宵闇に浮かぶ月



夜船  様



禍禍しいまでに染まった赤いランプが、頭上に光る。
「救急出入口」と書かれた扉の中に入ってから、まだ数分も経っていない筈だ。カラカラと車輪を軋ませながら、ストレッチャーに乗せられた青島が、処置室まで看護婦と医師に付き添われ消えていくのを、私と恩田君は黙って見送った。
鼾をかいて寝ている事実に少なからず心配した事を馬鹿ばかしく感じたのも束の間、恩田君の「血が、止まらない」との声に一気にアクセルを吹かしてここまで来たのだ。そう言えば青島の刺された個所は確か太い動脈が有りはしなかったろうか――。いや、動脈が切れたのならこれだけの出血で済まない筈だ。それでは内臓は――確か腎臓だろうか、あそこに収まっているものは。
一気に考え,溜息を漏らす。ここは病院だ。私が心配するより、医師の方が的確に対処してくれる。
「大丈夫よね、青島君」
隣で恩田君の呟きで、我に返った。そうだ、どうしても確かめておかなくてはならない事がひとつあった。
「いいか、恩田君」
話しても。全て言う前に、きっちり彼女が頷く。恩田君はとても頭の切れる刑事だ。それに冷静なのが有難い。ここで確かめなければ多分二度と聞けないだろうし、ましてや青島がこう言った事に関して驚くほど口が堅いのは、長いとは言えない付き合いの中で充分判っていた。
「青島が刺された時のことを、聞きたい」
「嫌な事聞くのね」
こんな時に――。彼女の瞳がそう物語った。
「私は知らなければならないんじゃないかと思っている」
「後悔しても?」
「――ああ」
ふーん。恩田君の瞳が剣呑に光る。
「青島君に、室井さんは確保っていったのよね、無線で」
「ああ。言った」
「それでも青島君は確保してなかった。無論私もね」
「そうだな」
確かにあの時、被疑者の手に手錠はなかった。
「青島君は室井さんの立場を考えて確保を迷った。捜査一課が来るまで、手錠を嵌める事をしないでおこうと思ったのよ」
なんだと?
「刑事に有るまじき、被疑者に背を向けるって言う暴挙までした。迷っているうちに母親に刺されたってわけ。これで満足?参事官」
きゅっと唇を噛んで、恩田君が私を見る。それに対してどう思うか見定めようとしたのだろうが、その時私が感じたのは青島へ向けての怒りだった。そう――私は青島に『確保』と言った筈だ。確保しろと。
「馬鹿が!」
はき捨てるように呟いた私に、恩田君が「馬鹿とは何よ!」と叫んだ。
「青島君はね、室井さんを――何があったかなんて知らないけど、貴方の立場を考えて迷ったんじゃない!」
「私がいつそれを望んだと言うんだ」
「なんですって!」
「私の立場を思いやって、それで刺されたんじゃ話にもならん――青島が死んで事件が解決したとして、それを私が喜ぶとでも思ったか!」
勢い恩田君を責めてしまう言い方になってしまっていた事に気付き、「済まん」と顔を手で隠す。
「室井さんでもそんな取り乱す事、あるんだ」
嫌味ではない口調に、目線を彼女に移した。
「ああ、やだな、男って。いつの間にかひびが入ったと思ったらくっ付いてる。女の出る幕、ないじゃない」
溜息まじりで肩を彼女は竦めた。
時折患者や見舞い客が私達の出で立ちに怯み、横目で通り過ぎていく。確かに奇異ではあるだろう。男女が深刻な顔付きで言い合い、しかも互いの服は青島の血でまだらに染まっているのだから。それをいちいち睨みながら恩田君がまた溜息をもらす。
「待つって長い。いったいどれだけかかるっていうのよ。あんなにぐうぐう寝てたくせに」
「貧血を起こしたんだろう」
「なによ!あんただって呆れてたじゃない」
だんだんため口になっているのは気のせいじゃないな。
「二人で勝手に分かり合っちゃって。室井さんの立場を思って刺された青島君も、それに怒るあんたも嫌い。もう嫌なのよ、人が刺されたり撃たれたり。刑事って奇麗事じゃないって知ってるけどね、あんまり派手すぎるじゃない。青島君が来てから振り回されっぱなし。馬鹿みたい」
泣くかと思ったが,彼女は泣かなかった。そのかわり
「元気になったら思いっきり高いもの、奢らせてやる」
拳を震わせてそう呟く。
「もう頭にきた!こんなに心配させて。なんだと思っているのよ」
「恩田君……」
「見てろ。落とし前はきっちりたかってやる」
三ヶ月の減俸で最近高いもの食べてないんだから。
キッと処置室を睨む彼女が、突然びくりと肩を震わせた。扉が開き、看護婦が慌てて廊下を走っていったのだ。
「……」
「大丈夫だ」
それが気休めであろうと、私は恩田君に言う。いや――気休めであろう筈が無い。青島は大丈夫だ。あいつは強い。あの軽薄な物の言い方と笑いに騙されるが、あいつは恐ろしい程の確かな自分を持つ強い男だ。
――俺の信じた人ですもん。
ああ。判っている。
――俺たちだけは正しいと信じた事をやりましょう。
そうだとも。だから青島、こんな所で足を止めるな。
「いつまでかかるのかしら」
時計を見ながら恩田君がぽつりと言った。
その時、私は閉められた扉の向こうから青島の声が聞こえたような気がした。
――なにやってんですか、室井さん。事件はまだ終っちゃいないでしょう?いつまでこんなとこにいるんです?あんたは本部長なんすよ。
「恩田君、ここを任せてもいいか」
一瞬、何を言っているのだという目で私を見た彼女に、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「ここを任せても、いいか」

