たとえ絶望の涙の雨が
此の身を冷たく濡らそうとも


我が命は永久(とこしえ)に碧の葉を広げる
一本の常緑樹となりて


万物を其の暖かき光で慈しむ
紅き陽に貴方の生を待つ


其の愛しき手に触れ
愛しき唇に祝福の口付けを捧げる時まで







汝を呼ぶ我が魂は
新たな生と死を繰り返す


















前 編








「天蓬元帥ー?」
背後から響く、よく通る低い声。
「お昼寝中、すぃません。あのさぁ・・・・・・・すっっごく探したんですけど」
討伐中の激しい雑音の中でも、くっきりと聞こえる力強い声。男臭いその声が、今はなげや
りな気持ちをたっぷりと含んでいるのがありありと感じ取れる。
もたれかかっていた木立の幹から顔をあげると、鼻先までずりおちていた眼鏡が、黒い軍服
の上に転げ落ち、膝の上に広げられたままの本の上へとたどり着いた。
「一時間後に集合、作戦遂行て言ったの、何処の誰だ?」
「んー?貴方ですか?・・・捲簾大将・・・・」
「・・・マジで寝てやがるな、てめぇ」
黒い軍服の裾が眼前で翻り、男はどっかりと目の前の草の上に座りこむ。
「まだ、集合時刻五分前じゃないですか。」
鼻腔をくすぐる濃い煙草の匂いにつられて、思わず手が無意識にポケットの煙草を探って動
いた。いつもの白衣とは感触の異なる軍服のあらゆる場所を探り、ようやく煙草の箱に手を
かける。
「俺が起こしにこなかったら、寝過ごしてただろーが・・・」
「やだなぁ、人聞きの悪いこと言わないでください。僕が何時時間に遅れました?」
「あのね、時間に遅れないのが普通でしょー?!」
ぼんやりとした視界で火種を探して別のポケットを探っていると、軽い摩擦音と共に硫黄の
匂いが鼻につく。くわえた煙草の先に火をつけた捲簾は、膝の上に転がったままの眼鏡を取
り上げると、手慣れた手つきでかけ直させてやった。
脳に染み込んでいく煙草の煙が、ようやく朦朧としていた意識を取り戻させてくれる。
「こんなトコきて、読書かよ」
がりと短い髪をかき、明後日の方向を向きながら、軍服の襟をはだけた美丈夫はぼやく。
「いいじゃないですか。この本、拾ってきたんですけどねー、期待を上回る逸品でした。
時と場所を選ばないのが書物のイイ所ですねぇ・・・」
「選ばなさすぎじゃねぇか?全く、こんな・・・・」
言いかけた男は言葉を途中で呑み込み、煙草を深々と吸った。全く、こんな状況で、と続く
筈の責め句が耳に聞こえ、思わず苦笑いがこみ上げる。

地上での戦局は困難を極めている。天界での不穏な動きが地上を包み込んでいるかのように
どろどろとした膿が溜まりきっているような澱んだ空気。
死の存在しない天界に有りながら、死という言葉が、目の前にちらつくような日常。

「初めて見た本でした。戯曲の類みたいです」
唐突に膝の上にあった本を取り上げて笑ってみせる。瞬時に捲簾の唇が引きつったのを視線
の端で捉えながら、にこやかに微笑みかける。
「これが笑っちゃうほど寒いシナリオなんですよね。道ならぬ恋に堕ちた恋人達の物語。
・・・・ほら、誰かが好みそうなテーマでしょう?」
「あーあー、そうですか」
うんざりとした表情で捲簾は紫煙を宙に吐き出すが、話に水を差す気は無いらしく、じっと
次の言葉を待つように煙草をくわえ続けている。
木々が生い茂る木立の間を、砂混じりの風が吹き抜けていく。青い空には鳶が悠々と羽根を
広げて大きな輪を描いている。
何もかもが安定した、一見平和な世界。
束の間の平和と、その後にやってくる惨劇とを知る男達には、哀しい程にその光景は美しく
見えて。
「出てくる恋人達が、若さ故に情熱的で、笑えますよ。ああ、青い春ってやつですね、二人
きりの世界に浸って他が見えなくて。台詞もそこはかとなく大袈裟で陳腐で楽しいんですよ。」
「・・・・ボロッカスじゃねぇの・・・・」
「死んだ主人公の後を追う恋人の台詞が、また陳腐で笑っちゃうんですよ」


