できれば春のように
〜覚めない夢の続き〜


「はい、授業はお終いよ。明日はお休みだけど、課題も出すから忘れないようにね」
そう言う私の言葉が終わるが早いか、喜び勇んで教室を出ていく子供達。
きっとどの子の頭の中にも課題のことなんてちっともなくて、明日のお休みの日に何をするかということでいっぱいに違いない。
その証拠に生徒の一人、リエルは、私が一人一人に手渡したはずの課題のプリントを床の上に置いて帰ってしまっている。………本人は自分の鞄の中に入れたつもりなんでしょうけど。
リエルを追いかけるかどうか私は迷って、窓の外に目を向けた。
「………綺麗…」
思わず声が洩れるほどに、窓の外は美しい秋の夕日に溢れていた。
窓から目にすることのできる全てのものが―――村の簡素で丈夫な家々が、葉を落とし始めた木々が、普段は青々と目にまぶしい緑を投げかける山が、全てが緋色に染まっていた。
―――もう、一年になるのね。
クラースが村を出て旅を始めることになったのも秋の日のことだった。
ある日突然に、「未来」から来たという少年と少女が修練所を訪れて、クラースにこう言った。
「クラースさん、力を貸してください。あなたの力が必要なんです」
その子達はとてもまっすぐな目をしていた。
優しげな印象を受ける物腰とは裏腹に、クラースに助力を頼む時の二人の目は真剣そのもので、何かの事情を思わせた。そして彼らには、一歩も退かないような強い意思が感じられた。
そしてその子達はさらに続けた。
「僕達は、ダオスを倒したいんです」
「………本気か?」
クラースだって、その子達が嘘をついているとは思えなかったに違いないのに。
彼は少しの間押し黙って、それから溜息と一緒に吐き捨てた。
「………魔術講座をただで受けるための嘘にしては、少々大風呂敷すぎると思わないか?どうせなら、もっとうまい嘘を考えてから来るんだな」
「………まったく、あなたって人は…!」
私の口から出たのはクラースよりも大きな溜息、じゃなくて、彼に二人の話を聞く耳を持たせるための非難の言葉だった。
(こうでもしなきゃ、いつまでも頑固に意地を張ってるんだから)
たとえ上手いことを言って、ていよく二人を追い払ったとしても、自分を頼ってきた人間の力にならなかったことを、後になって気にしだすに決まってるのに。
クラースは自分では人とは距離を置く性格で、とっつきにくい人間だと思わせたいみたいだけど。
………そうじゃないことくらい、案外お人よしなんだってことくらい、ちょっと付き合いのある人間なら誰でも知ってることなんだから。
そして私の非難の甲斐あってか、クラースは気が進まない態度を崩さないままで、訪ねてきた二人と一緒に旅を始めることになった。
クラースは足手まといになることもなく、彼らはゆっくりとそれでも確実に旅を進めていっていることは、この小さな村にも訪れる旅人達が明らかにしてくれた。
それはどれほど私の心を浮き立たせたか知れない。
クラースがずっと、ずっと夢として抱いてきた「精霊と契約を結ぶ」ことが実現したばかりか、それを実戦に有効に利用して、可愛らしい勇者さんたちの手助けをしているということなのだから。
風の谷の優しい風を取り戻した旅人たちの話。
一つの街を滅ぼした、ダオスの手下を倒した勇者たちの噂。
ヴァルハラ戦役で、ミッドガルズの下で編成され最も活躍したとして賞された異邦人たちの伝聞禄。
ひとつひとつを耳にするたび、私は誇らしさを感じそして彼らの無事に安堵した。
そして勇者たちはダオスの城に赴いたとの噂を耳にし、そう間もなくクラース達がユークリッドに帰って来たとき私はどんなに嬉しかったか言葉にはできない。
だけど帰ってきたクラース達の表情の中に、帰還の喜びと同時に新しい旅立ちの決意を見て取ったとき、どんなに苦しかったか思い出したくもない。
(大丈夫よ)
私は自分に言い聞かせた。
(一度目だって、無事に戻ってきてくれた。二度目だってきっと、そうよ)
それでも二度目の旅は「未来」への旅で、私は一度目のクラース達の旅でそうであったように彼らの噂を耳にすることは、全くできなくなってしまった。
それは本当にびっくりするくらいに…嘘みたいに……まるでクラース達が最初から存在しない人物であるかのように、すっかり彼らの噂は届かなくなった。
最初のうちは一日ごとに、この村から出た勇者一行に加わる召喚術師の帰還を尋ねていた八百屋の店主さんも、日を追うごとにそのことを口にしなくなっていった。
クラースが帰ってきたらいろいろとインタビューするんだと言って、レポート用紙に質問を書き連ねては毎日授業に持ってきて私に見せていたリエルも、いつの日からかそれをしなくなってしまった。
それはあるいは私に気を遣ってのことかもしれない。
でも私はそういう風に人々が変わっていくのを見るのが嫌だった。
季節が変わっても衣替えされることなく箪笥に入れられたままのクラースの服を見るのが嫌だった。
