打ち寄せる波の泡が、僕の足元を濡らそうとする。 それをひょいひょいと避けながら、とぼとぼと波打ち際を歩いていく。 九月とはいってもまだまだ暑く、服がじっとりと汗で湿ってくる。 顔をあげて目を凝らすと、兄さんの後ろ姿が遠くに見える。 ときどきたちのぼる熱気に霞みながら。 私ハアナタヲ素敵ダト思ッテイルケド ソノ理由ヲツキツメテ ナゼアナタヲ素敵ダト思ウノカ知リタイト思ウ 僕は、そんなあなたの後ろ姿をしばらく見つめていたけれど、 また足元に目を落とす。 ほら、あなたの足跡。砂浜に残ってる。 そっと自分の足を、その窪みに重ねる。 …くすっ。やっぱり一回り大きい。 ほら、左、右、左、右。 順々に自分の足を重ねて行きながら、あなたの後ろを追いかける。 歩幅が大きいね。ときどきよろけてしまう。 アナタガ私ヲ引キツケル理由ヲ あなたを追う足に、だんだん加速がついてくる。 ほら。 もう駆け出さんばかりに。 兄さんに早く会いたくて。 だんだん加速がついてくる。 あなたを追う足に。 だんだん加速がついてくる。 あなたを追う心に。 なんだかかひどく嬉しくて。 あなたを追えることがとても。 気が付くと、兄さんの姿がすぐ目の前にある。 そうほんの数歩先に。 「………。」 声をかけようとして…出来なかった。 あなたに拒否されそうで。 さっきまでの嬉しい気持ちが、嘘のように僕の中でしぼんでいく。 兄さんは振り向かない。 ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、黙って砂の上を歩いていく。 ザッザッという乾いた砂の音だけが、聞こえてくる。 僕は何も言えずに兄さんの数歩後ろをついていく。 ただ黙ってついていく。 一歩進むたびに悲しくなって。 日差しが首筋の上でちりちり焦げる。 熱いのを通り越して、痛いくらいだった。 でも、それすらどうでもいいことのように思えてきた。 突然僕は立ち止まってしまう。 これ以上一歩でも歩いたら、涙があふれてしまいそうになって。 あなたは立ち止まりもせず、行ってしまうのだろう。 僕の事など忘れてどこかへ。きっと遠くへ。 ソシテアナタノ魅力ダト思ッテイルモノガ 本物カドウカ ぎゅっと両の拳を握りしめる。 掌に爪が食い込んで痛い。 僕はとうとう俯いてしまう。 去ってしまうだろう姿を見ないように。 「どうした。」 はっと僕は顔を上げる。 兄さんがこっちを向いて立っていた。 逆光で顔の表情までは解らないけど、聞こえてくる声は静かだった。 怒ってはいないみたいだ。 それでも、僕は再び俯いたまま、何も言えなくなってしまう。 突然力強い腕にぐいっと引き寄せられ、そのまま僕は兄さんの 胸に額をつけるかっこうになる。 とたん、僕の視界がぼやけて霞んでくる。 ぽたりぽたりと不規則なリズムで、僕の靴の上で音をたてる。 堰を切ったように、僕の目からあとからあとから涙が溢れ出てくる。 止めようとしても止められない。 せいぜい僕に出来る事と言えば、兄さんの服を濡らさないように、 うつむく事だけだった。 ひどく自分が情けなくなる。 まるで小さな子供のようだ。 兄さんの動作ひとつ、言葉ひとつでこんなにも振り回されている。 「泣くな…。」 「…ごめんさない…。」 ただあやまることしかできなくて。 ぽん、ぽんと兄さんが拍子をとるかのように、僕の頭を軽く叩く。 それがひどく気持ち良くて、もう少しだけこのままでいたいと思う。 私ノ思イスゴシヤ早トチリデハナイカ タシカメルタメニ 「…えっ…?」 突然、ふわりと僕の体が浮く。空と海がひっくり返ったかと思った 次の瞬間、僕は海の中に沈んでいた。 あまりにも突然の事に、身構える暇すらなかったので、口の中には 空気のかわりに大量の海水が流れ込む。 無我夢中で泳ぎ、岸にはいあがると、ごほごほとむせてしまう。 