ひき逃げの男 (後編) 「お客さん。終点ですよ」 男は車掌に肩をゆすられて目を覚ました。ぼんやりとした頭でぼんやりと車掌を見上げた。それからゆっくりと立ち上がってあたりを見回した。列車にはもはや誰も乗っていない。 男は車掌に軽く会釈を返すと列車を降りた。それからゆっくりとそれまでを思い出してみる。考えてみるとぞっとするようなことをしでかしたのだと男は思った。それでも気分はすこぶる爽快だった。あれはもう過去の出来事なのだ。自分はあの忌まわしい現実からついに逃げ切ったのだ。このまま、このまま行けば…。 男は歩き出した。その街は男の知ってる街ではないようだった。駅は都心と郊外の丁度中間辺りにあるらしく、そこからしばらくしたところに街のネオンが輝いているのが見えた。その反対側にはおそらく住宅地が広がっていることだろう。 男は当てもなくふらふらと歩き出した。この辺りに住めばよほど便利だろうと男は思った。街中にも程よく近く、駅も近い。通勤にも遊びにも有利で、街中よりもはるかに静かだ。 ふと男は何か物足りないものを感じた。何か、いつもあるものがひとつ欠けている。男はそれが何であるか気になった。財布はある。家のカギもちゃんとある。 「車…」 車は乗り捨てた…。彼の思考が車に思い当たってふと思い出すものがあった。ラジオだ。 「そうか、いつもこの時間ラジオを…」 思い当たって彼背筋が凍るのを感じた。慌てて電灯の下へ駆け寄ると腕時計に目を移した。九時を少し回ったところ。 ラジオは聞いたはずだった。確かに、車の中で。男はさらに考えた。本当にあれはいつものニュースだったか。それは間違いない。では時計が間違っているのか? 「それも、違う…」 彼が乗った列車の車掌は「八時二十分発」といっていたのではなかったか…。 男は改めて辺りを見回した。世界は非常にクリアだった。そうなのだ。すべては夢であったのだ。自分は何もしていなかった。今日の出来事は何もかも忘れてしまっていいのだ。男はそう思った。 彼はますます晴れた気持ちになると再びぶらぶらと歩き出した。この辺りに自分が購入できそうな家はないものかと半ば楽しげにあるいていた。 後ろには高層ビル郡が少し寂しげにネオンを輝かせている。そして、前方には住宅地が広がっていた。その中間。ビル群はその高さを低くし、民家やマンションもいくつかある辺りである。 だが、次の角を曲がったとき、彼の全身をヘッドライトの強烈な光が叩きつけた。 「あっ」と思った。その車はほんの少し蛇行しながら彼に突進していた。だめだと思った。彼は自分が助からないだろうと直感した。 彼は絶叫した。しかし、恐怖で強直した彼の筋肉からその言葉がそとに出るはずもなく、彼の叫びはただむなしく彼の頭の中に響いただけであった。 そして、半刻と間をおかず、彼は人を死に至らしめるに値する衝撃を今度は全身で受け、宙へとその身を躍らせることとなったのであった。
あとがき さて、今度は多少わかりやすくなったでしょうか…。今回は読者の意見をとりいれて書きました。また、感想のほどを…。 恒例のスペシャルサンクス ここまはもうこの人、我が母しかいないでしょう。 忠告どうもありがとう。参考になりました。 パッヘルベルのカノンを聞きながら |
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1999.11.11