たとえ絶望の涙の雨が
此の身を冷たく濡らそうとも


我が命は永久(とこしえ)に碧の葉を広げる
一本の常緑樹となりて


万物を其の暖かき光で慈しむ
紅き陽に貴方の生を待つ


其の愛しき手に触れ
愛しき唇に祝福の口付けを捧げる時まで





汝を呼ぶ我が魂は
新たな生と死を繰り返す





手に持っていた戯曲の一節を読み上げる声は笑いに揺れている。
やれやれと肩を竦めて聞き流す捲簾は、腰にぶら下げていた酒瓶を悠々と持ち上げ、口をつ
けながら、晴れた空を仰いだ。
「ねー。若いって素晴らしいと思いません?地上でも来世で邂逅するという思想があるんで
すね。転生したら人間ではなく、樹となって太陽になる貴方を待つだなんて。なかなか、
ロマンティックじゃないですか。」
へいへい、と適当に相づちをうつ捲簾は、ぱん、と膝を叩いて立ち上がる。
背の高い男がのっそりと立ち上がるのを、未だ笑いの消えぬ表情で見上げた。
「で。その戯曲とやらは、どういうオチがつくわけ?」
「は?」
「道ならぬ恋に堕ちた恋人は、どうなるわけ」
訝しげに首を傾けると、今まで読み上げてきた本をぱたりと閉じる。

「・・・・さあ?」

眼鏡の奥の瞳が微かに暗く曇るのをごまかすように、くすくすと笑いながら、眼前の大将の
精悍な顔を仰ぎ見た。
「どういう風の吹き回しです?貴方が、僕の読んでる本の続きを知りたがるなんて」
雨、ふってきちゃうじゃないですか。僕、雨の経験浅いですから困るんですよね・・・、と
真剣な面持ちで真上の空を見上げると、男はぶつくさと呟いた。
「別にー?」
「どうぞ、貸してあげるから、たまには自分で読んでみたらどうです?」
「いいって!遠慮するっ!」
「まあ、そう言わずに」
「もういいって!・・・それより!指揮を御願いしたいんですケドー!天蓬元帥?」
投げやりな台詞を吐きだしながら、踵を返す捲簾はすたすたと来た道を戻っていく。
その後を追いかけながら、まだ、言葉の続きを追うようにして笑う。
「居眠っちゃったことにしちゃ駄目ですか?」
「そー言っといてアンタ、いざ戦闘になると一人で突っ走るんだからなー。
・・・勘弁してくれよ、全く」
二つの足音が消えていった木立の根本に、一冊の古びた本が放り出されている。砂混じりの
強い風が、その黄ばんだページを、ぱらぱらとめくっていった。





◆◇





まるで、水底から身体を引き上げられるような緩やかな覚醒。
夢と現実の狭間に居る心地よさと切なさが胸をよぎる。
曖昧なイメージの世界から己を引き戻したのは、遠くで聞こえた人の声だった。
眼を開けると、天窓のある天井が目に入る。孔雀の羽模様が一面に施された天井を見つめな
がら、まだ夜が明けていないことをぼんやりと感じる。
先刻、確かに人の声を聞いた。静けさに耳を傾けながら、ゆっくりと温かな布団の中で寝返
りをうつ。
くるまっていた絹の布団を傍らに押しやり、羅紗の上掛けを無造作に蹴り飛ばしながら、
まだ薄暗い部屋の床に素足で降り立った。長い毛足の絨毯がふわりと足先を包み込む。
金の装飾が施された飾り机の上に放り出されたままの干支表をちらりと眺めながら、手の込
んだ細工の施してある椅子にもたれる。傍らに置いてある煙草を取り出し、ゆっくりと口に
くわえながら火をつける。
喉を通り抜けていく紫煙。見上げれば、天窓に、ぽつりと雨の滴が当たっている。
「雨・・・・」
肌がざわりとさざめくのは、ひやりとした室内の空気のせいだけではない。

シルクの夜着の裾を折り返しながら、腰まである長い黒髪を両手ですくい、後ろへとまとめ
てみる。貴方は男の子なのに、女性も羨む程の美しい髪をしているわね、と、幼少の頃に聞
いた母の笑い声が胸によみがえった。

