黄昏に浮かぶ月



夜船  様



ずきずきと痛む腰の傷で目が醒める。
既に一週間はこうしてうつ伏せ状態ではないだろうか――青島俊作はげんなりと溜息をひとつ、ついた。
流石にいつまでも人工呼吸器はつけられない。と言って、この鼻から差し込まれたチューブはどうにかならないものだろうか。
「……痛っ」
チューブを触ろうとしてまた傷が痛む。
「もう〜!どうにかしてよぉ」
情けない声で呟いた時、ドアがノックされひょいと真下正義が顔を覗かせた。
「――何やってんですか?先輩」
「駄目ですよ!そんなに動いちゃ!」
後ろから柏木雪乃が真下を押しのけ、青島の乱れた布団をかけ直す。
「雪乃さぁ〜ん、これ取ってくんない?」
ちょいちょいと、鼻に差し込まれしっかりテープで張られた酸素吸入器を指さして、青島は情けない声で雪乃に助けを求めた。
「なに言ってんですか、先輩。先輩の意識が戻んなきゃ、これじゃなくて喉に穴、開けられてたんですよ。そうなったらこうして喋れもしないんですからね。これだけで感謝しなくっちゃ」
「――真下。お前随分偉そうになったんだな。俺がちょっと寝てる間に」
「寝てるんじゃなくて、入院です」
きっぱり言った雪乃に青島の眉が垂れる。怪我は大変だ。何せ意識がはっきりしている分だけ体を動かせないのが苦しい。しかも青島はいつもちょこちょことしているから余計に身に染みる。伏せで寝ているのも非常に辛い。
「これ、すみれさんから。花とメロン」
「すみれさんから?嬉しいな」
「あ、これのお礼は考えとくって」
「何で?お見舞いにもらった物、何でお返しがいるの?」
青島の非難に、にっこり雪乃が笑った。
「青島さん知らないんですか?快気祝いってあるんです」
「え〜!」
またまた情けない声を出す青島に、真下と雪乃は互いの目を見てほっとする。一時は駄目かと思った。いつまでたってもすみれからは連絡が来ないし、何故かキャリア連中までもが意気消沈していたのだから。
交通規制が解除され、慌てて署に戻って一時間。
待ちきれなかった二人は課長をなんとか説き伏せ、病院へ行ってみればすみれが一生懸命青島のコートを洗っていた。
手が真っ赤になり水がすみれの服までも濡らしている。それでも必死に血を取ろうとしている彼女に、二人は掛ける言葉すら思い浮かばなかった。
「すみれさんに、きちんとお礼言わなきゃ駄目ですよ」
「?」
目を潤ませて言う雪乃に怪訝な顔をし、次の瞬間青島はゆっくり笑った。
「判った。有難う、雪乃さん。真下も――心配かけてごめんね?」

