春も終わりに近づき、そろそろ初夏の匂いがする、暖かい朝だった。
あまり使われていない、新品同様の鞄を抱えて、冴子は廊下を歩いていた。時間的には朝のショートホームルームが終る頃だ。案の定、向こうから自分のクラスの担任が歩いてきた。
「お…えーと…」
「…おはようございます、先生」
冴子が軽く一礼すると、担任教師はやっと冴子の顔と名前が一致したらしい。
「ああ、おはよう…大丈夫なのか?倉科」
「ええ…久しぶりに今日は割と調子がいいので」
担任はそうか、とだけ言って職員室へ向かった。
冴子が教室へ向かう足取りは、重かった。何せ始業式に顔を出したっきり、五月になるまで一度も登校していない。担任にすら、顔を忘れられている。ましてやクラスメイトは…
冴子が教室へ入ると、彼らはSHRから一時間目の間の短い時間を、思い思いに談笑して過ごしていた。
「…」
無言で冴子は自分の席へ鞄を置いた。ふと見遣ると、隣の席で一人の男子生徒を取り巻くように、数人の生徒が話をしていた。三年生になるまで、幾らか登校してはいる。生徒の顔も大体見てはいる。しかし、その男子生徒は全く見覚えが無かった。
「それはだな…あいつは?」
中心にいた彼は、冴子と目を合わせた。それに釣られて、周りの生徒達も冴子の方を向く。
「…お前」
「え、私…ですか?」
冴子にとって複数の人間に好奇の眼差しを向けられることは、それほど慣れていないわけではなかった。
それよりも、初対面の相手にお前で呼ばれた事、そっちの方に戸惑いを覚えた。
「お前、誰?見かけない顔だけど…お前も転校生か?」
「…?」
その少年が半ば真顔で、半ば冗談めかして唐突に尋ねたので、冴子は面食らった。
「え、私は、あの…」
冴子が狼狽していると、少年はこらえきれない、と言うように少しずつ笑い出した。それに続いて、周囲も笑い出す。
「くふふふ…悪い悪い。マジでそこまで戸惑ってくれるとは…ありがとうっ!」
少年の笑いが馬鹿笑いの域に達する頃、徐々に自分がからかわれたと言う事実が、冴子の中に染み込んできた。
怒りよりも悲しみが、戸惑いの代わりに劣等感が、冴子を満たしていった。
「…ひどい…」
「あ?」
彼らの笑いが治まった頃、すでに冴子は目元から落っこちた生理塩類溶液の跡だけを残し、入ってきた来年定年の国語教師を突き飛ばして走り去っていった。
「--待てよ」
少年は立ち上がると、尻餅をついた国語教師の脇を駆け抜け、その後を追った。
「…青春だなぁ」
床に尻餅を付いたまま、国語教師は腕組みしながらしみじみ呟いた。
息が切れていた。頭がぼーっとし始めて、自分の現在位置が掴めなくなっていた…ただ走れる方向に走っていた。
気が付くと、校舎裏の桜の木に寄り掛かって、泣いている自分がいる。ただそれだけだ。
初夏だというのにほとんど葉も無く、寒々と立っている桜の木を見上げる。自分と似ている気がした。
…彼女の症例は、かなり希少なものらしかった。
ランドルフ・ウィックス症候群…貧血、心臓障害等を引き起こす先天性疾患だ。そっちの方はとりあえず治療法はあるし、激しい運動をしなければ生活に支障はない。問題は併発している免疫機能亢進症…血液性エリトマトーデス、自己免疫溶血性貧血だ。
他人の体液、その他の生体物質に著しい GVH 移植片対宿主免疫反応を示す。また自己の赤血球にすら抗体を作用させ、その寿命を著しく低下させる。
そのため、輸血、骨髄移植等に際し、細心の注意が必要となる。
興奮したり、激しい運動を行なったりしければ生活は可能なのだが、定期的な入院加療、場合によってICUの世話になることもある。それで一ヶ月休学せざるをえなかったのだ。
そして今、二階の教室からここまで走ってきて、しかも精神は安定していない。
視界から光が失われる遠くなる聴覚の向こうで誰かが走ってくる音と、「大丈夫か!?」という叫び声が・・聞こえ・た・・・・。
「…気が付いたか?」
「え…」
うっすらと冴子が眼を開けると、保健室の白い天井が眩しく見えた。 視線を横に移すと、あの少年が座っていた。窮屈そうな学生服のボタンを外し、ベッドの縁を背もたれ代わりにして床に座っている。
冴子は少年に気付くと、寝返りを打って背を向けた。
「…授業はどうしたんですか?」
「あれから追いかけていって、倒れていたお前をここに運んで、それからずっとこうしている。結局、サボっていることになる」
少年が平然として言うので、冴子は驚いたように少年の方を振り返った
「そんな…私なんかほっといて、授業に行って下さい!!」
「そういうわけにはいかない」