『人は死期が近付くと、昔を思い出す』

誰が言い出した事かは知らないが、当を得た伝承かもしれないと、不意に思う。
くせの無い細い髪は広げた指先からするすると流れ落ち、音もなく身体にまとわりついた。
絡まった長い髪の先を手指で梳いて解れを取り除きながら、大きな窓の側に吊してある金の
鳥籠へと足をすすめる。
「この所、頻繁に夢に見ますねぇ」
鳥籠の中に居る白い小鳥に話しかけると、小鳥は首を傾げて一声鳴いた。
「今日は、・・・ゲート付近の出陣の様子だったように思いますよ。辺りの地形に見覚えが無
かったですから、きっと頻繁に妖怪が出る場所ではなかったんでしょうね・・・・」
報告書を読み上げるように淡々と話しつづける。小鳥の小さな瞳は部屋の中を彷徨い、忙し
なく羽ばたく白い羽根が空気を震わせた。
「・・・・・貴方が、僕にわかる言葉を操れるのなら、一度、聞いてみたいものです。」
長い髪をかき上げながら背を丸め、鳥籠を覗き込む。小鳥は近付いてきた影に怯えるように
後ろに下がったが、すぐに慣れたのか、再び小さく鳴きながら籠の中を飛び回る。



「貴方も、夢に見てるんでしょうか。・・・・・前世の想い出を」





◇◆




「・・・・・聞いていい?」
「・・・・・聞かないでください」
「お前ね、まだ何も訊かないうちに拒否すんじゃねーよ」
「だったら、さっきの質問は無意味でしょう?・・・・・どうせ、ダメだって言っても聞くくせに」
見上げた窓は水滴で白く曇り、ぼんやりと白む空がその向こうに広がっている。
夜明けは、近い。

乾いた唇を舌で舐める。喉の渇きを覚えるが、一人分の寝台の上で散々に貪り合った後の身
体は気怠く、まるで鉛の如く、重く。
「ま、そりゃそーか」
あっさりと己の非を認めた捲簾は、一糸纏わぬ身体の上に毛布を無造作にかけて、寝ころん
だまま煙草をくわえた。
濃い煙が漂ってくると、身体が無意識に煙草を求め始める。ゆるゆると眠気を含んで降りて
くる瞼はそのままに、床を眺めて煙草の箱を探そうと試みる。視線の意味を解したのか、捲
簾は程なく立ち上がり、床から煙草の箱を拾い上げ、投げてよこした。
手早く煙草に火を落とし、胸の中に煙を満たす。
張りつめていた身体と心がふわりと緩む時間。

「まあ、気が向けば答えてあげますけど?」
永久に気が向きそうもないような言い回しで返事を返すと、はぁ、と長い溜息が背後から聞
こえた。喉を低く鳴らして笑いを堪える捲簾の肌が、乱れた敷布の上で直に肌に触れる。
「じゃあ、聞かせてくれよ。」
汗に湿った長い髪を、煙草と酒、そして銃の手入れをする時の油の匂いの染みついた指先が
物憂げに梳いていく。



「どうしてお前、唇にキスしねーの」



「そうだ。ちょっと僕爪切り探してたんですけど」
「おい!まてコラ!」
長い指がとまり、くいと耳朶を掴まれる。
「聞ぃてるんだろうが!」
「・・・・眠いんですけど。」
弱々しい声をあげれば、一瞬の沈黙が部屋を横切った。
ちらりと眼だけで横に居る男の横顔を見やると、美丈夫の顔は微かに曇っている。
「・・・・寝るか」
狭い寝台の片側にごろりと横向きに転がる男の短髪に戯れるように指を這わせると、無言で
その指先を掴み、捲簾は指先に唇を寄せた。
先刻投げかけた質問の答えを、促すかのように。
「寝ましょう」
ぴしゃりと言い放てば、目の前の男は、背を向けたまま頷いた。


夜明け前まで身体を繋ぎ合えば、殆ど眠らずに慌ただしい朝を迎える。寝不足での出陣も幾
度か経験してきた。
眼の下に隈が出来ているのがおかしいと忍び笑いをする捲簾の瞳は、いつも紅く腫れていて
まるで泣きはらしたようにも見えた。
一瞬の判断ミスが命取りになる地上での討伐に、徹夜のまま平気で乗り込む。
自暴自棄で無責任だと、己を責め続けながらも、繰り返される戯れ事。




今、与えられる全てを、身体に刻みつけておくだけのために。




この時間は、もう戻ってこない。
永遠を許された天界ですら、咲き誇る桜の一つ一つは、花弁を散らし、跡形もなく消えていく。
合わせた肌の温もりも、独り闇の中立ち尽くせば、身体から儚く消えていってしまうのに。
それがわかっていても、生殖行為に没頭する獣の如く、滴り落ちる雫を舐め、肉に歯をたて
て、目の前の身体を貪り合う。言葉も交わさぬまま。



「さっきの質問、答えて欲しいですか?」
煙草の始末をする行為すら億劫であった。疲れ切った腕をあげて、長い吐息を吐き出す。
背後に寝転がる捲簾は、何の返事も返さない。
代わりに、深い寝息が耳に届いてきた。

