∀ガンダム放映に向けて思ったこと

いやぁ、ついにはじまっちまいました。∀ガンダム。初代ガンダムからはや20年、この記念すべき年に、ガンダム生みの親である富野由悠季による新しいガンダムを見ることができるのは非常に喜ばしいことです。

・・・・・って思ってたんだぁ!最初のうちはぁぁぁ!でもふたを開けてみたらなんだ!あのガンダムはぁ!ヒゲ?工事用の安全ヘルメットにとさかつけて・・・そんでもって・・・ヒゲ?そりゃあねぇだろう!富野のガンダムにヒゲつけるくらいだったら、今まで認めてなかったけど、ガンダムにが生えてても許す!不自然に腕が伸びても、マントつけてても、コクピットが獣神ライガーみたいになってても、不気味に指が光ってもいい!ガンダムが釣り鐘の形してたって、に乗ったってセーラー服着てたっていい!武者?頑駄無?いいじゃないか!ランチャー一撃でスペースコロニー落としたのだって、コロニーレーザー並の出力があんな超小型の兵器で出せるくらいに時代が進んでるんだと無理矢理にでも納得できるくらいには寛大にもなれようってもんさ。もっと言うならアプサラスだってあのでたらめな強さは一年戦争時としちゃ絶対に不自然だけど、ビグザムの足とってザクの頭くっつけたと思えばなんてことないさ。ガンダムファイト?全然オッケー!も、もしかして富野が言ってたこれまでのガンダムを全肯定するっていうのはこういう意味だったのか?あえて自分のガンダムを否定させることで今までのガンダムを無理矢理肯定させるっていう荒療治・・・まさか

って思うくらい衝撃を受けました。そんなこんなで、あちこちで非難ゴウゴウのこの新ガンダムの設定について、僕が考えたことをちょっと述べてみますね。

まず、このガンダムのデザインをするに当たってシド・ミードを起用したことについて。

シド・ミードといえば、映画「ブレードランナー」のメインデザイナーであることからもわかるように、そのスタイルは、工業化社会のシンボライズである。すなわち、産業革命以降の工業化社会の生み出した所産の果てにガンダムというモビルスーツが現れた、という位置づけなんではないか。でもこれっていわゆるガンダムっていうものの位置づけと違うんじゃない?つまり、原作者の富野氏自身は、以前こんなこといってたわけよ。

「歴代のガンダムは連邦軍にいても、いつも反骨の精神を持った者が乗っていたな。そして、ガンダムの最後はいつもこうだ。首がなくなったり、機体が焼かれたり、バラバラになったり・・・。しかし、反骨精神はガンダムがなくなった後でも健在だったものだ」 (『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ(下)』 捕獲されたクスィーガンダムを見てブライトがはいたセリフ)

つまりガンダムという存在は行き詰まりを見せつつある工業社会に対するアンチテーゼを含んだものであり、また支配階級に対する反骨精神の象徴であったはずなのである。つまりガンダムは工業規格品ではだめなんであり、プロトタイプであることが条件の一つといえるんではないだろうか。ま、もちろん∀ガンダムも量産されたものではないし、「ヒトとモノとの関わり合い」という点でもMSはマシーンなんだ、という意識の上から見ればあのデザインでもオッケーだと思う。でもガンダムってのはその機体自身が、モダンなモノの頂点にありながら、あのデザインが息詰まってしまった工業社会の遺物という意味も持っている。

              

 

とにかく次の言葉を富野氏に捧げよう。

許してくれ!嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなってきて、僕がわざとぶち壊したまでのことなのである。もし本当に土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。悪趣味。今になって僕の心を苦しめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、あるいは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹の中を見すかされたくなかったのだ。しかしそれははかない努力であろう。あ!作家はみんなこういうものであろうか。告白するにも言葉を飾る。僕は人でなしでなかろうか。本当の人間らしい生活が僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。 

太宰治「道化の花」より