仕事中に抜け出したのだと笑いながら、慌しく二人が帰っていくのを笑顔で見送って。
ひとりになった時、青島は小さく溜息をついた。
実は昨日、新城が来て室井の降格を告げていった。
ある程度の予想はついていたけれど、それで後悔なんてしないけれど、少しだけ胸が痛かった。怪我の所為で室井ひとり責任を負わせてしまったかのようだ。あの時ほんの少し注意すれば、刺される事はなかったのかも知れない。
いまだ心臓の音と共に存在を示す刺し傷。遠くなる意識の中ですみれと室井の叫びを聞いたような気がした。
――あんな遺言みたいな台詞吐いちゃって、俺って底抜けの馬鹿?
少しばかりの気恥ずかしさにひとり枕に顔を埋めてみる。そうするともっと空しくなった。
もう気付いている。
ずっと前から。
多分、放火未遂の時。
室井に裏切られて絶叫したあのスタジアムから。
――これって。
胸が痛んだのは室井に最後まで信用されなかった事。あの人ならきっと判ってくれる、信じてくれる。そんな身勝手な思いを無視し、冷たい顔で闇に消えていった室井の姿が、今も小さな染みになって心を揺さぶる。非道く悲しくって切なかった。査問会の時、異議を唱えない事が自分の正義と顔を上げた。許しも請わない、謝りもしない。それを認めないと言うのなら、もう室井とは一緒にやっていけないだけだ。
あの時の言いようのない思いを、今なら名付ける事が出来る。
「知りたくなかったけどね」
出来れば一生。だってこれは実現する筈のない現実なのだから。理想はきっと実現する。ふたりなら大丈夫。自分がひとりになってもと躍起になっていた時、やはり室井も必死に上へ登っていたのだ。
――あれは自分で言うのもなんだけど、感動したよね。さすが室井さんって。
だから『確保』っていわれた時、当然だと思ったし、室井さんなら言ってくれると確信だってしていた。処分は覚悟の上。真下が情けない声で室井の降格処分を言い淀んだ時、笑ってしまったのはその所為だ。
でも。
この想いだけは駄目だ。邪魔にしかならないと判っている。室井さんだってきっと迷惑な筈だし。
「俺らしくないよなぁ、うじうじしてんのって。やだやだ」
一生墓場まで持っていくしかないか。相手はあの室井さんだもの。きっと天地がひっくりかえっても気付かないに違いない。
朴念仁だからさ。そんなとこも気に入ってたりするんだけど。
せめて『君』が『お前』、『私』が『俺』になった事だけでも見っけもんだよね、やっぱり。一緒に飲みに行くなんてもしかしたらないのかも知れない。きりたんぽだって約束果たしてないし。あれ、一度食べたかったのにさ。きっと忘れてるよな、室井さん。
相手が悪すぎる。青島は小さく笑った。
眉間に皺を寄せ、背筋をぴんと伸ばして歩くキャリアな室井をこよなく愛している自分に気付き、心の整理もつかないうちに誘拐事件が起きてしまった。睨む青島に少し眉を上げ、何も言わないでドアの向こうに室井が消えたとき、このまま終わりになるのは嫌だと強く思った。
あれは執着だ。室井の目を自分に向かせておきたいと言う、エゴ丸出しのどうしようもない感情。
「大人なのにな、俺」
いい加減動かない体にあきれて、青島は寝返るを打とうとして、息を詰める。
動けない体と先へ行けない心――こんなにも自分は無力だったろうか。情けない事この上ない。こんな自分を絶対認めない。
「っきしょう!ぜってぇ動くようになったらリハビリしまくってやる」
拳を握り締め青島は唸った。
「早く現場へ戻らなきゃ。室井さんとの約束守んないとね」
約束――二人を繋ぐ唯一の絆。室井と会えた事は奇跡に近いのだと、青島自身が知っている。
あんなにも所轄の事を考えてくれるキャリアに会えたのだから。少しづつ距離を縮めていっていろんな事があって、今の二人がいるのだ。これ以上何を望むというのだろう。
それでも時折胸が疼くくらい室井に会いたくなる。眉間に寄せた皺がほんの少し緩んだ笑顔が見たくなる。堅い口調が優しさを含んだものに変わるあの瞬間が欲しい。情けないくらい室井が大切だと、気付いた自分はもう何も知らなかった頃には戻れないのだ。
「早く会いたい……」
でも会うわけにはいかない。病院へ来るヒマがあったら、上へと駆け登る時間に使って欲しい。たとえそれが自分の我儘だとしても。
「それだけ期待してんですからね、室井さん。俺の純情――無下にしないでくださいよ?すぐ俺も現場へ復帰しますから」
それしか繋ぐものがないのなら。理想を通じてしか語る言葉がないのなら。この気持ちを最後まで室井には知らん振りを決め込んでしまおう。
「……なぁんてな」
夜には魚住が来ると言っていた。すみれは夜勤だから今日は来ない筈。
「ああ、早く捜査したいなぁ……」
室井の分まで。上にいく度デスクワークが多くなる彼の為にも、立ち止まる余裕はない。
「頑張っちゃうもんね」
窓から見える青空にこっそりと青島は呟く。
「誰のために頑張るかは内緒」
記憶が無くなる前に聞いた室井の悲痛な叫び。ちょっと嬉しかったりした事も誰にも言えない。言えなくて良い、自分がしっかり地に足をつけてたらね。
「俺って大人だもん」
うとうとしかけた頭の中で、やっぱり青島は情けなく笑っていた。室井は相変わらず難しい顔で「早く復帰しろ」と呆れた調子で見る。
考える時間があり過ぎるというのも、考えもんだ。
意識が無くなる瞬間目の端に映った黒い影を、願望が生んだ錯覚だと呆れて苦笑しながら。
良い夢が見たい。せめて室井が笑っている夢が。

「寝てるのか?青島」

−2000/3/26 UP−




♪作者様からのコメント♪
カップリングになっている「青島編」です。
タイトルは月が見えない状態の空を、現してみました。
どちらも言ってはいけないと思う心の内を、月に。
言い出したくて言い出せない――いつか暴かれてしまうんじゃないか。
知られたらこの関係がお終いになってしまう……。
どうも私の中のふたりは、無理に『想い』を封じ込めようとしているようなのですが……。


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『宵闇に浮かぶ月』をいただいた後、「これの青島編もあるんです」と言われたのですね。で、青島くんが自身の気持ちに気づくお話をこうしてもぎ取りました♪
自分の中にある想いの正体を正確に見極めてしまったら、逆にそれを成就させることを願ってはならないと決める青島くんの心理が、もう、たまらないです。『踊る〜』ヨコシマワールドでは、こんなことを考え出すと話が進まなくなって困るんですが、でも、この、お互いが押し殺しているギリギリの感情から滲み出る刹那さと色気に、果てしない魅力を感じるんですよねぇ……
私は二人をとっとと引っ付けてしまいましたが、逆に相思相愛なのに敢えてその線を越えず踏み止まる二人というのが、大人で男っぽいと思ってしまう―――このシチュエーションには、強く惹かれます。
彼らは、これからも理性的な大人であろうとして己の感情を抑圧し、危険な駆け引きを続けていくのでしょうか?