![]() 冷たい雲が重たい湿気をはらんで、雨をつれて来る。 「ちょっとそこまでリハビリに」 霧雨くらいならもう大丈夫、とうそぶいて外に出てみた。 雨は辛い記憶を喚起させる。 冷たい雨はまだ少しだけ心と身体を冷やしたけれど、それでも以前ほど自分を苛まなくな っていた。 「最近、けっこう平気なんです」 そんな自分が、少し、薄情に思える。 心配そうな悟浄が少し離れたところで煙草をふかしていた。 「時間が経てばもっと大丈夫になるんじゃねー?」 「そんなもんですか?」 「それが本能っつーモンだろ」 湿った地面を踏んで、悟浄が歩み寄って来た。 背中に感じる、悟浄の体温。 意識してか無意識にか、雨から庇うように後ろから覆いかぶさるように。 「いつまでも重たいまんまだったら持ち歩くのに不便だし」 「・・・」 「だから、うまいこと忘れたくないとこだけ残してさ、薄れていくワケよ」 降りしきる霧雨の中、悟浄はとても優しい瞳をした。 「辛いけど大事な想い出、だろ?」 無理すんな、八戒。と悟浄は低く囁いて抱きしめる腕に少し力を込めた。 優しい瞳の奥に見え隠れする影に、自分は気づいて。 だから知らないふりをしてさらりと聞いた。 「あなたもそうなんですか?」 「俺のことはどーでもいいの」 本当は知っている。 彼の心の片隅に眠る、紅い花の記憶。 紅い花はきっと少しずつその精彩を失っているのだろう。 それでも心の中で、小さな少年の頃の悟浄は紅い花を抱えたまま立ちつくしている。 時がたてば自然に薄れるのが優しい本能の所為ならば。 悟浄の腕の中で紅い花が自然にしおれて枯れ果てる前に、大切そうに抱かれたその花を この手で叩き落としてやりたいと思った。 「悟浄」 「ん?」 抱き込まれた腕の中。 今この瞬間、彼が抱いているのは紅い花ではなく――― 「貴方が望むのであれば、僕は花にだって何にだってなってみせますよ」 紅い花以外にだったら何にでも。 雨音が強くなった。 意識せず、はねる鼓動に身体がすくむ。 「・・・雨が全然怖くなくなってからにしておけ」 土砂降りの雨の中、高らかに笑いながら悟浄の大切な紅い花をその腕から叩き落す自分を 心に描こうとしたけれど 嗚呼 花喃――― 結局それはかなわずに。 「なんかめちゃくちゃ悔しいです」 「お互いサマでショ」 口調は軽く、でも『切ない』顔をする悟浄。 「家帰ってあったかいモンでも飲もうや」 「・・・ハイ」 手をつないでとぼとぼと残り数メートルの家路。 空いた手を、しっかりと握り合って歩く。 「けっこう、切ないものですよね」 「・・・そだな」 玄関先でふと佇んで、悟浄はふいに八戒にキスをした。 「おまえ、泣きそうな顔したから・・・」 そっちこそ今にも泣き出しそうな顔のくせに。 「泣きやしませんよ、この程度の雨で」 「嘘こくな、莫迦」 きっと自分と悟浄には同じように大切なものがあって。 この世界すべてとひきかえにしても手に入れたかったそれは、とてもとても大切なものだ ったけれど。 結局悟浄はそれをその手に掴むことはできず、そして自分は掬おうとした指の間から零れ 落ちていった。 辛くて痛いはずなのに、どうしてだろう。 ぼくらはふたりして難儀な想い出の切れ端を大事にそうに掴んだまま手放せない。 「とりあえずもう、雨見るな」 「見なくても聞こえるし、感じます」 「じゃあ何も考えられなくしてやるよ」 ―――俺のこと以外。 悟浄は低く囁いてもうひとつキスを落とす。 それは少し唇から逸れて。 「・・・キスの仕方も忘れたんですか?」 「おまえがあさっての方向向いてるからだろ」 拗ねたように悟浄は言って両手で八戒の顔を固定してから今度は深くきちんと唇にキスを した。 可笑しいと思う。 自分は大事に大事に手放したくないものを手に持ったまま、相手には大事なものを手放し て自分だけを見て欲しいだなんて。 「・・・すみませんね、お手数おかけして」 なんとなく申し訳ないような気持ちで言えば 「―――お互い様、だけどな」 と綺麗にウィンクを投げられた。 紅い花を見たら、無口になる悟浄。 強い雨音に怯える自分。 それでも、それでもいつか。 いつか本気で自分は、彼のために花になろう――― つ、と視線を上げれば飛び込むのは紅。 悟浄が心に抱える花と同じ色。 そして、自分をこの世界につなぎ止めた色。 優しくて悲しい――― 「負けませんから」 「なんか言った?」 「いえ、別に」 自分はまだ霧雨以外の雨が怖くて。 悟浄の腕の中にはしおれかけた紅い花。 僕たちはお互いの不可侵の部分に嫉妬して、そしてそれぞれに大事そうにコンプレックス を抱えたまま、ほのかに切ない恋をしている。 *END* |