旅の途中の宿屋で、明かりを落として布団の中に潜り込み、悟浄は外から聞こえてく
るかすかな物音に気が付いた。かすかに、実際今までだってずっとしていたはずなの
に、部屋の中が完全に静かになるまで気付かなかったほどにかすかに、細かな音。
――雨?
耳の上まで深く被っていた布団から顔を出し、悟浄は隣りのベッドで横になっている
八戒の気配を慎重に探った。
雨の嫌いな八戒は、雨が降るたびに心が、おかしくなる。
知り合ったばかりの頃ほど顕著な反応はしなくなったけれど、それでも雨が苦手なの
には変わりなく、雨が降ると八戒の表情や、ちょっとしたしぐさ、声の出し方の中に
いつもと違う八戒を悟浄は見る。見たくないのに。そんな八戒なんか見たくはないの
に、その八戒に気付けるのも悟浄一人で、だから悟浄は雨が降ると八戒の様子を慎重
に慎重に探る。丹念に丹念に動きを追う。
――あれ?
不意にある事を思い出して、悟浄は眉をひそめた。
ついさっき酒場からほろ酔いで帰ってくる時には、雨など降る気配は微塵もなく、
それどころか星も見えないほどのみごとな満月、ではなかっただろうか。
相変わらず続くぱらぱらという音と、さわさわと葉をゆらす風の音。
その音がやけに近い気がして、悟浄はベッドの上で身を起こした。
気のせい、ではない。
深い森のなかにいるように。建物を取り囲むように響くさわさわという音。
町の中にいるとは思えない。
「悟浄?」
急に起き出した悟浄に、まだ眠っていなかった八戒が声をかけてきた。
「んや・・・」
疲れているはずなのに眠れないのは、外から聞こえてくる、八戒の苦手な音のせい
なんだろうか。
そんな事を考えながら意味のない返事を返し、悟浄はベッドからおりて窓へと近付
いた。立て付けのよくない木製の窓を精一杯そっと開けると、昼間の温度が嘘のよう
な風が通り過ぎた。目を細めて通り過ぎる風を受け、窓から身を乗り出す。
「これかぁ・・・」
「何なんですか?」
挙動不審な悟浄を不思議そうに、それでも布団から出ずに眺めていた八戒がとうとう
起き出してきて、悟浄に並んで窓から首を出す。窓を開けた事でさわさわぱらぱら
という音が幾分大きくなった。
けれども空にはやっぱり真ん丸に近い月が晧晧と輝いていて。
さわさわさわ、ぱらぱらぱら・・・
「ああ、この音ですか・・・」
先ほどの悟浄と同じように八戒も納得したようにつぶやいた。
――いい雰囲気でしょう?それだけじゃないんですよ、建物が葉の陰になってるから
他の家よりもかなり涼しいんです。
部屋を取る時に宿の女将が自慢げに話していたのを思い出す。
この小さい町で唯一の宿屋は、四方の外壁が見えないほど、見事なツタを這わせて
いた。蔓を一杯に伸ばし、葉を茂らせ、風を受けてさわさわと揺れる。
「いい風ですねぇ・・・」
「ん。大事にしてんだろうな、こんなでかくなるなんて」
「そうでもないと思いますよ。蔦は丈夫な植物ですから。水さえあげていれば、これ
くらいは大きくなるらしいです」
「詳しいね、お前」
「何かでちょっと読んだ事がありまして。でも本で知っていただけですからね。こん
な音がするなんて、知りませんでした」
八戒の白い手が鮮やかな緑色の葉の上を滑り、葉の角度が変わったことで、その上
に溜まっていた黄色い小さな粒が落ちてゆく。落ちた粒がさらに下に茂っていた葉の
上に落ちて、ぱらぱらとちいさな音をたてた。近くで見ないと分からないほどなの
に。建物全体を取り囲んだ蔦のいたる所で、小さな小さな粒は落ち、ぱらぱらと雨の
ような音をたてた。絶え間なく。
「きっとこれが蔦の花なんでしょうね。こんな小さいのに、こんな音がするなんて。
すごいですよね」
「ああ。秋になったら落ち葉でもっとすごい事になりそうだけどな」
「あはは。そうですよね。悟空なら喜んで焚き火で焼きイモ作るんでしょうけど」
「秋中焼きイモ食えるぜぇ」
旅の連れの年中欠食児童が、芋を両手に持って『幸せを形にしたら、こうなっちゃい
ましたv』という見本のように笑っているのと、オプションに眉間に縦じわを刻んだ
最高僧がやけにリアルに思い浮かんでしまって、八戒はくすくすと笑った。
