわけじゃあるまい?だとしたら動物並の嗅覚だ。感服する。」
そうかでは感服してくれ、と一倉は口の両端をきりりと上げて見せた。

座敷いいですか?と中の一人が店の奥に向かって声をかけると、皆後に続いて靴を脱ぎ始めた。男はスーツ、女もOL風の装いだった。あっと云う間に店内に引き込まれた冷ややかな雨の気配が室井と一倉の鼻腔を掠めていった。
本人は無意識であったかもしれないが、室井が彼等の中の一人に一瞬眼を奪われたのに一倉は気づいた。
「驚いたな。背格好と声が似ていた。奴かと思ったよ…ほれ、例の湾港署の青島、場所もそう離れていないしな、鉢合わせても不思議じゃない。」
成る程、声と外見がわずかに似ていたかもしれない。ちょうど彼に思考が至った時だったせいか、はっとした表情を一倉に読まれたことを室井は悟った。

嫌ではなかった。
そのせいか我知らず笑みがこぼれていった。

女主人の明瞭な声と複数の男女のさざめきに、夢から覚めたように顔を上げ背筋を引き伸ばそうとした一倉は、同時に室井の口元に広がっていく微笑を眼にした。
波紋のように静かな笑みだった。
その実口角はさほどあからさまに持上げられているわけではない。かつて一度も見たこともなければ語られたこともなかった、常には包み隠されたままの謎の答を見る心地がした。

店内の雨の残り香は、ひそひそと寄り添うように頬や鼻孔の辺りに漂い続けていた。
微量な湿気を帯びた空気のざわめきの中で見せた室井の一瞬の変化と、その後に口元に広がっていった不可思議な微笑を、一倉は胸が細波立つ思いで眺めながらも、終には何も尋ね得なかった。

そして、尚も見つめ続けるしかなかった自分を今も苦笑と共に思い出す。
ただ、声に出して語ってはいけない、生き抜くための符号のように侵し難い、とそう悟り、悟ることで独り見送ったその微笑は、後々になるまで幾度となく甦り、深々と一倉自身の肺をも満たすこととなった。




♪作者様からのコメント♪
……というわけで、「非やおい話」でした。
だから何なんだ、と思った方御免なさい。

「雨の匂いも嗅ぎ分ける男」一倉が、それでも何も言わずに黙って見送るシーンが書きたかったのです。
そして、青島君と室井さん、室井さんと一倉さん、それぞれの心の間合いの「香り」のようなものが、もし描けていたらご喝采(無理か・・・)。短い断片の、そうストーリーもないお話をアップしてくださって有難うございました♪


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うふふふふ、大人のオヤジ達の会話がなんともいえない室井&一倉話をもぎ取らせていただきました♪♪♪
まず、大人っぽい文章にくらくらしますね。お話に相応しい硬質な文体と豊かな表現力が見事です。
そして、短いながらもお話の構成がお上手で!!!←切実に羨ましいらしい(爆) 「愚痴りたいわけでもない」と言いつつ一倉相手に少し胸の内を吐露する室井が和久さんの存在へ思い至るまでや、其処から青島のことを考えるくだりは、凄く自然な流れだなあと感心しきりです。現実に多発している警察不祥事をも踏まえて、室井達の焦燥や疲弊が直に伝わってくるようですね。
そして、一倉に表情を読まれたと悟ってなお、微笑する室井と、その微笑の意味するところを感じつつ何も言わない一倉が、もう、渋くてたまんないです〜!!!!! 二人の間にある、ほどよい距離感がしっかり伝わってきました。
青島との間に在る、『夢』や『理想』を共有しての信頼とはまた違ったカタチの信頼で結ばれている室井と一倉の関係が感じられて、一倉好きな私は思いきり堪能させていただきました。
「非や@い話でもかまわないでしょうか?」とのことでしたが、仕事をする男達の幕間がこんなにきちんと書けてるのなら、何の問題もありません。オヤジンスキーな管理人はめっちゃくちゃ刺激されまくりでした。
チャイナ様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