「雨が……降っていたんです……。その日も、今日のような、雨が……」
小首を傾げて伏し目がちに囁く八戒の消え入りそうな声を聞きながら、悟浄はこの先の
時間を思って、そっと右手を握りしめた。



その夜は雨が降っていた。
傘を差しても無駄、というほどでもないが、傘に当たる雨粒がはっきりと音を刻む程度に
は大粒で勢いのある雨が、その夜半から降り続いていた。
男は空を見上げて「ちっ」とひとつ舌打ちをした。
天気予報は言っていたはずだ。天気は今夜いっぱいは保つだろうと。だから男は傘を持た
ずに、いつも通り身軽に街に出たのだ。
そうして出かけた夜の街、飲屋街の外れの初めて入った店で、賭け事に興じ酒を飲み、
女達との会話と軽いボディコミュニケーションを楽しんで、いい気分で外に出たのに……
雨、が、降っていたのだ。
植物にも動物にも暖かくも優しくもない、冷たく体温を奪うだけの雨が。
瞬間、帰ろうか、と男は思った。
けれど、ふと、考え直す。
出掛けに恋人と喧嘩をした。何が原因だったか思い出せもしないほど些細なことがきっか
けだった。気まずい雰囲気のまま家を出た、その場所にはまだ帰りたくない。
やっぱりもう1軒別の店に入ろうか。
……その前に恋人に電話をかけようか。
逡巡して辺りを見回した男の目に、華やかな歓楽街の中、ひっそりとネオンの隙間に沈む
ように佇む電話ボックスが飛び込んだ。
男は首を傾げた。
──変な公衆電話だな。
形は今のものだが、色が何故か紅なのだ。
より一層目立つようにするためだろうか。
首をひねって考えながら、男は呼ばれるように吸い寄せられるように、その電話ボックス
に近づいた。
……その時だ。
突然、電話が鳴ったのだ。



雰囲気たっぷりな八戒の話を、悟浄が口を挟んで遮った。
「……ちょっと待て八戒」
「何です?」
「何です、じゃねえ、ナンで鳴るんだよ公衆電話がっ?」
訊ねる声がごくごくわずかに裏返っている。
「あり得ないことじゃないですよ。
公衆電話にだってそれぞれ固有の電話番号ってありますから」
「ふ、ふぅう〜ん……」
「じゃ、続けますね。」
そぉっと視線を逸らしながら、弱々しく納得した振りをする悟浄に、心の中でだけくすく
す笑いながら、八戒は先を続けた。



トゥルルルルッ!
呼び出し音が雨に煙る闇夜に響いた。
ビクンッ!!
その音に心底驚きながら、自分でも理由の判らないまま吸い寄せられるようにその紅い
公衆電話に近づいて、男は恐る恐る受話器を上げる。
「……もしもし」
『あっ、もしもしー? あたしー』
声の震えを必死に抑えながらの男の応答に、返ったのは若い──女の子、と言う方が良い
のかもしれないほど若く幼い女性の声だった。
話し相手は自分と親しい人間だ、と信じきっているような受話器の向こう側の元気な声に、
男はそれでも律儀に返した。
「あの……間違い電話だと思いますよ?」
『えっ……間違い?』
「ええ。だって、俺が電話を受けているここは、公衆電話ですから」
噛んで含めるように説明すると、相手は
『えーっ? 何でー? だってちゃんと確認してかけたはずなのに』
などと言う。
「番号を1つ掛け間違えたか、メモを取った時に勘違いしたか、どちらかじゃないですか」
その、確認したはずの番号がそもそも違っているのではないか、嘘を教えられたのではな
いのか。
男は意地悪くそうも思ったが、言葉にはせずにおいた。ここで余計なことを言って、妙な
諍いに巻き込まれる必要はない。
打算的な思考をそのままに、ただ声でバレないよう注意だけして、男は当たり障りのない
受け答えをする。
と、相手が突然こんなことを言い出した。
『ね、あなた今、暇? 時間ある?
 お願い、これも何かの縁だと思ってちょっとあたしに付き合って?』
付き合え、とは、話を聞け、という意味だろうか。
別段次の約束があるわけでもない、帰るにしても時間はあるし、帰らないと決めればそれ
があと24時間ほど増える。
今すぐ帰りたいかと訊かれればそういうわけでもないのだし、ならば。
「別に……いいけど。予定もないし」
呟くと、相手は耳聡くそれを聞き取って
『いいの? いいのね? ありがとうっ!』
 と、嬉しそうに笑ったようだった。



