深海の月



夜船  様



書類の山にざっと目を通し、既に冷めてしまっているコーヒーを啜って一息つく。目頭を押さえて時計を見ればとうに日付が変わってしまっている事に気付き、今度は溜息が口から漏れた。連日の書類攻撃に辟易している自分がいる。上ヘあがるというのはこういう事を言うのだと納得していた筈なのに、管理官時代の熱を忘れそうなもうひとりの自分が存在しているのもまた事実。
「こんな事を考えていると後が大変だな」
肩を竦めて室井慎次は苦笑した。
そう――彼は決してこういう自分を許さないだろう。
プライベートでは地を出せやらお堅いのは嫌いだのと文句の多いくせに、これが仕事となると妥協や疲れを一切認めない。自分のやりたいことをやる、己の正義は崩さない――いかにも厄介な男なのだが、それと同等のものを求めるのはあんただけなのだと目が雄弁に物語っているから気を抜く事など出来よう筈がなかった。理想と現実との狭間で揺れるのは自分だけではない。現場の彼のほうがそれを思い知る場面が多いだろう。
――それでもやりたいようにやって、最後は帳尻を合わすところが如何にも彼らしいか。
ソファーにぐったりと凭れて室井は、彼――青島俊作――の容姿を思い出す。意志の強い二重のはっきりした目と、普段はやに下がった唇のラインまでが確かに人好きする作りなのだと思う。浅黒い肌には幾つかの傷があり、致命的になるものだったものがふたつ今でもその存在を誇示している。ふたつとも己が関係している傷なのだ。
酒を過ぎて泊まりに――どちらの部屋かはその時々で違うが――なり、それ様に用意された寝間着に着替える時でさえ青島は素肌を見せるのを無意識に嫌がった。多分自分が一度それを見た時、苦々しい表情をしたからなのだろう。自分が気を付けてさえいれば回避出来たであろう事が、今でも胸にしこりとして残っているのを彼はとうに気付いているのだ。
「だからこれは別にどうって事ないでしょう、俺はこうして生きてんですから」
あの時少しむくれた顔で青島はつっけんどんにそう言ってトレーナーにざっと腕を通した。
そしてじっと室井の顔を見て
「今度からそんな顔したら、二度と俺の裸は見せてやりませんから」
「それはどういう意味だ」
「判んなかったらいいです」
室井の寝室にひかれた客用の布団に潜り込んで、青島がそっけなく答える。どうやら甚く機嫌を損ねたらしい彼に無意識に溜息を吐くと、今度は布団の中でくぐもった声が
「俺は現場の刑事だから。これからだっていくらでも傷が出来るだろうに、いちいちあんたにそんな顔されたんじゃ気詰まりになっちまいますよ、俺」
「そんなつもりは無いんだが……」
「あんたはあんたの場所で頑張る。俺はそういうあんたが良いんだ。この傷は俺の勲章です――事件にきちんと向き合って、逃げないで出来たんだから」
それでも――室井は言えない言葉を喉で止める。
それでもお前が死んでしまうかも知れないと、凍えそうな指先を必死に堪えた俺の気持ちは判らないだろう、青島。現場にいるからこそお前は生き続けなきゃならない筈だ。俺との約束は互いが生きていてこそ意味のあるものになるんだから。
――まぁ言わないが。怒るのは目に見えてるからな。
「判ったからもう怒るな」
幾分声に宥めるような色を乗せて室井がぽんと布団を叩く。子供なのか大人なのか扱いを読み違える事も多かった室井だが、最近は青島の声のトーンでそれを図る事が出来るようになった。彼にしてみれば大した進歩だ。誰かを想うと言う事は、こういう事か。
「いい加減布団から出てこないか」
いつまで顔を見せてくれないつもりだ。キスすらさせないつもりか?――そう言った室井に過剰反応したのは青島だった。
「――!!」
がばりと布団を跳ね上げ、まじまじと先程の台詞を言った男の顔を見詰める。平然とした顔に僅かばかりの笑いを見つけた青島が、今度はぐっと彼を睨みつけた。
「からかいましたね」
「からかうなんて人聞きの悪い言葉だ」
すました顔で室井はそう言い、素早く布団を足元まで捲り上げてしまう。これで布団にはもぐり込めないだろうし、面と向かって言葉を紡がなければならなくなる。
青島は勘が良い。けれど言葉を大事にしたがる傾向があった。営業畑から流れてきたから雄弁なのは認めるが、彼のモットーは『話さなきゃわからない』だそうだ。
「目を見て話さないと相手の考えている事が判らない――そう言っていたのは誰だ」
「もう眠いんです。明日も仕事、仕事」
もう一度布団を被ろうとした青島の腕を掴み、室井はゆっくりと言葉を噛み締めるように言う。
「俺はお前のように生憎雄弁じゃない。青島――約束はひとりで出来るものじゃないだろう」
「室井さん……」
「君がいて現場で頑張っているから、私もこうして頑張れる。君の傷をどうのこうの言っている訳じゃないんだ――あの時もう少し早く判断できなかった自分を戒めていた。それだけだ」
「室井さん……あんた早死にしそうだ」
こんと胸に頭を預けて青島は小さく笑った。そういう律儀で頑固なところが気に入っているのだと言えば、面倒な奴を好きになると呆れられるだろうか。だからこそこの男でないと駄目なのだ。
「青島……?」
「気持ち良いもんですね、こやって人の心臓の音聞くのって」
低く笑う青島に肩を抱くことで返事をかえした室井だったが、結局そのまま眠気に負けてしまった青島を布団に転がせて自分もベッドに倒れこんでしまった。
あの日から青島が何度怪我してきたか、数えるだけ馬鹿らしい。所詮デスクの上から見ているだけの人間に現場の事をとやかく言うことなど出来ない――そういう事だろう。本来なら現場に出たいのだ、自分も。あの感覚はそう簡単に忘れるものじゃない、熱くて濃縮された時間の中で前へ進む事を、緻密に計算されたあらゆる可能性のたったひとつを追い詰めていく達成感を。
けれど青島の求めている自分はそうじゃない。
理想が高く、不正を嫌い、間違った事を良しとしないキャリア。現場の事を考え判ってくれて、現場が動きやすいように取り計らえる官僚。
「決めたんだ、俺は」
幼い頃憧れたブラウン管の中の、刑事。正義感が強く悪を決して認めない、そして被害者の為にも――時として被疑者の為にも命を張ってしまう男。そんな刑事が今でも存在していたとはついぞ知らなかった。けれど知ってしまったからにはもう手放せない。エゴであろうが構うものか――室井は疲れた眼球を瞼の上からゆっくり揉んだ。唯一無二の男から受ける信頼は、野望も上昇志向もある己にとって甘美なものである事は間違いない。その為にはいくらでも努力する。
そういう想いもあるという事だ。
書類の山を鞄に詰め、外をふと見やる。今宵は満月……星が見えない都会でも、平等に月はその姿を見せている。そう言えば田舎で見た盆の月は、巨大で赤々といっそ禍禍しく少年だった目に映った。この慌しい場所に来てからあの月を見た記憶がないのは、忙しかったからだとは言い訳で、結局余裕がなかっただけの事だ。
余裕がないと見逃す事も多いのだと、青島から教わった気がする。それにかまけているともっと大事なものを見失うのだとも。何度それで彼を失いそうになった事か――室井は自嘲気味に唇を歪めた。
もう失う事は出来ない。
その手を振り払う事も、手放す事もしてやらない。
「そう仕向けたのはお前だろう、青島」
青白い月の下、見慣れたコートと煙草の赤い焔が見えた瞬間、室井は自嘲の笑みを自信の垣間見えるそれへと変化させていく。
欲しいものは何としてでも手に入れる。
人生において無二だと知ってしまったからには尚更。
「月が知っている、か」
近づいてくる影を見詰めながら、室井は月から隠すようにカーテンをゆっくり閉めた。久し振りの逢瀬に月はあまりにも無粋だろう。
「せいぜい羨ましがっていろ」
遠慮がちに鍵を開ける音を聞きながら、彼は深海のような部屋のソファーへとゆっくりその身を沈めた。