青島のコートを取りに来た恩田君と別れ、所轄に連絡して彼女を後で迎えに来てくれるよう電話で頼んだ私は、警察車両だと見た目でわかるクラウンへ乗り込んだ。
あの時の喧騒は、すでに聞こえてこない。
今はもう検問も解かれ、日常が戻っている筈だ。
そうだ、被疑者は確保した。副総監は無事保護出来た。しかしだからと言って事件は全て終った訳ではないのだ。本部に帰れば山済みの処理が残っている。
じろじろと病院へ出入りする人の視線に気付き、取りあえず署に帰ろうとエンジンをかけサイドブレーキを下ろす。ギアをドライブに入れて発進しようとしたその時、私は息を呑んでハンドルを持つ己の手を見詰めた。
微かに小刻みに震える指。
そしてハンドルにこびり付いている、青島の血。
「くそっ」
こんな所にいつまでも警察車両が止まっていては迷惑だ。とにかくあの駐車場まで車を移動させねば。
震える指を騙し騙し運転し、なんとか駐車場まで辿り着く。
そこまでが限界だった。
「――!!」
ハンドルを思い切り殴り、シートにその反動で体を預けた。
目を閉じるとあの光景がフラッシュバックする。
淀んだ空気に張り付いた鉄の匂い。恩田君の初めて聞いた悲痛な声。
そして目に飛び込んだあまりにも鮮烈な――赤。心臓の鼓動と共に広がる血の中で、その身を横たえた青島の絞り出すような『確保』と言う言葉。
それは私が青島に指示した言葉の筈だった。現場の刑事にしか言えない言葉で私の背中を押した青島の叫びに、やっと『信念』を貫けた――二人の理想を共にする一歩を踏み出せたと思ったのに。
「俺の立場を思って確保を躊躇っただと……?」
それでこの有様か?
青島。
お前がいなくて誰が横を歩くと言うんだ。
俺の目を覚まさせ共に行こうと誓ったのはお前じゃなかったのか。
一課の刑事と共に入った坂下の部屋で、足が竦んで動けなかった自分の情けなさを――お前を失ってしまうのかという絶望を思い出し、両手を硬く握る。
逡巡を繰り返し、その間に青島が刺されてしまった事への怒りがまだ胸に燻っていた。むろん己への嫌悪だ。それより尚ひたすら強く揺さぶったのは、死なせてなるものかという激情だった。
俺をひとり置いていくのは許さない。一緒に頑張りましょうとお前は言った筈だ。そこから逃げるのは決して認めない。お前が必要なんだ、お前だけが俺を強くさせる。この逆境の中でただひとつの記された道を共に歩くのは、青島というただ一人の存在でしかないのだ。
「……!」
それほどまでに俺は、青島に固執しているのか……?
突如として沸いたひとつの疑問に、額を拳で叩く。
一緒に捜査がしたいと、まず思った。
理想を共有する間柄になり、どんなに非難を浴びようと青島と約束した上を目指した。
それで亀裂がはいったが、諦めるわけにはいかなかったのだ。
今回の事件で上からの圧力と屈辱で自分自身の力の無さに屈服しかけていた時、青島は頑張ろうと俺を浮上させてくれた。あの強い意志を少しも曇らせる事のない瞳で。
あの時、また一緒に歩けると確信した。
高みを目指そうと。どんなに離れていても、心は共にあるのだと。
だがどうだ?
青島が刺されてその自信がいきなり手の中から滑り落ちていく。まるで掬っても掬っても零れていく水のような焦り。
あの強い瞳をもう見れない。
会うたび満面の笑顔で走ってくる姿を。
崩れそうになる度引っ張り上げる腕の強さを。
全身の血が引き、体が強張るのを意識にないではいられない。この動揺からくる震えはどうだ。これでは三流映画のまさしく愁嘆場ではないか。愛した相手に先立たれ、ただうろたえ祈る事しかできぬ男の。
――愛した?
愕然と起き上がる。
誰を愛していると言うのだ。
俺と青島は理想を叶えていこうと共鳴しあった間柄だ。それ以上でもそれ以下でもない。友人としてプライベートで会うこともなければ、管理官の職務を新城に譲ってから、恩田君の事件まで話こそすれ顔を見る機会すらなかったというのに。
これからだって会う機会はそうそう無いだろう。多分俺はこの事件で何らかの処分を受ける。どこに飛ばされるか知れたもんじゃない。
そうなったらそうなったでまた上に行くだけだが、上へ上がる度青島との出会いは少なくなっていくだろう。夢は果たす。青島も刑事として下で踏ん張ってくれる。今回の件で、新城がキャリアの傲慢をどうやら青島に撃ち抜かれたらしい事は、コートを差し出したことで想像がつく。きっと青島もこれからはやり易くなる事だろう。
そうして新城が青島を認め、捜査に関わっていく。自分のいない所でもしかすると絆が出来ていくかも知れない。
そう考えた時、突如沸いてきた焦燥感と認めたくない濁りが胸を刺した。
――この感情は、嫉妬だ。
「何を考えている」
大きな溜息をはいた時、胸の携帯が鳴った。
「……室井です」
『恩田です。運転中にごめんなさい』
「いや」
苦笑しながらそう言う。まだ病院から出ていないと知ったら、彼女は大いに怒るだろう。
『青島君、さっき集中に入りました。大丈夫だって先生言ってましたから』
「そうか」
安堵が全身に広がる。
『少し内臓を痛めたらしいですけど、命に別状ないそうです――ただ』
「ただ?」
『思いっきり叱られました。だってパニクッちゃってたから、止血忘れてた。出血多量で殺す気だったのかって』
余程安心したのだろう恩田君はいつもの声色になっていた。
『とにかく入院の手続きをしないと。あ、真下君と雪乃さんが来たから、こっちは大丈夫ですから。お仕事頑張ってね』
「ああ」
『で、目が醒めた時の為に、青島君への伝言を預かりましょうか?』
突然言われ、頭の中でいろんな言葉が巡ったが「あとで見舞いに行くと伝えてくれ」と言う当り障りの無い返事をかえす。
『室井さんらしい』
僅かに笑って、恩田君の携帯が切れる。
――良かった。あの笑顔を私は失わないで済んだのだ。
「もう、二度と御免だ」
溜息をついて呟く。まだ仄かに匂う鉄錆のような青島が流した血。本当に駄目だと思った。
失いたくないと祈った。青島がいたから理想に手を伸ばし、様々な思惑や脅迫にも黙って上に突き進んできた。――そう、青島に無条件で信頼され私は強くなれるのだと、あの後部座席で言ったまるで遺言のような呟きに思い知ったのだ。
「ここまで俺をかき乱して、のうのうと死ねないだろう、青島」
観念しよう。
「このまま引き下がれるか」
携帯のメモリーを押す。目的の携帯番号を表示させると、呼び出し音に耳を済ませる。
「――室井だ。新城か?今からそちらへ戻る。……ああ、青島はもう大丈夫だ。あとは恩田刑事に任せてある。着くまで頼む」
これほどまで心配させ、予定もなかった感情に気付かされたのだ。ならば約束事はきちんと守ってもらおう。
「俺は上へ行くぞ、青島。お前は現場で頑張る――殉職なんざ糞食らえだ」
シートベルトを閉め、今度こそ病院を背に向け私は車を走らせた。
そう、お前が帰ってくる場所――湾岸署に向けて。

