冷たい雨が降った日、同居人と喧嘩をした。



証言1。

 「そしたら、あの人なんて言ったと想います? ・・・ちょっと聞いてますか、三蔵?」
 「・・・ああ」
三蔵は、どうひいき目に見ても生煮えの返事をした。ちらと時計に視線をやる。
かれこれ小一時間、八戒は三蔵の執務室に押し掛けた上、愚痴を吐きまくっていることに
なる。愚痴を零す、などという可愛い表現では足りなかったのだ。
ちなみに、悟空は早々に避難している。
後にそのことで三蔵に何か言われるとしても、八戒に相対するよりはマシだと判断したの
だろう。忌々しいが、その通りだろうと三蔵も思う。
 「要するに、僕が言ってたことの半分も、あの人は聞いてないんですよ。
  呆れて物も言えませんでしたよ。」
 「・・・言ってるじゃねぇか」
ささやかな三蔵の反抗も、八戒には蚊に刺された程にも感じられなかったようだ。
 「あの人には、大人としての自覚ってものがまるで無いんですよ。
  大の男があんなことでいいと想いますか」
『悪口は、その逆のことよりも簡単に思いつけるもの』だという。
光明三蔵の教えだが、とはいえ、よくもまぁこれほど喋り続けられるものだ。
三蔵は少しだけ感心した。
八戒は三蔵に聞かせているつもりで、実は、一人で喋りまくっているだけである。
ただとにかく吐き出したい、ということなのだろう。
三蔵もそう想って、適当に相づちを打ちながら仕事の手は休めないでいた。
悟空と違って、八戒が直接的に仕事の邪魔をすることはないから、気にしなければ事は済
む。確かに済むのだが、しかし、だからといって。
 「八戒」
 「まったくあの人は、どうしてああも自分勝手なんでしょう。
  今までよく生きてこられましたよねぇ。」
 「・・・八戒。」
 「はい?」
言葉の合間に、ようやく八戒を止めることができた。
 「俺は気が長い方じゃないんだが」
 「知ってますよ。思いっきり短いですよね、あの人とそっくりです。
  あの人も本当に気が短くて」
 「八戒」
少し強められた三蔵の声音で、八戒は言葉を止めた。
放っておけばまた文句が延々繰り返されるので、それを制したのだが、どうやら無事に成
功したようである。実はこれまでも何度か試みたのだが、一度も成功しなかったのだ。
 「喧嘩するのはお前らの勝手だが、余所でやれ。俺を巻き込むな、鬱陶しい」
いい加減、疲れた。三蔵はため息をついた。
何故、この俺が、巻き込まれねばならないのか。
三蔵の高くもない臨界点は、とうに突破していた。
ここまで付き合ってやっただけでも随分な譲歩だ。あくまでも、彼の視点においてだが。
 「ひどいな、巻き込んでなんてないじゃないですか」
心外だとばかりに、張本人は首を傾げて見せた。
 「なら、何故ここにいる?」
言外に今まさに巻き込んでいるだろうと言えば、
 「何故って、差し入れに」
さらりと流された。疲れる。本当に疲れる。
 「それは口実だろ」
 「分かってるならその口実に騙されてくださいよ」
 「そんな義理はねぇ」
 「つれないですね」
とりあえず、まだ帰る意志はないようだ。三蔵はもう一度ため息をつき、八戒は新しいコ
ーヒーを淹れるべく立ち上がった。




