![]() うとうとと睡りの淵をたゆたっていた意識が不意に引き戻されたのは、素肌に纏っていた シーツの微かに動く気配を感じ取ってのことだった。 「……?」 眼を開け、視線を僅かに彷徨わせる。 ぼんやりとした思考に飛び込んで来る、白いシーツに眩しく映る陽の光と逞しく灼けた 背中。幾つも残る爪痕は、昨晩自分が付けたものに相違ない。 そんな光景を眺めるともなく眺めながら、包み込む体温、交わした吐息…と、散らばって いた昨夜の記憶を少しずつ纏めていった。 そうして、やがて浮かんでくるひとつの言葉。 「…悟浄?どうかしましたか」 陽射しを遮るようにかるく手を翳し、背中の主に問いかける。 と、振り返って悪戯っぽく笑われた──気がした。 実際の処、影になってしまってよく見えなかったのだけど。 「悪りぃ、起こしちまった?」 「いえ、構いませんけど…」 彼の動作で眼が醒めたことより、悟浄が先に起きていることの方が気になった。 いつもなら、眠りの浅い自分よりも早く覚醒しているなんて有り得ないのに。 「空がすっげえ綺麗でさ──」 思わず起きちまった…苦笑いを零す悟浄の声に翳していた手を下ろした。 「空?」 呟いて、気怠い躰を起こす。 …寒い。 清澄な空気がひんやりと肌を刺し、シーツに残った微かな温もりさえも取り去ろうとする。 小さく身震いをして侵入してくる冷気に抵抗を示してから、窓の外に視線を転じて先刻よ り悟浄が見ていたモノを見遣った。 「夕焼け…じゃ、ないですよねえ…」 視界に入ったのは、眼を疑うくらいに朱く染まる空。 低い位置にある雲の群れが朱色を隠そうとして叶わずに、色付いたばかりの空にあざやか に照り映えていた。 それを映す翠の瞳も、また。 夕陽に対峙した時のように橙色が溶け込んで、濃茶の髪に近似の色彩へと変化を遂げている。 八戒の体内時計は正確だ。どんなに疲労が溜まっていても、定時に目覚めることは確実だ ったし、いくら何でも夕方まで寝過ごすなんて事は有り得ない。 では、夕景と見紛うこの光景は…? 「朝焼けってヤツ、だろ」 ニッと笑う声とともに、ふわりと温もりが戻ってきた。 背後から抱き寄せて来た腕は、躰の奥に疼く微かな痛みと膚に刺さる冷気の、どちらを気 遣ったものだろうか。 悟浄の熱い体温に身を委ねると、気怠さも寒さも嘘みたいに消えた。 な?綺麗だろ…と、囁く声に彼の熱を感じる。 肩越しに顧みた瞳に映る愉しげな、子供みたいに無邪気な表情。 微かにオレンジを増した虹彩に思わず微笑みが零れ出た。 ええ、とひとつ頷いてから、でも…と言葉を区切る。 「雨、来ますね」 「雨?」 こんなに綺麗な空なのに──?怪訝そうに覗き込んでくる声は尤もだった、けど。 「空が赤く見えるのは、空気中の水蒸気が陽の光を乱反射するからなんです。 つまり、湿度が高い分雨の降る確率が高くなる…と」 「この真っ赤な空が、雨を連れてくるってワケか」 「まあ、そういうことになりますね」 ちぇーっ…と、がっかりしたように呟いて悟浄が肩口に顔を埋めて来た。 鮮やかな彩の髪がさわり、と躰をくすぐる。 「……ゴメン」 不意に囁かれた声。 どうして貴方が謝るんですか…そう言おうとして、やめた。 腕の拘束が少し、強くなっている。 朝焼けから雨を関連づけたことで、自分に憂鬱な思いをさせたとでも思っているのだろう。 雨なんてもう慣れてしまった。気にすることではないと、何度も言っている筈なのに──。 気付かれぬよう小さく溜息を吐いてから、少し頸を捻って視線を投げ付けた。 伏せられた表情は見えない。 項垂れたままの悟浄の髪をひと房手に取り、宥めるようにゆっくりと撫で下ろした。 見た目よりもずっと柔らかな髪は、八戒の白い指の隙間からいとも容易く逃げ出してしまう。 攫まえて──逃がして。 「ねえ…こんな風には考えられませんか──?」 するり、するり…と同じ動作を繰り返して何度目かに囁きを口に載せた。 するり…するり。 するり…するり。 彼の紅に厭きることなく触れ続け、辛抱強く返答が得られるのを待つ。 するり…するり。 「…ナニ?」 髪を撫でる音だけが早朝の部屋に響き、暫く後に漸く返事が返ってきた、が。 声は出しても、貌を上げない。 手を止め僅かに眼を細めて、俯いたままの悟浄の頭に己のソレをコトリと預けた。 朝陽の朱は、確かに雨を運んでくる。 だが、同様にして紅の色彩が八戒を此処まで連れて来た。 そのことに悟浄は気付いているだろうか。 冷たい雨の中、消えゆくのを待つだけの我が身をこの小さな心地の良い家まで運び込んだ のは、他でもないこの手の中の紅なのだ。 あの夜以来、幾度この色に触れ、見つめ、口付けただろう。 その都度。彼の持つ惹き付けて止まない鮮烈さと、包み込むような暖かさを思い知った。 鮮やかな色彩は、湿気を孕んだ空気を灼き尽くすことなくその中に溶け込んでしまう朝の 陽光の如く、八戒の中に柔らかく沁み込んでゆき、消せない痕を刻みつけた。 指先に絡め取った紅に唇を寄せて。ふと。 「…やっぱりいいです」 言いかけた言葉を飲み込んだ。 上手く言葉に出来ない気がする──そう思って、止めたのだが。 「──途中で止められるとすっげぇ気になるんですケド」 つい先刻までの項垂れた態度は何処へやら、言い差した途端にがばっと面を上げる悟浄に、 思わずくすりと笑みが洩れた。 「…何だっていいじゃないですか。そんなことより悟浄」 微笑いに言葉を混ぜ曖昧に流して、上体を僅かに捻り瞳を覗き込んだ。 己が姿の映る真直ぐな紅玉。一旦言葉を区切り、じっと見つめる。 「ナニ?」 どうでもいいってコトはねえだろう…腑に落ちない面持ちで呟いて、それでも続きを促そ うとする声に更に笑みを深くして。 「折角だから、少しゆっくりしませんか」 雨じゃ洗濯も出来ませんし、掃除も晴れた日のほうが気持ちいいですしね…そう言って唇 に誘いを掛け、キスを強請った。 朱の空は、色褪せつつあった。 恐らくあと数分で、淡い空の蒼と同化してしまうだろう。 その後に、雨がやってくる。 暁に運び込まれた雨滴が、二人を部屋の中に閉じ込めてしまう──。 閉塞された空間での互いの距離をぼんやりと思いながら、決して褪せることのない紅を己 が翠に融かし込んで、八戒は艶やかに微笑み、ゆっくりと瞳を閉じた。 *END* |