「……ナンだよただの間違い電話じゃん」
鼻で笑うフリで言う、悟浄の声はまだ微妙にうわずっている。
ふんわりと笑って八戒は答えた。
「まだまだ。ここからですよ」



数分、男は間違い電話の主とくだらない世間話をした。
笑いながら彼女は言う。
知り合いに困ったヤツがいる。親友と喧嘩をした。バーゲンで買った薔薇の花束が案外
長持ちして嬉しい。この雨は寒くて嫌だ。この闇は寒くて嫌だ。この時間は1人で淋しい。
嫌だ、淋しい、嫌だ…………
段々と話が妙な方向に逸れてきて、そろそろ潮時かと男が思った、ちょうどその時。
『ね、あなた、帰らないの?』
突然相手が男に話を振った。
瞬間男の思考が恋人に向かう。
ささいなことで喧嘩してそのまま出てきた、自分にとってはかけがえのない、大事なはず
の恋人。今はどうしているだろうか。
「帰らない……わけじゃないけど」
考えながら男は言葉を紡ぐ。
帰りたい。会いたい。
……まだ会えない。帰りたくない。
迷う心に忍び込むように、そっと相手が囁いた。
『ね……。じゃあ、もうちょっとあたしに付き合って?』
「あ、ああ。いいけど」
まだ恋人と顔を合わせる踏ん切りがつかない男は、少しだけなら、と思いながらそう答えた。
『ホント? よかった。じゃあ付き合って』
「いいよ」
『ホント? 約束よ?』
「約束?」
──おかしい。
思う間もなく、回線に、チューニングの悪いラジオのようなノイズが入った。
録画時間の過ぎたビデオのような、放送終了後のテレビのような、ノイズだらけの画像が
眼前に浮かぶ。
訝しむ男に、ノイズの向こうから彼女が言った。
嬉しそうに。
楽しそうに。
『あのね。決めたの。あたし、死ぬの。あたし……死ぬの』
「っ!?」
驚いて受話器を耳から離した男の背中を、冷たい汗が滑り落ちる。
──彼女は一体何に“付き合って”欲しいというのだろう。
男に、どうしろと、言うのだろう……?
その先を聞いてはいけない気がして、男はただ受話器を睨み付けた。
けれど、その、受話器に。
──────ぽたり。
何かが、落ちた。
「?」
見つめる先でその“何か”は次から次へと落ちてくる。
ぽたり。ぽた。ぽたり。
最初は水かと思ったのだ。公衆電話の屋根がこの雨で雨漏りでもしているのかと。
だが……違った。ただ公衆電話が紅いから、色が目立たないだけだったのだ。
雫が流れて受話器を握る自分の指を濡らした瞬間、男はそれが何なのかを悟った。
ぽたぽたと絶え間なく落ちて受話器と男の手を濡らすその液体は──血。
突然女の声が響いた。
「ひどいわ」
慌てて受話器を投げ捨てたが、女の声は続いている。
「ひどいわ。あたし、ちゃんと帰りたくない人だって確かめてかけたのに。付き合ってくれ
るって言ったのに。……言ったのに。言ったでしょ? 言ったよね」
どこから聞こえるのか判らない声に向けて、男は目を閉じ弱々しく首を横に振った。
何に付き合えと言われるか判らない、そんな恐ろしい約束をしたつもりはない。
すると軽い口調で女が言った。
「えー? 嘘つきぃー。付き合ってくれるって言ったじゃない。そんな難しいこと言わない
からさ。ね、お願い。付き合ってよ」
男が勝手に良くない方に解釈したのだと、そんな風にも思えるくらい、軽く明るい口調だっ
た。
だから男はつい気を緩めて。
閉じていた目を開けてしまった。
瞬間。
真っ赤な血を滴らせながら、天井からぶら下がるように逆さまに降りてきた女の顔が。
血まみれのまま。
両目を見開いて。
笑った。
「難しくないよ全然。ね、だから、あたしが死ぬのに付き合って!」