証言2。

三蔵の部屋を逃げ出すことに成功した悟空は、長い廊下を歩きながら、八戒が帰るまでの
間、どう暇を潰そうかと考えていた。
三蔵の部屋には当分入れない。街へ降りるか、裏山へ行くか。
小雨が降っている上、三蔵と一緒でない悟空に、選択肢はあまり多くなかった。
せめて小銭を持って出れば良かった、と悟空は想った。
無一文では街に降りても楽しくない。硝子細工などの雑貨を見て回るのは好きだったが、
道々で売られている美味しそうな食べ物が、空き始めた胃を刺激しないはずはない。
食べられないなら、見ない方がマシである。
つらつらと思考の海に沈んでいるときだった。
悟空の視界に、なにやら見知った色が入り込んだ。「あっ」と声をあげた。
同時に駈けだしている。
 「悟浄!」
昨日からの雨は完全には止まず、小雨となって続いていた。
動き回る悟空には寒さは気にならなかったが、夕刻も近づく頃には、気温も少し下がって
きた。悟浄はそんな中を、傘も持たずに歩いてきたらしかった。
見上げる紅は湿気を含んで、灰色ばかりの世界によく映えた。
 「よお、猿」
猿じゃねぇよ!と返した悟空はすぐに、だが困ったような顔をした。
笑顔の多いこの子供には、あまり馴染みのない表情だ。
 「あ、あのさ」
 「八戒、来てんだろ?」
 「・・・・・・知ってたんだ?」
 「ま、な。あんだけ大量に菓子作ってりゃイヤでも分かるってもんだぜ」
悟浄は苦笑して、悟空の頭をくしゃっとしてみせた。
八戒が朝から黙々と台所で作業をしているのを見ていたのだ。
ほとんどが甘ったるい匂いだったので、聞かなくとも行き先の察しは付いたのだという。
 「・・・ケンカしたのか?」
悟空が上目使いで尋ねる。遠慮がちに、聞いてもいいかどうか悩みつつ、気になって仕方
ない、という感じだった。
悟浄は「まーな」と軽く応えた。
喧嘩したのは昨夜だ。長い夜が明けても、八戒とは朝の挨拶以外言葉を交わしていないし、
無論触れてもいない。いつも当たり前に、戯れるように触れている、あの髪に唇に指に。
キスしたいな、と悟浄は唐突に想った。思い出したら無性にしたくなった。
八戒欠乏症か?(あり得るぞ)
 「八戒、すっげぇ怒ってたみたいだけど・・・」
何したんだよ?と悟空は重ねて聞く。悟浄はちょっと形のいい眉を歪めた。
 「・・・どーして俺が何かしたと想うわけ?」
 「違うのか?」
 「いや、違わねーけど」
悟浄は悪びれない。良いところでもあり、悪いところでもあるだろう。
悟空は何か言いたそうだったが、悟浄の表情を見てやめた。
 「八戒だって、まったく悪くねぇってワケじゃねーんだけどな・・・」
 「それ、八戒に言った?」
 「言ってもきかねぇよ、今はな」
ふうん、と悟空は呟く。
(何でもいいけど、早く仲直りしてくれないかなぁ)
そうでなければいつまで経ってもあの部屋に帰れない。
至極自分寄りの理由で、悟空は二人の仲直りを願ったのだった。
雨は、いつのまにか霙に変わっていた。




