できれば春のように
〜アーリィの夜〜


私は、怖いのだろうか。 私と仲間の持つ最終目的がダオスという敵を倒すことだと言うことくらい、旅に出ることを決意したときから分かっていた。
そしてそのダオスがあまりに強大な存在であるということも、旅を始める前から耳にしていたことだ。
それでも旅の始めの頃、それは実感として感じられることではなかった。
訪れる町の多くは、ダオスによって被害を被ったわけでもなく、戦争があるでもなく、あるいは静かな日常を、あるいは高らかな繁栄を謳いながら日々年月を重ねていく。
あのまま私の故郷に留まったのであれば、決して見聞きすることも、得ることもできなかったであろう多くの物事を、この目で、耳で、体で享受しながら楽しいとさえ感じながら旅を続けていた。
しかし今のこの重苦しさは何だろう?
凍えるような心の冷たさは一体何だ?
私は………怖い?
そうとも、認めなくてはならないだろう。
この胸の重苦しさが、この街を包む長年の夜のためではないことを。この心の冷たさも、この街に積もる溶けない雪のせいでもないことを。
明日をも知れない決戦の予感が、死の恐怖をこの胸に迫らせている。
駄目だ、死ねない。まだ死にたくはない。
やり残したことが多くある。やりたいことが数え切れないほどにある。
この目で見たいものがある。
この耳で聞きたいことがある。
この身で学びたいことがある。
帰りたい場所がある。………もう一度会いたい人が、いる。
今その顔を見ることができたなら、この重苦しさは消え、この冷たい塊も溶けるだろう。
こんなにも胸を占める存在だとは気付きもしなかった。
いつも傍にいることが当然で、空気のようだった。……恐らくは、お互いに。
「……オリジンよ」
私は、ただ一度だけ過去を見せる能力を持つ精霊の名を呼んだ。
「この時代からは過去にあたるユークリッドを見せてくれ。魔術修練所に住む……ミラルドを」
―――光が、弾けた。
あまりの眩しさに私は目を瞑り、そしてやわらかな光を感じ再び目を開いたとき、そこに見えたのは―――ユークリッド。
懐かしい、私の家。
別れたのが昨日であるかのように、何も変わっていない、ミラルド。
「じゃあ、今日の授業はここまでにしておくわ。各自復習をしっかりね?」
彼女は修練所の生徒への授業を終わらせたところであるらしかった。
「………ミラルドさん」
生徒の一人が呟くように問いかける。
「クラースさん、まだ帰ってこないんですか?」
「え?」
「もう、この村を出てから随分になりますよね………まだ、連絡とか、無いんですか?」
「………心配?」
「え………そりゃ、どうしたのかな、くらいには思いますよ…」
「そう?私は、心配なんてちっともしてないわよ」
「ミラルドさん?」
「あの人ね、くだらない冗談は言うけど、大事なところで嘘はつかないの。知ってるでしょ?
だから大丈夫、帰ってくるわ………必ず」
そう言うと彼女は笑ってみせた。
…それは心からの笑顔にも見えた。
―――分かってるじゃないか。
胸の重苦しさも、心の冷たい塊も消えていくようだった。
そうだとも、私が嘘をついたことなどあったか?
ちっとも心配していないなどと、よくも言ってくれたものだ。
お前に心配されるまでもなく、生きて帰ってやる。
…死ぬものか。
生きて帰って、お前の大喜びする顔でも見てやるとするさ。
それまで、せいぜい気丈に待っていることだ……。
先ほどまでの苦しさが嘘のように、笑みさえ浮かんでくるのに気付いた。
貴重なただ一度のチャンスをミラルドの様子を見ることに費やしたのも、全くもって無駄にはならなかったらしい。
もう、死の恐怖は感じなかった。
私は戦いに勝ち、間違い無くあの家に帰ることができるだろう。
そしてミラルドも、私が帰る日まで私が無事であることを疑わずに、笑顔で迎えてくれるに違いない。
私は心からそう信じることができた。
だから生徒が帰ってしまった後、彼女が声もなく涙を流すのを、私は見なかったことにした。


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