ああ、でも。秋が来たら。
その頃には自分達はもうここにいないけれど。壁に一面の蔦の葉が、風を受け、太
陽の光を一杯に浴びて赤い葉を揺らす姿は、どんなにか綺麗だろう。
「・・・見てみたいですねぇ」
「イモ食ってるサルを?」
空想の光景を思って会話の飛んだ八戒に、悟浄がまぜっかえすように返答した。
驚いて目の前の相手を見れば、紅い目はからかうような色をたたえていて。
怒るか、笑うか。どっちに自分の感情を持っていくべきかを一瞬考えて、八戒は結局
どっちも選ばずに苦笑を浮かべただけで終わらせた。
「もう寝ましょうか。明日も早いですし」
「そうすっか」
八戒が窓を閉めて自分のベッドへ向かうと、隣りのベッドで既に横になっていた悟浄
が肘をついて八戒を見上げているのが目に入る。
「よく、眠れそ?」
口調にも表情にも真面目さの欠片もない。
それでも見かけ以上によく気の回る悟浄が、雨の苦手な八戒を、心配しすぎだと八戒
が笑ってしまうほど――実際それは杞憂でもなんでもなくて、八戒が気付いていない
だけで雨の日の八戒の様子がいつもと違う事は悟浄の目には明白なのだけれど――
心配してくれているのだと、分かる。
分かるから八戒は自分にできる限り、にっこりと笑ってみせた。
「ええ、おかげさまで」
八戒の笑顔に大丈夫そうだと笑い返した悟浄の笑みの種類が、悪戯を思いついたよう
に急に変わった。
「お礼は?」
自分の唇を、ちょいちょいとつつく。
「なんのお礼なんですか・・・」
ため息をついて悟浄に近づき、八戒の白い手がきれいな曲線を描いて悟浄の顔に伸び
――すばらしい正確さで、悟浄の額に『でこぴん』をくらわせた。
「いだーーっっ!」
「シッ。夜中ですよ悟浄。近所迷惑じゃないですか」
「な、お前が・・・」
額に、三蔵とお揃いの赤い「点」ができてしまった悟浄が、顔を上げて不当な暴力?
を加えた相手に抗議しようと・・・
「?!」
開きかけた唇に、ふわりと暖かいものが触れる。捕まえようと手を伸ばす間もなく、
ほんの一瞬、かすめるようなキス。
「・・・お礼です」
にっこりと。これ以上何を言っても無駄と。言わんばかりの、笑顔、で。
悟浄が多少引きつった笑顔でうなずくと、駄目押しとばかりに微笑んで、八戒は自分
のベッドに向かうために悟浄に背中を向けた。
無駄と言われた、実際は口に出して言われた訳ではないのだけれど、口以上に雄弁な
笑顔でダメまで押されたにもかかわらず、ついつい言ってしまうのが悟浄の悟浄たる
所以、というか。
向けられた背中に向かって。
「次回はもっと濃厚なのを頼むわ」
言ってしまうのが悟浄なのである。
「えー、もう一回ですかぁ?」
くるりと振り返った八戒の右手の親指と中指がわっかに、つまり「でこぴん」の構え
になっている。
「イエ、じゅーぶんです・・・」
かくり、と悟浄がベッドに突っ伏した。
明かりをつけなくても十分に明るい部屋で、八戒も自分のベッドに潜り込む。
部屋の中が沈黙に覆われて、またさわさわぱらぱらと聞こえ出した。
雨ではないと分かっていても、雨に酷似した音は記憶の奥の方に押し込めた過去を
引きずりだそうとしているようで。
それでも。過去の傷の中に八戒が沈みこみそうになれば、差し伸べられる暖かな手
がある。
八戒が、絶対にその手に気がつくように。八戒がその手の存在を絶対に忘れないよ
うに。言葉でも態度でも表してくれる、優しい人。
花喃を忘れたわけではないけれど。悟浄のそばにいられるかぎり。悟浄さえいてく
れれば。八戒は雨の日でも、一人で泣く必要はない。
だから花喃。幸せを感じてしまう心を、許してほしい。
不幸になるために、重荷になるために愛し合った訳ではないのだから。

雨によく似た、でも雨ではない音に包まれて、八戒は穏やかな気持ちで眠りについた。





*END*







八戒以上に雨の音に敏感に反応するのは、悟浄が八戒を大切に想って
いるからなんですよね。いい男です悟浄!
そんな悟浄に、アメとムチを使い分ける八戒がなお好きです。《結花》





《言の葉あそび》