少年は足を床に降ろすと、軽く頭を掻いて、話し始めた。
「そんな事よりも、俺はお前に謝らなくちゃいけない…どっちかって言うと、謝っておきたいと言う方が正確かな」
「さっきの事ですか?」
「…悪気はなかった。が、結果としてお前を傷つけたことに変わりはない。すまない」
率直に謝られて、悪い気はしなかったが、少々のこそばゆさは禁じ得なかった。
「そうですか…もう、いいんです。でも授業は出た方がいいとは思いますけど?」
「今から行っても一限には間に合わない。それよりお前の寝顔を見てた方が興味深いな」
「え?」
冴子の頬にすっと朱が差す。
「ま、また…からかってるんですか?」
「遺憾ながら、偽らざる事実だ」
「あ、あの…そんな」
露骨にうろたえる冴子を見て、少年は軽く左眼を瞑り、不敵に笑った。
「俺は出月誠二郎。よろしくな」
「あ、私は…え、ええと…冴子。倉科冴子です」
冴子はともするとふらつく頭を押さえて、上体を起こした。
「冴子、か。なかなかいい名前だな」
「…ありがとうございます」
冴子が取ったのは素っ気無い態度だったが、内心誠二郎に対して困惑と、不可解な関心を抱いていた。
初めて接触するタイプの人間だった…もともと、他人との接触経験が乏しいのではあるが。
「そうそう、仰向けで寝るのはあまり勧められないな」
「どういう事ですか?」
唐突に唐突な事を言われて、冴子は少し戸惑った…が、徐々にそれにも慣れ始めていた。
誠二郎の持っているその唐突さが、冴子には心地よい刺激だった。
「横向きやうつ伏せの方が、イビキをかきにくい」
「イビキ…?あ、あたし鼾なんてかいてましたぁ!?」
冴子は狼狽し、身を前…誠二郎の方に乗り出した。
「誰がそんな事を言った」
「え?…あっ」
肩透かしを食らわされて、冴子はベッドから落っこちた。
「きゃぁっ!!」
「よっと」
誠二郎の割とがっしりした腕が冴子の体重を受け止め、柔らかく支える。
「…すみません…」
「結構、大胆なんだな」
誠二郎は腕の中の冴子をベッドの縁に座らせると、再び床にどっかと腰を下ろした。
「やだ…私ったら…」
「気にするな。大丈夫か…うわたっ!!」
軽く背を伸ばそうと上体を反らした誠二郎は、背後にあった棚に後頭部をぶつけた。
「出月さん!?大丈夫…」
「あ、ああ…なんとかな…あー痛ぇ…」
バツが悪そうに後頭部をさすっている誠二郎を見ていると、冴子の中に自然と微笑ましさがこみ上げてきた。吹き出しそうになる口元を押さえて、軽く笑いを洩らす。
「うふふふ…」
「…やっと笑ってくれたか」
誠二郎は胡座を組み直し、屈託の無い冴子の笑顔を見上げた。
「俺が頭ぶつけたのがそんなに面白かったか?」
「あ、いえ…そんなつもりじゃ…」
冴子は誠二郎の言葉に一旦笑いを止め、真顔になった。
「ただ…面白い人だなっ、て…そう思って…」
「別に構わないさ」
今度こそ頭をぶつけないように、両腕を頭の後ろで組み、誠二郎は棚にもたれ掛かった。
「冴子の笑顔が見られるなら、幾らでも頭をぶつけてやるよ」
そう言って、誠二郎は軽く口元を綻ばせた。
「…くしゅん」
鼻をむずむずさせる埃っぽい空気が、冴子を思い出の世界から引き戻した。
今日の代表者会の資料から顔を上げた冴子は、視線を上げて時計に眼をやった。
「えーと。そろそろ行かないとまずい、かな」
部室の鍵はいつもかけない。盗まれて困るようなものは…というか、盗みたいと思うようなものが何一つ無いからだ。
JRから私鉄に乗り換えて一区間の真葛野駅前。平日の午後、人影はそうない。
窓を開け放ち、ダッシュボードに足を乗せて一服を決め込んでいる個人タクシーに、バックパックを背負った一人の少年が近づいていった。
「…営業中か?」
「どこまでだい」
運転手はアイマスク代わりの日よけにしていた帽子をどけ、足を下ろした。
「花丸高校まで行ってくれ」
運転手が無言で後部ドアを開けると、少年はバックパックを背負ったまま、シートに深く座った。
「…ウチの社長がご機嫌ナナメでなぁ、昼喧嘩してきたばっかりなんだよ」
中年…いや、初老と言ってもいい短髪の運転手は、ルームミラーで時々少年の顔を見ながら、話し掛けた。勿論前後左右の注意はちゃんと払っている。
「社長?」
「そう。ちなみに俺は専務。同時に唯一の運転手」
タクシーは駅前通りを抜け、国道に入った。
「社長は女房だよ、個人営業だからな。それがまた、月の満ち欠けに合わせて機嫌が悪くなりやがる」
「…男には判らないな、その気持ちは」
少年がそう答えると、運転手はがはははは、と豪快に笑った。
「ちげぇねぇ…!若いのに良く判ってんな、ボウズ」
