月明かりの青春 (3)
「六月十一日。父さんが死んで二日がたつ。 僕は、今日、僕が本当にその一日を過ごしたのか疑わしくなることがある。そこで、日記を付けることにする」
昌明は大きくため息を吐いた。考えてみれば、勉強とはまったく無駄な作業ではないか。
二次方程式が解けなくても、何ら困りはしないのだ。果たして、今まで何のために勉強をして来たのであろうか。それどころか、生きていることさえ無駄ではないだろうか?
「明日テストでしょ?大丈夫なの?」
窓の外では外灯がともっているが、彼の部屋は暗闇に包まれたままだった。その、部屋の中で昌明は突然の母親の声に返事もせずぼんやりと寝転んでいた。
「父さんの分まで努力しなきゃだめよ」
母親の諭すような声に、昌明は悟ったように落ち着いた声で答えた。それは、あるいは氷のように冷たい言葉であった。
「母さんには、関係ないよ」
「これからは勉強の時代なのよ。くだらないこといってないで勉強なさい」
母親は昌明の肩に手を置いた。父親の死がショックだったのだろうことはわかる。だが、 ここで甘やかしてはいけないのだ。
「うるさいな」
蝿でも追い払うように昌明は母親の手を払い除けた。母親呆然として叩かれた自分の手を見つめた。彼は、自分の精一杯の慰めと愛を受け取ろうとはしなかった…。あんなに、素直だった彼が…。
二人にとって、部屋が暗かったことは幸運だったかもしれない。互いにその死んだように蒼い顔を見ずにすんだのだから。
「六月十四日。母さんは嘘つきだ。僕の事を考えてくれてなんていない。テストもだめだろう。僕にはもう死ぬ道しか残っていないかもしれない」
「六月十五日。テストはだめだった。やはり僕には実力がないらしい。きっと、僕は皆に実力があると嘘を付いていたのだ。僕はやま
しい人間だ」
いつものように騒がしい教室の中でどんな話しがなされているか昌明は知ってた。それを知っていて聞こえてくるものを聞いた。
「昌明って馬鹿だよな」
「そうそう、親と喧嘩したらしいし。しかも、カンニングだろ?」
そんな声が昌明の耳に飛び込んで来た。それは、どこで誰が言ったのかわからない。だが、 それでも彼はその言葉を聞いた。確かに、自分はひどい人間に違いないのだから。
「六月十六日。教室の人間達はテストの話しばかりだった。どうして、彼らはあんなものにこだわるのだろう?そして、やはり僕がやましい人間だということがわかった一日だった」
「これはカンニングの点数じゃあるまい」
突然の声に、生徒の大半は振り返った。そして、ギョッと眼を見開いた。彼は何と自分の答案を見せびらかしているではないか。それも、不正解の数が圧倒的に多い。
実力テストに限ってはこの一時限目をつかって全教科を同時に返却することになっている。そうして、生徒に反省してもらおうというものらしいが、当然そんな教師の思惑とは裏腹に生徒は点数の比べあいをすることになる。そのさなかでのできごとであった。
「昌明、どういうつもりだよ?」
淳はあわてて昌明に駆け寄り声をかけた。
「俺はカンニングじゃないってことさ」
「誰がカンニングだなんていったんだ?」
昌明は首をかしげた。一体誰であったか?
「どうしたの?急に」
「どうしたも何も、いつもの俺さ。やっぱ、人生は楽しくいかなくちゃね」
優梨子も淳も、そして教室のいる生徒が全員首をかしげるほかなかったのである。明らかに、昨日までの昌明ではない。だが、誰もが昌明の明るさにホッとしたのも事実であった。
実のところ昌明はふと人間を許そうと思ったのだ。人間は愚かなもので過ちは互いに許していくほかないのだと。
「六月十七日。テストの結果は散々だったが、 俺は大丈夫だ。父さんの死を俺は乗り越えた。
世界は俺のものだ」
「ただいま」
昌明は大きな声を上げて靴を放り投げた。昌明はそのまま空腹を抱えて台所へと向かった。
「母さん」
昌明はもう一度声を上げた。だが、返事はな い。昌明は何か胸騒ぎを感じていた。何かとても良くない事が起こるような…。
「母さん!」
悲しくもそれは的中した。昌明が台所で見たものは倒れている母親だった。十日ほど前の悪夢が脳裏に蘇ってくる。
「そうだ、救急車」
昌明は慌てて受話器へと向かうと、夢中で一一九を押した。
彼がその場所を訪れたのもほぼ十日ぶりだった。
「元気だったか?俺の母さん、入院しちゃったんだ」
昌明の腕に飛びついたウィルは彼の言葉に小首をかしげた。
「命に別状はないけど疲れてたんだって」