証言3。

 「あ、そうだ。忘れるところでした」
ひとしきり文句を言ってすっきりしたらしい八戒は、急に大人しくなった。
三蔵は八戒の淹れたコーヒーを一口飲んで、満足の表情になった。
むろんコーヒーの味に、である。
 「これも持ってきたんです」
八戒が三蔵に差し出したのは、『サー・ドッグシリーズ 時計の足跡』という怪奇推理小
説だった。
 「・・・何だこれは」
 「悟空が読みたいというので。渡しておいてくれませんか」
 「悟空が? これを読むのか」
 「どんな話なのかと聞かれたので応えたら、悟空がね、読みたいと言ったんですよ」
それはサー・ドッグという犬好きの探偵が活躍するシリーズである。
猫好きだったら「サー・キャット」なのか、と三蔵はひねくれたことを考えた。
残念ながらちょっと違う。猫好き探偵が活躍するのは、「マダム・キャット」シリーズと
いう。『ドッグ』も『キャット』もあだ名で、本名は別にあるのだが、皆にそう呼ばれて
いるのだ。
そんなことを簡単に説明した後、返すのはいつでもいいですからと八戒は言った。
 「ああ、霙になりましたね。──悟空、大丈夫でしょうか」
つと、その視線を窓の外に投げて、八戒は呟いた。
彼がわざと悟空を名指ししたのが分かったが、三蔵は何も言わない。
外を見やり、すぐに煙草に関心を戻してしまった。
 「平気だろ。そのうち帰ってくる」
 「幸せ者ですね」
 「あ?」
 「悟空がですよ。帰る場所があるっていうのは、少なからず幸せでしょう」
 「それを言うなら、お前も同じだろう」
八戒は瞠目した。
訪れたのは、奇妙な沈黙だった。
 「・・・・・・・・・ああ、そうですね・・・」
今の今まで忘れていました、という顔だった。
 「・・・呆れたヤツだ」
三蔵はほんの少しだけ笑った。八戒の驚いた顔が珍しいので、『してやったり』気分だっ
たのかもしれない。
 「バカに本気になるだけ無駄だ。せいぜいしっかり躾てやるんだな」
 「貴方の経験ですか、それは?」
さり気なく非道いことを言っていると、ばたばたばた、と足音が聞こえてきた。
さっそく少年が『躾られる』ために帰ってきたらしい。
 「ただいま三蔵八戒っ」
 「お帰りなさい」
大きな音とともに開いた扉の向こうには、果たして栗色の髪の少年が息をはずませて立っ
ていた。
 「どうした?」
 「さっきまで悟浄が来てたんだけど」
 「え?」
 「これ、八戒に渡してくれって」
小さな紙袋を手渡され、八戒は首を傾げてそれを受け取った。
なんだろう。それほどかさばるものでも、重いものでもない。
 「──あ」
中身を覗いた八戒が、一瞬目を見張り、次いで極上の笑みを浮かべる様を、三蔵と悟空は
目撃した。
すぐそばにいるのに、ここまで直接は来ない悟浄の心中など、八戒にしか分からない。
「他人には分からないでいい」と想っているのが八戒で、「分かりたくもない」と想って
いるのが三蔵で、「分からないのが悔しい」と想ってるのが悟空だった。
 「・・・すみません、僕、そろそろ帰りますね」
三つの思惑が交錯した後、やがて視線をあげて八戒は言った。
今から追いかければ追いつくだろう。
霙混じりの天気の中を、たぶん傘も差さずに歩いている紅い髪の同居人に。
三蔵に傘を借りたなら、相合い傘なんて古典的なことも出来るだろう。
他愛なく寄り添って、笑いあうことが簡単に出来るだろう。
この霙混じりの空模様に、「ごめん」よりも効果的なのは「体温」なのだ。
 「・・・ああ」
 「またなー、八戒」
いつになく気持ちよく八戒を送り出した二人の心中が、珍しく同じ内容だったことは言う
までもない。




証言4。

 「八戒、まだ怒ってる?」
 「いいえ」
 「そのわりには目が怖いんですケド」
 「謝る気があるなら、直接言って下さいよ」
 「んー、じゃ許して。」
 「もういいですよ。僕だって悪かったんですから。すみません」
 「じゃあ仲直りのキス。」
 「この本読み終わってから・・・って、何するんですか」
 「『紅の空模様』? すげぇタイトルだな」
 「ん・・・っ自分で買っておいてタイトルも覚えて、ないんです、か・・・」
 「本屋の親父に、『マダム・キャット』の新刊くれって、頼んだ、から・・・」




証言5。

 「──で、結局原因は何だったんだ」
 「ああ、悟浄が八戒に頼まれてた本を買い忘れて、八戒は悟浄の読んでた何とかって本
  の犯人をゆっちゃったんだって。」
 「・・・・・・・・・・。」





*END*







(あとがき)
 「だって楽しみにしてたんですよ?」
 「だからって人の楽しみを減らすな」
くだらな過ぎて涙も出ない。痴話げんかなんてそんなもの。
敢えて「悟浄と八戒」という二人のシチュエーションから外してみました。
でもメインは恋は盲目の二人。出てくる小説の設定書いてるのが楽しかったです。
・・・ごめんなさい・・・。



痴話喧嘩に延々とつき合わされている三蔵に思わず合掌。
でもなんだかんだで追い出さずに相手しているあたり、三蔵も八戒には
甘いんでしょうか。悟空も何気なく二人の仲をとりもつあたり苦労して
るんでしょうね。ところで文中に猫と犬が出てきたのはうちのサイトへの
サービスなんですよね?如月さまvv





《言の葉あそび》