ろくに呼吸が出来なくて、ひどく苦しい。 少し落ち着いた頃に、目の前の砂に影が落ちる。 むせながら顔を上げると、くっくっとくぐもったような声で笑い ながら兄さんが立っていた。 「に…い…さん!…ごほっ…なっ何するんですかっ! いきなりっ…ごほっごほっ…」 「どうやら泣きやんだようだな。」 ぴたっ。あまりの台詞に、むせかえるのも忘れて。 「…もしかして、僕が泣くのをやめさせるために海の中に 放り込んだの…?」 ちょっと乱暴だと思う、よ。 「でも、泣きやんだだろうが。」 僕の非難の視線を感じてか、にやにやと兄さんが笑っている。 「ほら、早くあがらんと風邪を引くぞ。」 「もうっ!誰のせいですかっ!」 ほれ、と兄さんが手を差し出してくれる。 それだけで僕の機嫌はたちまち良くなる。 よいしょと僕は兄さんの手につかまりながら、やっぱり… 振り回されてる、と思う。 「先にいくぞ。」 「あ、もう待って下さいっ!」 膝についた砂を叩き落としながら、僕は駆け出す。 ぐちゅっ、ぐちゅっとスニーカーが悲鳴をあげる。 靴の中までぐっしょり水で濡れている。 …気持ちが悪い。 ぴょんぴょんと跳ねながら、スニーカーを片足ずつ脱ぎ捨てる。 「兄さーんっ!」 砂が素足に熱い。 追いついた僕の髪を兄さんの大きな手がぐしゃぐしゃにする。 「いたッ!兄さん乱暴!」 「海のにおいがするな…。」 「え…?」 くんくんと自分の左腕をかぐ。ほんとだ。 「兄さんのおかげで体中潮でべとべとだよ。」 ちらりと兄さんを非難がましい目で見る。 …まるで他人事のような顔をしている。 「ああっ!もう気持ち悪いっ!」 海水を吸ってすっかり重くなってしまったTシャツを、 半ば体からひきはがす様に脱ぐ。 ぷはあっと溜め息一つ。少しすっきりした。 「その傷は、俺がつけたものだな…。」 「えっ?」 兄さんの視線が、僕の左胸にある。 僕もつられてそこを見る。 ちょうど心臓の真上に、少しひきつれたような傷がある。 ちょうど人の拳くらいの大きさの…。 「あ、これですか。」 なるべくさり気なく言ながら、そっと自分の傷に触れる。 指先で後を探るように。 「お前の小宇宙ならそれくらいの傷、跡かたもなく 消せるだろう。」 すこし怒ったような口調で兄さんが言う。 でもそれは自分の感情をごまかすためだって知っている。 僕はまだ、自分の傷をたどりながら言う。 「消せるけど…これは嫌です。」 「…なぜだ。」 「だってこれは兄さんがくれたものだから。」 兄さん、少し眉をしかめて。 「お前を殺そうとした傷だぞ。」 「いいえ。兄さんが僕を殺せなかった傷です。」 僕はそう言いながらありったけの笑顔で笑ってみせると、 兄さんの顔に苦笑が広がる。 「ずいぶんとぶっそうな貰い物だな。」 「そうですね。」 掌に包み込むように傷を押さえる。 そう、これは僕にとって大事なもの。 これがあるかぎり、僕は僕でいられる。 「この傷はね。兄さんが数十億という人たちの命と 僕の命とを秤にかけた結果なんだから。」 僕は少し上目使いに兄さんを見る。 「…どうして僕を殺さなかったんですか…? 最後の、たった一度のチャンスかもしれなかったのに。」 兄さんは、すっと口許を少し歪めて言う。 「俺には数十億の人の命の重みなど解らん。 目に見えるものでも、触れるものでもないからな。」 「…兄さんて、意外に俗物だったんですね…。 でも、 それじゃあ答えになってませんよ?」 本当は兄さんに言って欲しい言葉がある。 でも、無理に言ってもらっても嬉しくないから、僕は遠回しに 兄さんにねだる。 「なら、リュムナデスの時、俺の贋物だと解っていながら 何故お前は奴を打たなかった?」 「逃げましたね。」 「いや。その答えが俺の答えだ。」 