「う、うわあああああっっっ!!」
悲鳴を上げてソファの背もたれにしがみついた悟浄を、八戒はにこやかに笑いながら見てい
る。
にこにこ。にこにこ。にこにこ。
「それでね。その男の人は、その公衆電話を飛び出して、慌てて大通りに出てタクシーを
拾ったそうなんです」
「……それで?」
どうやらまだ話は終わりではないようだが、とりあえずその“男”とやらは、その“女”
に取り殺されずにすんだらしい。
少しだけ安堵した悟浄が怯えた顔のまま促すと、八戒は微笑みながら先を続けた。
「ええ、それで、その男の人は何とか家に帰り着いて。
 ……そうしたら、そこに恋人がいたんです」
「……へぇ」
「雨の中。傘を差してはいたけど肩や袖は濡れて。紅いセーターを着た、恋人が」
「……紅、ねぇ」
紅い公衆電話で紅い血に染まった女に命を奪われそうになったばかりの男の目に、その恋
人はどんな風に映ったのだろう。
「悲鳴とか上げたんじゃねぇかそのヤロー?」
──血のような紅に、その男は。
 皮肉を言うフリで口元を歪ませた悟浄に、八戒は言った。
「いいえ。」
「……いいえ?」
「ええ。悲鳴なんて上げなかったんですよ、その人。ただ、思ったんだそうです。ああ、
これは恋人の好きなセーター、恋人の好きな色。これは恋人の好きな紅で、あの女を染め
た血の色じゃない。だから、自分は、帰ってきたんだって、そう、思ったそうです。それ
からその男の人は、その恋人と結婚して、なるだけ早く自分達の家へ帰るようになったそ
うですよ」
「…………へぇ」
(それは恋人の好きな紅。恋人の好きな色。あの女を染めた血の色じゃない、か)
表情を隠すように俯いて、口元だけに笑みを浮かべながら悟浄が呟くと、にこやかに笑っ
て八戒がまた言った。
「危うく死後の世界に連れて行かれそうになったんですよ。ね? 怖いでしょう?
危ないでしょう? だから雨の日は気を付けてくださいね」
呟いたきりそれ以上何も言わない悟浄をすぅっと見つめて、八戒がまた背筋を冷やす笑み
を浮かべる。
「判りました? 悟浄。……こんな話もあるんですけど」
慌てて悟浄は叫んだ。
「もっ、もおいいっ! もう判った! 判ったから止めてお願い頼むこの通り八戒っ!」
実は悟浄はこの手の話が苦手なのだ。これ以上聞かされては堪らない。
いっそ目の前に「幽霊です」と顕れてくれて、その幽霊の言いたいことしたいことが判れ
ばまだいいのだが、具体的な対処法のないただ聞くだけの怪談は遠慮しておきたかった。
いつどこでふと思い出して背筋が冷えるか判らない。
「じゃあ、気を付けてくださいね」
嬉しそうに告げる八戒の笑顔に
(──そういう風に落ちるのか)
と妙に納得もした悟浄である。
帰宅するなり前置きもなく突然こんな話を始めた八戒の意図を、ここにきてやっと悟浄は
悟った。
つまり八戒は拗ねているのだ。
こんな冷たい雨の夜に、悟浄の帰宅が遅れたから。
本当は、雨が降り始めたとほぼ同時に悟浄は店を出ていたのだが、途中で顔見知りの女が
何か勘違いした連中に難癖をつけられて殴られているのを見つけ、助けて店まで送り届け
ていたら、すっかり遅くなってしまった。
日付が変わる頃になってやっと帰宅した悟浄を、テレビのボリュームを最大にしてリビン
グのソファに座ったまま出迎えた八戒は、そんな事情を聞くなり「最低な連中ですね。
その女性、怪我は酷くはなかったんですか?……そうですか。なら、良かった」と言って、
直後にあんな話を始めたのだった。
怒っているわけではない。
知人が不当に殴られているのを放って置いて帰ってこいとなど、八戒が言うはずもない──
むしろそんなことをしたら怒鳴りつけた上に悟浄を殴り飛ばすくらいはやるに違いない。
判っている、でも引っかかる、そんな心境を言葉にするなら、“拗ねている”というのが
ぴったりだろう。
それでも、「でも、早く帰ってきてください」と素直に拗ねて言わないあたり、八戒も大
