つゆのあとさき



夜船  様



そよそよと葉桜がベンチに影を落とす。見ようによっては、あんな幻想的な美しさがどこにあったのだろうかと思う程、桜の木は青々と元気だ。まるであれは一夜の夢を見せてあげただけだよと、言わんばかりの生命力。
「そう言えば俺って一度もここで桜、見てないよね」
ちょっと寂しいものがあるかも知れない――青島俊作は木漏れ日を降り注ぐ枝を勢い睨んでしまった。
一度目の春は交番で。二度目の桜は病院で。
トレードマークのコートはもう要らなくなってしまった。気が付けば湾岸署にいた季節はいつも冬だった。
「でも良かったよなぁ。血が落ちて」
今年の冬に刺され、血がかなり着いてしまっていたコート。それを恩田すみれは一生懸命水道で洗い流し、その後クリーニングへ出したのだと入院先の病院で真下正義から聞かされた。
「だって青島君のお気に入りだから、戻ってきた時なかったら可哀想じゃない――って」
真下と一緒に訪れた病院で,そう柏木雪乃は半分泣いて半分笑っていた。
「目に一杯涙ためて、水も冷たいのにすみれさん必死に洗ってました。きちんと約束果たしてもらうんだからって。救急の処置室って入れないじゃないですか。説明だって処置が終るまでなかったし……」
「心配かけてごめんね?」
済まなさそうに頭をかく青島が、雪乃の腕をぽんぽんと叩く。悲しくなるほど人の気持ちに真摯であろうとする彼に、泣かないってすみれさんと約束したのに――そう言って雪乃が笑う。
「青島さん、退院したらすみれさん、新しいコート買って貰うんだって言ってましたよ。青島君の血が付いたコートなんて、縁起が悪くってもう着れないからって」
「ひっでー」
情けなく青島が嘆く。
「あ、そうだ、先輩。これ室井さんから預かってきました。忘れる所だった」
真下が茶色の封筒を見せると、さも可笑しそうに青島が
「どうせ室井さんの事だから、労災の申請書でしょ?らしいけどね」
「お見舞いに来ないんでしょうか?室井さん」
「雪乃さん。俺は来なくていいの。だって室井さんはやる事が一杯だから」
「――聞いたんですか?降格の事」
声を落として言った真下に、「なになに」と青島が目を見張る。
「こんな事でめげないよ、あの人は。きっと上に行く――どんな障害があろうと、上に行くんだ。だってね、真下。あの人は室井さんだよ?」
確信を込めた言葉。
だから真下は何も言わなかった。
あの時の、胸を締め付ける光景の中で交わされた二人の会話を。

……ドアの向こうで医師が大声を張り上げ、看護婦がばたばたと走り回っている音。しんとした病院での不安。
「恩田君――後は任せてもいいか」
そんな中,室井は押し殺した声ですみれに言った。
「なに?」
「私はこれから本部へ戻る。後の処理が残っている」
「こんな時に?」
あからさまなすみれの非難に、室井の眉間の皺が深くなる。
「青島君は、貴方の為に確保を躊躇った。無防備だっだわ。だから母親に刺されるなんて事になったのよ?二人して何があったかなんて知らないけど、私は貴方を責める資格、あると思うけど」
「ああ、だからだ。私は私のやるべき事をやる。そうでなければ、青島が怒る」
「青島君が?」
「そうだ」
ふと目をやった室井の拳が小さく震えているのに気付いたすみれは、
「――いいわよ。その代わり、なに奢ってくれる?」
湾岸署のワイルドキャットは、気丈にも挑戦的に笑ってみせた。
「君に任せる」
「後悔しないでよ」
ひとつ頷き、室井が血染めのコートをはためかせ廊下をまっすぐ歩いていく。それを見送りながら、すみれは少し口惜しかったのだと後に真下に言った。
それは自分も同じ事だと彼は思う。一緒にいる時間は室井より多いはずだ。なのに青島が選んだのは室井だった。信頼と理想で固められた、強固な赤いロープ。それが欲かったのは自分なのだと、柄にもなく真下は苦笑する。きっと片方がいなくなっても残された方は夢の実現へひたすら駆け上がるのだろう。傷付いた顔すら見せずに。
――それに関しては、どうも先輩に分が悪そうだけど。なんたって、現場の刑事だし。
「先輩も早く良くなってくださいよ?僕の時より入院が長引いたら、笑ってやりますからね」
馬鹿。そう言って青島は破顔した。