−2000/3/8 UP−




♪作者様からのコメント♪
青島君が怪我して、やっと自分の中にある存在の大きさに気付く室井さんを書いてみたいなって思いました。
仕事柄、室井さんより青島君の方が危険だから。
で、最後に強気にシートベルトを締めてもらいました。
私の書く室井さんってこんな人……。


夜船 様へのご感想はこちらまで




へ戻る


夜船様から、またまたいただいてしまいました〜(というより、もぎ取った♪)
『つゆのあとさき』の中で書かれていた、青島くんをすみれさんに託して仕事に戻った室井さん側のお話です。
室井さんの場合、捜査一課の管理官を経験していますので、所謂"死体"については沢山目にしてきたことでしょう。けれど、目の前で自分のよく知っている人間が死ぬかもしれないという場面に出くわしたことは、過去の人生の中でもそうそう無かったのではないでしょうか。それも病気ではなく、突然の事故―――というより、半ば自分のせいで人がひとり、死ぬかもしれない………どうしようもない恐怖と喪失感に襲われて初めて、自分の本心に気づく室井さんの心理がとても自然なものとして伝わってきました。そして、自分の心境に一々理屈つけてるのが、キャリアな室井さんらしい(大爆笑)←私だけですか? だって、よくあるメロドラマな死に別れ映画にかこつけ『――愛した?』って言葉にハッとするなんて、何事もまず頭で考えそうな室井さんらしい気づき方ですよ〜 ここは本当に「そうそう!」と思ってしまいました!!!
そしてまた、すみれさんがすみれさんらしいですよね。二人して集中治療室の前で話しているうちに室井さんとタメ口きいてたなんて、いかにもすみれさんっぽくて、とっても好きです。
「俺もお前も死んでる暇なんか、ないぞ」とでも言いそうな室井さんの根性、もうカッコよくて思いっきりツボです。やっぱり、二人はこうでなくっちゃね♪♪♪
夜船様、本当に本当に、どうもありがとうございました〜