「なー八戒。そろそろベッドで寝る気ない?」
夕食後、コーヒーの入った二人分のマグカップを手にリビングに入ってきた八戒に、悟浄は
吸っていた煙草を灰皿に押しつけて顔を上げた。
「まだいいですよ」
その問いに八戒は、困ったように笑って殊更軽い口調で答える。
繰り返されるそのやり取りはここ数日で日課のように馴染んでしまったもので、最初は八戒
の答えにあっさりと納得していた悟浄も、次第に隠しきれない苛立ちをその表情に滲ませる
ようになった。
コーヒーを一口飲み、それがさも苦かったかのように今日も顔を顰めて悟浄は口を開く。
「だからさ、せめてベッドくらい買おうぜ?」
八戒が悟浄の家に住むようになって1週間。それは八戒がソファで寝るようになった時間と
同じ長さだった。
新しいベッドを買うまで交代でソファで寝るという悟浄の提案を八戒は頑なに受け入れなか
ったのだ。
「このままずっとソファで寝るつもりか? 服だって俺のだし」
「すみません…もう少ししたら、ちゃんと働いてそのお金で買いますから」
俯いて小さな声で告げる八戒に、悟浄は慌てて首を振る。
「別にそーゆー意味で言ったわけじゃねーって。いつも美味いメシ作ってもらってるんだし
これくらいさせろってコト。俺の稼ぎを見くびるなよ?」
にやりと笑う悟浄に八戒もつられたように口元を綻ばせたが、すぐにそっと目を伏せた。
「でも、ここに住まわせてもらってるんですから、それくらい当然のことですし…」
「…それとも、もう行く当てでも見つかったのか?」
思ってもみなかった言葉に弾かれたように八戒が顔を上げると、どこか張り詰めたような静
かな表情がそこにあった。その視線に縫い止められたかのように、八戒はただ呆然と目の前
に座る同居人を見つめ返す。
「自慢じゃねぇけど俺は美人と賭け事に関すること以外物覚え悪ぃからな。…ゴミの日はま
だ覚えちゃいねぇぜ?」
瞳の奥には真剣な色を覗かせたまま悪戯っぽく笑う悟浄が、ふいに立ちあがった。
「じゃあさ、勝負しようぜ」
「え?」
突然の言葉について行けず目を瞬かせる八戒に、既に目的のものを探しに歩いていた悟浄は
振り返って愉しげに言い放った。
「今からカードで勝負するんだよ。俺が勝ったら俺の言うことを聞く。お前が勝ったらお前
の好きなようにさせる。どうだ?」
「…いいですよ」
「んじゃ決まり。どんなことがあってもやり直しはナシ、1回きりの勝負だからな」
いささか勝負ごとには自信のある八戒があっさりと了承すると、悟浄も不敵な笑みを浮かべた。



――10分後。
「悟浄…イカサマしたでしょう! ずるいですよ。今のはナシです」
「どんなことがあっても1回きりの勝負だって言ったろ?イカサマだって勝ちは勝ちだぜ」
「っ……」
鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌のよい悟浄を、八戒は恨めしげに見遣る。
「つーわけでベッドとか服とか揃えような」
「……でもやっぱり悪いです」
この後に及んで反論を試みる往生際の悪い八戒に、悟浄は大きく溜息を吐くと急に何かを思
いついたように口の端を吊り上げた。
「ならさ、こうしようぜ」
聞き返す間もなく、悟浄は眼を見開いたままの八戒に素早く掠めるように口づけた。
一瞬何が起こったのか理解できずに目を見開いていた八戒が見る見るうちに真っ赤になって
いく様を、悟浄は何事もなかったかのように悠然と座って眺めていた。
その眼には面白がるような色が浮かんでいる。
「交渉成立。お代は確かに受け取ったぜ」
「……こんなのがお代になるんですか…?美人のお姉さんならともかく、僕、男ですよ?」
「んなの拾って腹の中まで見た俺が一番知ってるって。でも美人さんにゃ変わりねーし。
あ、俺ノーマルだから安心しな。見境なくお前襲ったりはしねぇから」
「当たり前ですっ!」
――この先何度も溢れるほどの思いを込めて繰り返すことになるなんて思ってもみなかった
これが最初のキスだった。
怒りと羞恥に頬を染めたまま睨みつける、感情を露にした八戒の姿を見て悟浄は満足そうに
笑う。その目はどこまでも暖かかった。



目を上げれば見える未来。
それに気付かせてくれた命の色が八戒の眼に焼き付く。
生きている自分。生きている世界。
どんなに嘆いて現実を拒絶しても、自分の生きる世界はここでしかない。
ただ歩き続けるしかないのだと。
力強い紅が静かにそう告げていた。


「なー、明日買いに行こうぜ。全部まとめて」
「それなら早起きしなきゃいけませんね」
「うっ……」
「いいですよ、僕一人でも大丈夫ですから」
「いーや。俺も行くぜ! 一人でなんか行かせたらお前の部屋、バーゲン品のオンパレード
になりかねないからな。絶対起こせよ!」
「はいはい」
…絶え間ない雨のように降り注ぐそのやさしさを、一つ残らず受けとめて応えられる自分に
なれたらと、どこか憧憬にも似た思いを抱きながら八戒は微笑んだ。


一つ確実になった明日。
こうして積み重ねていって。

いつかきっと言葉よりも鮮やかに――未来に、触れる。





*END*







同居を始めた頃の悟浄と八戒の二人って、どこか初々しいですよね。
友達と呼ぶには親密すぎて…でもまだそれ以上ではないちょっと特別な感じで。
どこか不思議に暖かい関係が、やがて何よりも大切な存在になるんですね〜。
《結花》


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