−2000/9/17 UP−




♪作者様からのコメント♪
長のお久で御座います……忘れ去られているかと心臓破裂ものですが……。
リハビリと言う事で「番外編」短いやつですが、お目汚しで御座います。
次はお初……!?出産までに書けるか、夜船っ!

ちなみに、彼らはまだでしょうか?済ましておりますでしょうか?(笑)
書いていてどっちだろうと我ながら困ってしまったのでした←お馬鹿。


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二人にとって青島の身体の傷迹というのは苦い思い出ですが、それを見てふと己を省みる室井といなす青島―――どちらがより切実に相手を必要としているか…ということになったら、やはりそれは室井さんのような気がします。男女の恋愛でもそうですが、相手を好きな度合いというのは必ずしも同じではないと思うんですね。くっついて付き合い出しても、どちらかがどちらかにいつも少しだけ片想いしているのではないでしょうか。
年下の上司や頼りにならない課長(←おいおい)に振り回されはしても"良き仲間達"に囲まれている青島サイドに比べると、周囲に対して気を抜くことの出来ない室井サイドはどうしても辛い。だから、相手の存在が強い支えになるに違いありません。今でも現場に出たいという気持ちはあるのだけど、青島や現場警官達が自分に寄せる期待を知って、上への道を突き進もうとする姿がとても潔く、惚れ惚れしてしまいます。やはり、室井さんはこうでなくっちゃ!と思いました♪
ところで、室井さんに肌を見せるのを嫌がる青島くんですが、科白のやり取りからすると、まだ一線を越えていないのかしらん。尤も、既に済ませていてこういう科白(「それはどういう意味だ」)を言ったのだとしたら―――めっちゃくちゃ余裕ということになりそうですね〜(結局ドッチなんだよ、アンタ・爆)
夜船様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