クラースがいないことに慣れていってしまうようで。
ユークリッドの村にクラースがいないことが普通のことになっていってしまうようで。
こんなにも………長い間離れ離れになるなんて思いもしなかった。
これほどに………あの人が私の胸を占める存在になっているとは気付かなかった。
まるで水のよう。
近くにあるのは当たり前で、そしてなくなってしまえば私は生きていくこともとても難しいのかもしれない。
私自身の大切なものはちゃんと、それがどれほど大切かということは、いつも近くにあるものでも分かっていたはずなのに。
もし、もしも、彼が…
「………いいえ、大丈夫」
私は自分に聞こえるように小さく呟いた。
「大丈夫、信じられる。あの人は約束は必ず守るから」
ふと気がつくと、窓の外の夕日はもうすぐ山に埋もれてしまいそうだった。
―――ああ、そうだった。
私は随分長く考え事をしていたということにやっと気が付いた。
だめね。夕日をみてつい考え込んでしまったけど、私はリエルに忘れ物を届けに行くつもりなんだったわ。
紅茶で喉を潤して、心を落ちつけたらあまり遅くならないうちにリエルの家を訪れないと。
私は様々な香りと味が楽しめる紅茶が好きで、クラースの方は目覚ましになるとにかく濃いコーヒーをよく飲んだものだった。
二種類の飲み物を用意するのはちょっとした手間だし、クラースの飲むコーヒーはあまりに濃くて胃を痛める薬のようなものだったから、私は彼を紅茶好きにしようと考えをめぐらせてみたりもした。
いろいろ試させてみたけれど、結局クラースが気に入ったのはたった一つの品種の紅茶だけ。
目は覚めないけれど、気を休ませてくれる香りを持つ紅茶。
何度も言って聞かせたのに、彼はちっともその茶葉の名前を覚えようとしなかった。
クラースが家を出てから、私が飲むのはそればかりになってしまった。特に好きなわけでもないのに………確かにこれは、心を落ち着けてくれるから。
(………そういえば私は夢の中でさえこの紅茶を淹れてるんだっけ)
そう、私はこんな風にいつも夢の中で、しっかりと温まった紅茶をカップに淹れるのよ。
そうするといつも私の後ろで扉が開くの。
―――カチャリ
………私は振り向く。
「先生」
だけどそこにいるのは、リエル。
「僕忘れ物したと思うんですけど」
「ええ、………これね?」
私は声をあげて笑いそうになるのを堪えた。
リエルのとぼけた顔がおかしいわけじゃない。おかしかったのはほんの一瞬でも期待をかけた私の心。
「どうかしたんですか?」
「いいえ…?何でもないのよ」
リエルは怪訝な顔のまま背を向けて扉をぬけた。
悪いことをしたわね………でも実際、笑いが止まらなくて。
それでもひとしきり笑ってしまうと、私は随分気分が良くなった。
(笑うってことは、いいことなのね)
私は食事の支度に取りかかりながら考えていた。
クラースが「未来」に旅立つ前も、こんな風に笑ってしまっていれば。
お互いにもっと楽になれたかもしれないわ。
―――カチャリ
そして私の後ろで扉が開く。
でも訪問者が誰かと言うことくらい分かってる。
「さっきはごめんなさいねリエル………別にあなたが忘れ物をしたことを笑ったわけじゃないのよ」
答えはない。
「今食事の支度をしているんだけど……お詫びの代わりに少しだけ味見をしない?」
「………………ミラルド」
それはひどく静かな声。
とても静かで穏やかな、それでいて優しい声。
忘れるはずもなく、間違えるはずもない。
私が長く望み、ずっと待っていた声。
………ああ神様…………!
私は苦しさを感じて、自分が息をするのを忘れていたことに気付いた。
………ああ、これは夢?これは、夢でしょうか。
だってそうでしょう?
夢なら何度も見たわ。
……数え切れないほど、何度も見たのよ。
体が震えてしまわないように、呼吸を整えてから。
私は振り向いた。ゆっくりと。
とてもゆっくりと……そこに私の望む人がいることを、何度も繰り返し願いながら。
そしてそこには、クラースが立っている。まるで朝に書物を買いに出て、それから今帰ってきたばかりのように、ごく自然に。
私は夢でなければいいと願いながら駆け寄って、彼の胸に飛びこむ………まるで、夢に見たそのままを再現するかのように。
ああ、でもこれが夢だとしたら、どうして彼の体温を感じるの?
どうして、温かいの?
私は顔を上げればクラースがいることを温かさの中で確信しながら、私の待ち望んだ人の目を見た。
クラースは、私の涙の零れそうな目を見て動揺していることを隠して笑おうとしているのかもしれない。でもそれはうまくいっていない。
『笑うってことは、いいことなのね』
私は声に出さずに呟いた。
そして笑うことにした。
できれば春のように。
クラースはまっすぐに私の目を見た。随分と長い間。
それから私はささやいた。
「お帰りなさい」


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