「あんた、子供は?」
「子供(ガキ)?男が一匹。ボウズそっくりの無愛想な奴でな、あっちゃこっちゃで悪さして、仕舞いにゃ七つ年下の女の尻に敷かれてやがる」
ビルの影から、山稜にそびえるコンクリートの建物が覗いた。割と近くのようだ。
「で、息子に女が出来たら出来たでまた女房が俺に当たるんだ。母親ってのは手に負えねーよなぁ」
「女ってのはそんなものだ」
「んでもって男はつらいよってか?いやー、いいよボウズ!お前いいセン行ってるよ!」
そう言って運転手は車を左折させ、坂道に乗り入れた。そして徐々にアクセルを落とし、[私立花丸学園高校]と表札がかかった校門前に止めた。
「そう言えばボウズ、お前花高に転入するのか?」
ドアが開き、降りようとした少年を、運転手は呼び止めた。
「ん?ああ、そうだが…」
「何でまた?」
少年は一旦考え込み、そして車を降りた。
「昔の女に会いに来たんだけどな」
「あ?ぷ、ぷっははははーっ!」
運転手は馬鹿笑いを始めた。
「いつまでも笑ってると、料金踏み倒すぞ」
「あ、ああ…ぷぷぷ…すまんすまん、980円だ…くっくっく…」
「…領収書くれ」
夏目漱石を一枚差し出した少年の、「領収書くれ」の言い方が堂に入っていたので、運転手は再び笑い袋の緒が切れた。
「うははははっ!女にゃ気ぃ付けろよぉ!」
「そうするよ」
幾らか伸びた髪を押さえあげ、左眼を瞑って歩き始めた誠二郎の背後で、ゴキゲンな感じのタクシーが走り去った。
「現時点において、本校内における少年非行の問題は憂慮すべき事態であり、早急に有効な対策を実施する必要があるのは明白な事実です」
さほど広くない会議室、一番前には校内の治安状況悪化を示すグラフを背に生徒会執行部の面々が生徒会長を中心として並んでいた。…左端の席だけが空席になっている。
「それに対し、我々治安回復及び生徒統制を最重点課題に置くと同時に、新規に治安維持条項を校則に追加する事を決定致しました。…何かご質問は?」
五十神は机に手を付き、起立した姿勢で目の前のクラス委員、各部部長達を見回した。絶望と、不安に塗りたくられた彼らの中で、唯一挙手者があった。
(…来たわね)
硬い表情を維持しながらも五十神は心の中でほくそえみ、これから展開される舌戦に心を躍らせた。
「倉科さん」
「はい」
冴子は歯切れのいい返事と共に起立すると、やや上目遣いに五十神を見据えた。
「それ誰が決めたんですか?」
「生徒会執行部ですわ、勿論」
「執行部員って皆さん五十神さんが決めたんでしたよね?」
「御存じの通り、執行部員は全てわたくしが任命致しました」
冴子は、一旦息を継いだ。
「それじゃ私たち関与できないじゃないですかぁ…」
「既に決定された事項であり、又校則生徒会責務事項改正五条に基づく正式な決定です。あなたの発言は議事進行の妨げ以上のものでは有り得ません」
五十神の隣の席…眼鏡をかけた特別執行部室長、大隅香奈が立ち上がった。五十神の右腕と言える彼女は、生徒会の中枢機関、執行部の実質責任者だ。
「これ以上の討議は無駄なようね。他にご意見は?」
「えー、そんなぁ…」
「御着席願えますかしら?倉科さん」
冴子が着席すると、五十神と香奈も着席した。
「一部に於いては、[世界征服同好会]が不穏分子の組織化を謀っているとも言われておりますのよ」
「え?」
「その中心が倉科さん、あなただとも聞きますが」
「そんな事知りませんけど…」
「静粛に。不用意な発言を控えて下さい、倉科会長」
挙手無しに喧嘩を吹っ掛けるような発言をしたのは五十神なのだが、司会を務める大須賀の批判対象は冴子になっている。この不条理を自己の権力によって成し遂げる瞬間こそ、五十神の活力なのである。
「…そろそろ話は終ったか?」
不意に入り口が開き、一人の私服の少年が現われた。全員の視線が彼を向き…冴子の顔を驚愕の波が走った。
「話の邪魔をしちゃ悪いと思ったんで外で聞かせてもらったが…興味深い内容だったな」
「あなたが出月誠二郎さんね?」
五十神は立ち上がると軽く見下ろすような視線で、誠二郎を一瞥した。
「ああ…飛行機が遅れてな、空港から直行したもんで制服が間に合わなかった」
「…皆さん、この方が生徒会特別執行部の保安顧問となる、出月誠二郎さんです。明日から本校生徒として共に学ぶ事になります」
誠二郎は軽く会議室内を見回した。
「…」
「本日の代表者会は以上で終了します。起立!」
五十神の号令で彼らは起立し、五十神に向かって一礼した。
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