「結局真下より長くかかったよなぁ」
上を見上げながらポケットに手をやり煙草をだそうとして、ふいに節ばった手が青島の腕を掴んだ。
「病み上がりが何をしている」
目をやるとそこには室井が難しい顔をして、煙草を吸う行為を阻止しようとしていた。
「室井さん!」
驚きと喜びの混ざった笑顔。
青島の隣に座り、室井は「ここで何をしている?」と尋ねた。
「なにって……昼飯の一服です。中じゃうるさいのなんのって。ちょっと煙草を持とうとすると、非難されるし。いつの間にか机の灰皿無くなってるし。室井さんだってそうすよ?俺は病み上がりじゃないんです、病気じゃないんですからね。ただのけがですって」
「何を言ってる。聞いてるぞ、医者の言う事も聞かず半ば強引に退院したんだってな」
「違いますよ、これでも俺は優等生の患者っす」
胸をはる青島に溜息が室井から漏れる。
「それに見舞いに来ないと思ってたら、復活なんすって?ザ・警察官僚」
「ああ」
「俺も今週から現場復帰です」
「そうか」
「なにせ退屈だったんすからね、入院生活――あ、それと見舞い有難うございました。遠慮なく提出させてもらいましたから」
「――もう、いいのか」
真正面を見ながら、室井が尋ねた。風が穏やかな、春というには初夏を思わせる陽気に、きっちりとスーツを着こなした彼は汗ひとつかいていない。
普段冷静で沈着なキャリアな彼を、青島は好ましく思う。たとえば夏の盛りでも、彼はエリート然とした格好と態度でまっすぐに歩く。暑いですねと言えば、暑いと思うから暑くなる――真顔でそう言うだろう。
そしてそんな彼が時折見せる激昂や照れを、またこよなく青島は愛しているのだ。気心が知れてから見せる室井の表情は、青島にとっていつも驚きと新鮮さを与えていた。
それでも彼は知らない。
どんなに室井が己を必要としているのか。
自分がすみれや真下と笑いあっている時、和久の説教を辟易としながらも聞いている時。青島の頭には『室井』という字はない。時折どうしているだろうかと思うことがあっても、だからと言って連絡してみるとか考えない。きっと頑張っているだろう――と、それで片がつく。
折に触れ、室井が自分を気にして湾岸署に用事を見つけては出向いたり、こうして自分を見つけると車を止めてまで逢いに来ることに、まったく青島自身は気付いていなかった。
「今日は何の用事だったんですか?」
「――大した事じゃない」
「でも顔、見せてくださいよ?みんな喜びますから」
特に署長とか。さも可笑しそうに笑い、青島は室井を見た。
「良かったすね、降格戻されて。室井さんには頑張ってもらわなきゃ。俺もだから傷、直しました。また捜査できますね」
まっすぐな瞳と何にも壊されない信念と。白目がきれいな青島の瞳が、挑戦的に光る。
「ああ」
だから室井も確約を込めて頷く。
これは決められた約束。いつに日にかあんな事もあったと笑い合えるまでは、決して終らない夢。それこそが二人を引き合い、互いの手を重ね合わせた運命なのだ。
「あ、そろそろ俺帰んないと和久さんに嫌味言わます」
腕にはめている青島の時計が、あの事件と同じ物だと室井が気付く。
「――青島」
「はい?」
「和久さんには私からお礼を言っていたと、そう伝えてくれ」
「和久さんに?」
「世話になった」
首を傾げ暫く何かを考えていた青島が、ふいに笑った。子供のような鮮やかな笑みで。
「判りました。伝えておきます」
「頼む」
はい――そう答えた青島が、大きく伸びをする。が、傷がひきつれたのか、慌てて腰を押さえた。
「無茶するな。お前の悪いところだ」
難しい顔で室井は立ち上がる。湾岸署から少し外れた公園のベンチは、日和の所為かいつもより人が多かった。それを見るとは無く見ていた青島が、ふいに「よし!」と同じようにベンチから離れる。
「じゃあ、俺行きますから。室井さんも頑張ってくださいね」
「ああ、判ってる」
笑みを返し歩き始めた青島に、室井が声をかけた。
「青島」
「はい?」
「――約束は反故だ」
「――なんの?」
「車の中で言った約束だ。お前がいなくなったら俺は上にはいかん」
「なんすか、それ」
「嫌なら生き汚くしてみせろ」
黒い鞄を持ち、室井は反対の道へ歩き始める。背中をまっすぐ伸ばし隙の無い仕草で。青島の言葉など聞く耳持たないと、背中が語っている。
――俺は現場の刑事なんすよ?
「まったく」
もう一度、今度は傷を庇いながら伸びをした青島が、ふいに悪戯めいた瞳で笑う。
そうか、傷の具合を見に来たのか、室井さんは。
「室井さん!今度飲みに連れてってくれたら、考えます」
振り返らず室井の片手がゆっくりと上がった。
「今日は、ぱっと飲みに行くか、真下誘って」
ついいつもの癖でコートのポケットに手を入れそうになり、上着を着ていないことに気付く。世間ではもう夏に向かっているのだ。
「一緒に行きましょうね、室井さん」
煙草を背広のポケットから出し、マッチで火をつける。
「こうでなくっちゃね」
深く息を吸い込むと、青島は仲間のいる所轄へ元気よく歩き出した。

−2000/2/25 UP−



      


♪作者様からのコメント♪
私間違えちゃったでしょうか。
もしかして「歳末」から「秋SP」までの間って,一年あいてます……?
青島君はもしかして、湾岸署で一度桜を見ているんでしょうか……?
もしそうだとしたら、設定無視して読んでください(泣)
ただ、彼らの間で『THE MOVIE』の後、どっちにも謝って欲しくなかったんです。
お互いが判断して、納得してやった事だから。
あ、ちなみに和久さん、室井さんの降格戻しに一役買ってます。


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やったぁー!!! いただいてしまいました♪♪♪
THE MOVIE』後の二人、こういうのが理想だと思います! もしもどちらかが先に逝ったとしても(って絶対ヤですが)残った方は約束を果すべく頑張る―――というのは、やっぱりなんかオカシい。青島くんも室井さんも生きて生き延びて、それぞれの場所で頑張ってこその『約束』だと思うのです。
刺されたその時、青島くんは自分が躊躇ったことを、室井さんは命じた自分を責めたことでしょう。でも、無線に向かって『確保』の一言を叫んだその瞬間は、命令した室井さんとそれを受けた青島くんが同じ信念を通わせられたのだと思うんですよ!! だからこそ、その想いを大切にして欲しい。あの時のことを決して忘れないで欲しいと思いました。
もう、この室井さん、カッコイイですよねぇ〜(溜息) 聞く耳持たないところが男らしいですよ。振り返らないで片手だけ上げて去って行くって、いかにも室井さんの取りそうな態度だと思います。
夜船様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