帰れないね、と瞬が言った。
戻れないね、と瞬が呟いた。
   
雨上りの濡れたアスファルトの上を、軽くステップを踏みながら
瞬が歩いていく。
ときおり道端に出来た水溜まりを軽く助走して跳び越えながら。
その度、瞬の豊かな翠の髪が空に舞う。
どんよりとした灰色の空にたちこめた雲の切れ間から、光がまるで
オーロラのように地上に降り注いでいる。
その光に照らされ瞬の髪が生き生きと輝く。
まぶしさに目を細めながら、後ろを歩いていた一輝が声をかける。
 「濡れるぞ。」
 「濡れたりしませんよーだ。」
瞬は立ち止まると、かかとに重心をかけてくるりとまわり子供の様に
一輝に向かってちょろっと舌をだす。
くすくす笑いながら今度は路石の上に飛び乗り、両腕を伸ばしバラン
スを取りながら爪先立ちで歩き出す。
無心に熱中している瞬の横顔が、一輝の中で眠っていた懐かしい記憶
を呼び起こす。
…小さい頃から母親に似ていると思っていたが、こうして聖闘士にな
った今、いっそう面影を濃くしているというのは瞬にとっては皮肉に
しかならないだろう。
         
…守ってあげてね。一輝は強い子だから…。
         
母の言葉が鮮やかに一輝の脳裏に浮かびあがる。
一輝とて、そうはっきり両親の顔を覚えている訳ではないが、そう
言って鮮やかに微笑んだ母のイメージだけが、鮮烈に焼き付いていた。
ふいに何処からか金属的な、それでいて優しい暖かい音が風に乗って
とぎれとぎれに聞こえてくる。聞き覚えのある曲だった。
どこか時計台からでも流れてくるのだろうか。
何か感じるものがあったのか、ふと一輝は立ち止まって耳を澄ます。
どこか懐かしいオルゴールの音色だ。
なんという曲か思いだそうとしたが、ついに思い出せなかった。
軽く考え込む一輝の顔に、くすりと笑って瞬がメロディーに合わせ
口ずさみ始める。
          