“かわいいやつ”初めはそれだけだった。だが、その毛並み、そのつぶらな瞳、愛らしい尻尾が彼に語りかけている。
「母親が倒れたのはお前のせいだ。お前がしっかりしていれば母親は倒れずにすんだのだ」
「うるさい!お前に何がわかる」
ウィルは突然殴り付けた昌明を恐怖に彩られた瞳で見返した。
「俺は悪くない。世界が、人が悪いんだ」
「六月十九日。今日、ウィルが母さんの入院を俺のせいにしたからお仕置きをした。俺は正義を示す権利を神から与えられたのだ」
「六月二十日。僕はウィルにひどいことをした。僕の中には、もう一人の僕が居るのだろう。それと、テレビで父さんの同僚が真犯人として捕まったと言っていた。僕はそんな汚れた人間から身を守らなくてはならない。だから、父さんのナイフを持ち歩くことにしよ
う」
昌明が現れるとウィルは牙を剥いた。昌明はウィルが抱えている恐怖に等しいほどの悲しみを背負った。心からウィルに申し訳ないと思っているのに…。彼は、そっと手を伸ばした。
ウィルは全身の勇気を振り絞って彼の指に噛み付いた。瞬間的に昌明の形相が変わった。
「貴様!」
昌明はとっさにウィルの尻尾をつかみ上げた。 そのウィルの命乞いするような瞳にギラリと銀色のナイフの刃が輝いた。
「許さんぞ。お前は俺を裏切った。だから、 俺もお前を裏切ってやる」
昌明の手が血にぬれた。ウィルの小さな命が零れ落ちていく。真っ白の毛並みが真紅に染まった。昌明はナイフを抜いた。命は一気に流れ出して、やがて永久に消えた。
「六月二十一日。今日は、昨日は、はっはっは。惨劇、感激、悲劇、劇物、毒物、人殺し、
犬殺し。日記、ニッキ、二期。学校、カッコウ、コケコッコー。どうした、こうした、殺した。ウィル、英語、未来、助動詞」
昌明はベッドで自分の手を見つめていた。 昨日の出来事は悪を滅ぼす神が自分に乗り移った証拠なのだとぼんやり考えていた。だがしかし、彼はチャイムの音を聞きつけて、玄関へと駆り立てられた。
「昌明君、ウィルが、ウィルが・・」
玄関で泣いていたのは優梨子であった。昌明は優梨子に促されスコップを持って公園へ向かった。そして、二人でウィルを埋めた。
「私ウィルを殺した犯人を見つけるわ」
昌明は、肯いた。一体自分はなぜウィルを殺したのだろうか…?
「私、あなたの事が好きだった。本当はそう言う勇気をウィルにもらいに来たの」
足元のウィルを眺めて優梨子が呟いた。
「じゃ、ウィルを殺した犯人。必ず見つけましょうね」
思わず聞き返した昌明に優梨子はそう言い残 して、その場を後にした。
「六月二十二日。自分は汚れた人間で、告白されるべきじゃない。僕はウィルを殺した犯人だ。僕はどうしたらいいんだろう」
彼女は泣いていた。この数日で彼女は真実を見た。そして今、あの公園にいる。
「昌明君。嘘だよね」
「生物はいつか裏切る。俺は、あいつが裏切る前に浄化したのさ」
「人は信じあえるから生きて行けるの」
少年の名を昌明、少女の名を優梨子といった。
「人間は汚れている。俺は、そんな人間を救ってやるんだ。汚れた人間は嫌だろ?」
「あなたも人間よ」
「いや、父さんとウィルが俺を開放した。俺はもう人間じゃない。神だ」
優梨子は息を呑んだ。自分が殺されるかもしれない思った。それでいて尚、昌明が哀れだと思った。
“昌明君はあのとき死んだのね”
「そうね、あなたの言う通りかもしれない」
“でも、それはあまりにも悲しすぎるのよ”
「俺が、人間を奇麗にするんだ」
昌明の声とともに突き出されたナイフに彼女はとらわれた。刹那、彼女は思った。
“昌明たちは父親の葬儀を行った。ウィルは私たちが葬った。では、昌明の葬儀は一体誰がするのだろうか?”
「六月二十五日。見かけはいい子だった優梨子を殺した。少し世界が奇麗になった」
七月一日、昌明は殺人罪で逮捕され、精神鑑定の結果、精神分裂病と診断された。彼は何度か自殺未遂を繰り返した後、静かに療養している。彼の母親は事件を知り自ら命を絶った。
人格形成に重要な時期にいたって、突然の父親の死というショックに加え、心の支えを失ったことが、彼の自己喪失につながったのではないかと考えられている。
こうして、坂上家の悲劇は三週間で幕を閉じた。
やがて、優梨子の葬儀は多くの参列者と共に行われた。だが、未だ昌明の葬儀をしたものはいない。
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