概複雑怪奇な生き物だと、己が恋人を見つめながら悟浄は思った。
「はーっかい」
悟浄を脅した笑顔のまま、小説を読み始めた恋人に、悟浄はそっと顔を近づける。
「なあ、八戒」
「何です?」
文庫から顔を上げた八戒の肩に。
「あのさー、雨の日は早く帰ろうって、お前のさっきの話で俺しみじみーと思ったケド。
何かさー、八戒さんお話し上手で、今夜はちょぉーっと後引いちゃいそうだから。だから
八戒。一緒に寝よ?」
言って悟浄は鼻先をそっと擦り寄せた。
「なあ、八戒。はーっかい。八戒さん、八戒さま、ンなあ、はっかい〜〜〜」
「ちょ、ちょっと悟浄っ、くすぐったいですってば止めてください」
制止の声も気にせずに、ぐりぐりぐり、と鼻で八戒の肩を押す。
これは悟浄の八戒懐柔作戦だ。
「なあ、ダメ?」
上目遣いで何より綺麗だと思う碧の瞳を見つめると、軽い溜め息を吐いて八戒が答えた。
「まったく。しょうがないですねぇ」
心底呆れたフリをする八戒の、目に浮かぶ光は柔らかい。
「さんきゅ。」
短く感謝の言葉を紡いで、嬉しそうに笑いながら、悟浄は八戒のくちびるに、ちゅ、とヤ
ケに可愛い音を立てて、軽いキスをひとつ贈った。
柔らかな空気を纏ってくすくすと八戒が微笑う。
雨音に竦む様子も拗ねた様子もなくなった大事な恋人のその笑顔に、悟浄は
(懐柔成功?)
と、ほっと胸を撫で下ろした。
が、気を抜くのはまだ早かったのだ。
これからの時間を思い、口元にニヤリと笑みを浮かべた悟浄に向かって、八戒はこんな爆
弾を落とした。
「しょうがないから一緒に寝てあげます。ただし、寝るだけ、ですからねv」
「はぁ!? ちょっと待てよおいコラ八戒! 寝るだけって、ホントに寝る“だけ”っ?」
「そおですよ」
にこやかな笑顔が告げている。
──まだ八戒は拗ねている。
雨が嫌いで、悟浄が戻ってくることを願って、けれど殴られている女性を見捨ててくるよ
うな男は男じゃない、そんな悟浄は悟浄じゃないとも思って。自分でも持て余すような行
き場のない感情を、八戒は“八つ当たり”に近い方法で、真っ直ぐ、ある意味素直に恋人
に向けているのだ。
判っている。
悟浄にはちゃんとそこまで見えている。
見えてはいる、けれど、でも。
恋人と同じベッドですぐ側に体温と呼吸を感じて、ただそれだけで過ごす夜なんて。
「ちょっと待ておい、待てってば! そりゃあねーだろはっかーいっ!!」
そんな悟浄の声を、一足先に寝室に向かう背中で聞きながら、八戒は、思った。
こんな冷たい雨の夜も。
側に暗闇を照らす真紅の燈火のような恋人がいて、その恋人の体温があって。
そうして甘く優しいキスがあれば。
もう。
自分は。
寒くない。





*END*






『コメントという名の言い訳』

 あのテーマにこのタイトル、そして(お読みいただければお判りかと
思いますが)この内容。『雨、紅、キス』に萌えていらっしゃるだろう
58な方々に喧嘩売ってるとしか我ながら思えませんが。(←なら止せよ)
だって、このテーマだったらぜーーーったいシリアスな『王道』の話は
どなたかがお書きになると思ったんですよーおっ!(大汗)
他人様と読み比べられたら見劣りしそうで逃げを打ちましたこの狐(自爆)。
他の方の素晴らしい作品が沢山あるんですから、1つくらいこんなバカなのが
あっても許して・・・もらえるんだろうか・・・






これがいただいたタイトルです。(笑)
なぜこんなトコロにもってきたかというと、そのほうが怪談噺が
もりあがるかな〜?と思っただけでして。下手な演出でしょうか;
しかし、このタイトルって悟浄の心の叫びですよね!
ぶんぶんと八戒に振り回されながらも、それでもちゃんと解っている
悟浄がたいそう可愛いと思います。もちろん台風並にぶん回す八戒も
大好きです。(笑) 《結花》





《言の葉あそび》