なんとはなしに気恥ずかしくなって、僕はぷっと頬を膨らませた ままそっぽをむく。 僕は海辺まですたすたと歩くと、そのまま足首まで水につかる。 熱でほてった足にひんやりとして気持ちいい。 ちらり、と兄さんを見遣ると思いっきり水を蹴り掛ける。 だけどやっぱり、あっさりと兄さんによけられてしまう。 ちょっと悔しくなって、大きくあかんべをしてみせる。 …兄さん、そんな風にあきれたような顔しないでよ。 ふくれっ顔が続かなくて、僕はとうとう笑いだしてしまう。 空を見上げると、抜けるような青い空。 うーんっとのびをするように組んで伸ばした指の間から、 光がもれてまぶしい。 「しゅーんっ!」 遠くから聞き覚えのある声が微かに聞こえてくる。 あの元気な声は星矢だ。 声のした方に振り向くと、遥か 向こうに見える堤防の上から 軽々と飛び降りてこっちに向かって走ってくる。 赤い点にしか見えないくらい遠かったのに、星矢の姿はみるみる うちに大きくなってくる。 さすが聖闘士。足が早いね。 「しゅーんっ!」 「なーにー!」 まけじと僕も叫び返す。 星矢はといえば叫び返してくる前に、僕達の所に来てしまった。 「しゅんんっー!俺腹減ったぞ〜!」 立ち止まるなり、息ひとつ切らさず一気に言い切る星矢。 思わず目をぱちくりさせて僕。 「…おなかすいたのは解ったけど、なんでわざわざ僕の ところにそれを言いにきたのかな?」 「だってお前、今日の食事当番だろっ!」 「…そうだっけ?」 「そうだよ〜!」 間の抜けた僕の返事に、力が抜けた〜といわんばかりに、 星矢はその場に座り込む。 と、初めて気が付いた様に、星矢は兄さんを見上げる。 「あれェ?一輝いたのかぁ。」 「…お前の視界は、目的の物以外は入らんようだな。」 すっとんきょうな星矢の声に、多少むっとしたような顔で 兄さんが言い返す。 「てっきりいつものよーに、どっか行ったもんだと思ってたぜ?」 「………。」 あっけらかんとした表情で星矢がいう。 兄さん言い返すこともできないみたいだね。 …少しはこりてくれるといいんだけどな…。 パンッパンッとズボンについた砂を、勢いよく叩きながら星矢が言う。 「ま、なんでもいいや。瞬、早く帰ってメシにしようぜっ!」 先に帰ってるかんなーっと言って、足場の悪い砂場を物 ともせず 走って行ってしまった。 「……。台風の様な奴だな…。」 呆れたように、ぼそりと兄さんがつぶやく。 僕は笑い出しそうになるのを必死でこらえる。 だってなんだかんだと言っても、結構兄さんは星矢と気があうって こと、僕はちゃんと知ってるんだよ。 …ちょっと妬けるけどね。 「星矢はきっと戦いでは死なないね。」 「ああ。あいつは腹の減りすぎで死ぬだろうな。」 じゃあ…と言って僕はそっと兄さんの腕をとる。 なるべく何気ないように、でも内心どきどきしながら。 「星矢が飢え死にしないうちに帰りましょう…?」 「そうだな…。」 くるり、と兄さんが僕に背をむける。 どうしていいか解らずに僕がとまど っていると、振り返るなり また兄さんが僕の髪を強く掻き乱す。 もう!痛いんだからね。 「帰るんだろ。」 「え…は、はい!」 「お前も早く帰らんと塩焼きになるぞ。」 「しお…!僕は魚じゃありませんっ!」 「そうか? 」 「そうですっ!」 兄さんにふざけかかりながら、僕達は歩き始めた。 *END* |
え〜っと、これは個人誌2「HOUSE」の中のひとつです。 設定は読んでの通り、ハーデス編の後ということです。 もちろん、星矢は元気です。あれくらいで死ぬなら、 とっくの昔に死んでるとおもうので。(^^;) 中で引用しているカタカナの詩(本当はひらがな)は、 タイトルは忘れましたが、銀色夏生の本からいただきました。 しかし、こんなあま〜い話は久しく書いてないなぁ。 もう書けない気もする…。(^^;) |