できれば春のように
〜旅の中で見る夢は〜


夢を見た。
私がまだ、旅を始めていない頃の夢。
何ひとつ大きな幸せが訪れることも無い日々。だがその代わり、何ひとつとしてそのささやかな生活を揺るがす不幸も訪れることは無かった日々の夢。
それは何の変哲も無い、私の小さな村での日常。
夕餉の頃、私は研究資料を手に、私とそれから私の助手で開いた魔術修練所に帰る。
「お帰りなさい」
助手であるミラルドが、いつもそうするようにやわらかに私に微笑みかける。
「ああ、ただいま」
彼女の笑みは春のようで、時に目を奪われそうになる。
長く目にすれば、全ての思い悩んでいることも溶けていくとも思われる笑顔。
しかしいつもそうであるように、私はどうしてもそうしない。
「食事の支度はできてるのよ。早速食べる?」
私が頷くと、カップには温かい紅茶が注がれる。
何度名前を聞いても覚えられない、いやに長い名の葉を使った、しかし落ちつきを与える香りを持つ紅茶。
私は紅茶を片手に、資料に目を通す。
いつのまにかミラルドは私のその行動を注意することを諦めたようだったが、それでも非難の目を向ける。
そして私はそれに気付かないふりをしながら、ゆっくりと腹を満たしていく。
………それだけの夢。
私は夢の中で、それが幸せであることに気付かなかった。
気付いたのは、宿の柔らかすぎるベットの中で目覚め、私の家とは違うくすんだ白い天井を見上げた時。
ここはあの穏やかな村ではなく、今はあの静かな日々ではないのだと気付かされた時。
目覚めてなお残る、胸の奥の暖かい余韻を見つけたとき。
“お帰りなさい”
その暖かい声とやわらかな笑顔が、まるでつい先ほど実際に私に向けられたかのように耳の奥に、閉じた瞼の奥に甦る。
―――ミラルド
声を出さずにそう呟いてみたとしても、今は彼女に会うことは叶わないことくらいよく分かっていた。
今私は旅の中にいる。
今彼女は遠い世界にいる。
時を経た、遠い遠い世界に。
………それでも、口にせずにはいられなかった。
少しでも長く、その暖かな余韻を心に置いておきたかったから。


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