   あの町この町
   日が暮れる日が暮れる
   いまきたこの道
   帰りゃんせ帰りゃんせ
          
そこまで歌うと、瞬が言う。
 「帰れないね、兄さん。僕達どこにも。
  どんなに戻りたくっても子供の頃には…ね。」
 「…戻りたいのか…?」
 「…ううん。」
たん、と地面に下りると静かに一輝の前に歩み寄る。
少し寂しげな表情で、一輝の前髪を右手の人指し指でそっとあげると
その下から古い傷跡があらわれる。
一輝の額から眉間にかけて出来た、深い亀裂のような跡が。
その傷跡を指先でたどろうとする瞬の手首をつかむと、すっと一輝は
その手を自分の額から外す。
 「まだ…痛みますか?」
 「いや…。」
ひどく穏やかな表情で、一輝は瞬を見つめる。
 「戻れたって、きっとこの傷は消えないね。僕が兄さんの弟で
いる限り、兄さんは僕の代わりに傷ついてしまうから。」
そう言うと手を降ろしてくるりと背を向ける。
 「兄さんはずるいよ。」
 「何がだ?」
 「だってそうだよ。兄さんは僕を守ろうとしてくれるけど、僕には
兄さんを守らせてくれないじゃないか。…不公平だよ。」
 「…兄が弟にかばわれる、と言うのはあまりさまにならんぞ。」
 「ほら、不公平だよ。先に生まれたって言うだけで、そう決め
  ちゃうんだから。そんなの勝手だ。」
 「何を拗ねている。」
 「拗ねてなんかいません!」
口を尖らせて言う瞬に、一輝は苦笑する。
 「戻れないなら、進めばいい。過去など振り返ってみた所で何も
  得るものなどないぞ。」
兄の言葉に、きょとんと瞬の瞳が丸くなる。
次いでぷっと吹き出し、くっくっと口を押さえて笑いながらその場に
しゃがみこむ。
 「兄さんって本当に強いんだね。僕、そんな事まで全然
  思いつかなかったよ。」
 「お前は考えすぎだ。」
 「うん。そうかもしれないや。」
とん。瞬は少し高い堤防の上に飛び乗る。
空を見上げているそぶりで、一輝から視線をそらして言う。
 「兄さん、いつ出立するんですか…?」
唐突な話題だったが、一輝は動せず答える。
 「明日…には。」
 「そう、明日なんだ。」
瞬は微笑んで言う。
 「知っていたのか…?」
 「うん。なんとなく…ね。そろそろくるんじゃないかって。
僕の事心配してくれてたんでしょう?でももう大丈夫だよ。
ほらもうすっかり元気だから。」
せいいっぱいの笑顔で両腕を曲げ、ポーズを作る。
 「本当はね、僕としては兄さんにずっとそばにいてほしいけど、
それってきっとわがままだね。だって兄さんはひとつところに
縛られているのは嫌いだから。」
靴先で転がしていた足元の小石を、こんっと軽く蹴ると、肩ごしに
首だけ振り返って瞬は微笑んだ。
 「行ってもいいよ、兄さん。僕は平気だから。」
一輝は軽く笑って瞬の腰に腕を回すと、地面に降ろす。
 「本当にそうかな?お前は昔から結構さみしがりだったからな。」
 「もう!何年前の話ですか!」
怒ったんだぞとおどかすように、片腕をふりあげたまま、瞬が
ぷうっと頬を膨らませる。
一輝といえば全く気にした様子もなく、面白そうに瞬の前髪を手で
掻き回すと言った。
 「一緒にくるか?」
瞬は瞳を見張って一輝を見る。が、静かにかぶりをふる。
 「ううん。僕まで行ってしまったら、兄さんが帰ってくる場所が
  なくなってしまうから。」
するりと一輝の腕から離れると、瞬は笑って言う。
 「兄さんの留守をしっかり守らなくちゃいけないんですからね。
  僕はこれでも結構忙しいんですよ。」
そんな弟を見ながら、一輝が苦笑まじりに言う。
 「強くなったな。瞬。」
ちょっと驚いたような顔をして瞬が振り向く。
そしてひどく嬉しそうにほんのりと頬を染め、微笑んだ。
 「ありがとう、兄さん。でもたまには帰って来てくださいね。
  でないと守り甲斐がないから。」
 「ああ。」
一輝は言葉少なに答えた。
苛められては自分の後ろで泣いていた弟が、日増しに強くたくましく
なっていく。
それが嬉しいような、少し寂しいような気がするのは、単なる兄バカ
なのだろうと一輝はひとり自嘲する。
 「にいさーん!」
遥か向こうの堤防の上で、瞬が自分に向けて右手を上げ、子供のよう
に振っている。
はしゃぐ弟の姿に、口許に微かに笑みを浮かべたまま、一輝は足を踏
み出した。
     
     
*END*
     
     


ただ兄の帰りを待ち続けてるだけの瞬は、あんまり好きじゃない
のだけど、ちゃんと理由があるのなら、それもいいかなぁと。(^^;)
この本のテーマが「HOUSE」つまり「迎えてくれる居場所」なので
瞬は一輝の帰る場所を作り、守っていく事を決めたのだというのが
この話のテーマかな?
             
ここで使ってる曲のタイトル、忘れました。(笑)
「帰りゃんせ」だったかな?(ちゃんと調べろ、私;)
夕方の六時になると繁華街で流れる曲なのですが、歌詞の聞き方を
少し変えると、なんだか物悲しいものになります。
これも、気持ちはハーデス編の後というところで、子供の頃に戻る
とか戻れないとか言ってるのは、双方とも例の兄弟対決の事を多少
引きずっているからなのでした。

【HOUSE】【NOVEL】