「・・・・一度きりのチャンス、逃したみたいですね」





◇◆





「貴方は、僕を覚えているんですか?貴方に勝手に前世の名前をつけて、此処につれてきた
僕の・・・・前世の姿を」
鳥籠を覗き込みながら、長い黒髪の男はゆるりと笑う。
「教えて欲しかったのですが、どうやら、お迎えが来たようですね」
籠の隙間から差し出した青菜をついばみにやってきた小鳥へとぽつりと呟いた途端、扉の向
こうで激しい音が鳴り響いた。
「先生!」
重い扉が開く。
「と、とうとう・・・・軍の兵隊達が館に侵入してきました!」
青年が一人、転がり込むようにして部屋の中に入ってきた。
開いた扉の隙間から、硝子の割れる音や重い物が床にたたき付けられる音が聞こえてくる。
青年は背後を振り返りながら、叫んだ。
「お逃げください!私が、命を賭けても先生をお守り致します。どうか、今直ぐに!」
血相を変えた青年の右手には、短い小刀が握りしめられている。
美しい瞳を瞬かせながら、長い黒髪の男は、白いシルクの夜着だけを纏った身体を窓枠にも
たせかけて肩を竦めた。
「どうして、貴方、此処に居るんです?」
「先生!」
「昨夜、言った筈です。貴方も例外ではない。・・・・・・皆、昨日限りで破門しました。貴方
はもう僕の一番弟子でも何でもない。さあ、直ぐに此処から立ち去って下さい」
「私は、・・・・私は、最後まで先生のお側におります!」
頭を垂れて、青年は拳で頬を拭う。階下では、大勢の人間の足音が地鳴りの如く響いている。
「郷随一の占い師でありながら、先生はそのお力を政(まつりごと)に利用されることをあ
くまでも拒まれた。命まで狙われても、決して力に屈服なさらなかった先生を、私は心から
尊敬致します。武力にも屈することなく、凛として、占術の世界を自分を盾にして守られて
おられる・・・・先生、貴方は、まだ生きなくてはいけません。占術の崇高な理念の確立と永遠
の繁栄の為に、先生は、まだ生きなければならないんです!」
悲痛な叫び声を、やんわりと手で払いのけて、黒髪の男は冷ややかに呟いた。
「言いたいことは、それだけですか。」
「先生!」
「終わったのなら、出ていってください。」
くるりと、背を向けた男の背中で、長い絹髪がさやりと揺れる。
「・・・・・僕は、占を政や武力と癒着させたくなかったわけでも、他の権力に介入されたく
なかったわけでも、ありません。・・・・・・貴方が、都合のいいように解釈してるだけです。
目の前にある事象を、己の主観を交えずに理解する能力は、基礎だと言ったでしょう。
どうも貴方には、それが未だ不足してるようですね・・・」
窓の外の空は、白い霧に包まれている。しとしとと降る雨が、木々の葉を美しく濡らし、
輝かせている。寒々とした、夜明け。
「たまたま僕自身が小さな頃からずっと見てきた夢に、自分の前世の姿を見ていたから、
前世を占う術に興味を持っただけのことです。僕はずっと知りたかった。自分の前世と、
・・・・そして、前世で巡り会った者達が、今、どんな形で転生しているのかを・・・・。ただ、
それを調べたいが為に、僕は占いをしているだけです。・・・貴方達にも、いつも、聞かせて
いることじゃありませんか」
青年は、肩を上下させて、男の言葉を聞いている。
その眼鏡の奥の瞳は、溢れる涙でぐっしょりと濡れていた。
男は、窓硝子に伝わる雨の水滴を指でなぞりながら、うっすらと笑った。
「貴方も知ってるとおり、禁忌であるにも関わらず、もう飽きる程自分自身を占いましたし
ね。おかげで探していた者も、・・・・・見つけることができました」
黒髪を肩から滑り落としながら、男は深い碧色をした瞳で、金色の鳥籠の中をみやる。
元気に籠の中で飛び跳ねる白い小鳥に、細い指を差し出しながら、男は満足そうに微笑んだ。

「でもっ、先生は・・・・先生はッ!」
「行きなさい」
きっぱりとした声に、青年はびくりと身を震わせて、顔をあげる。鳥籠に身をよせる男の後
ろ姿を、涙を零す青年がじっと見つめている。
「貴方達が無駄死にすることは無い。・・・・僕はいつものように、禁忌を無視して僕自身を
占いました。この後に起きる出来事は、僕が選んだ僕の運命です。・・・・・誰にも、指図され
るつもりはありません」
細い人差し指が、重く閉じた扉を指す。扉の向こうでは、乱暴な足音や、陶器や硝子の割れ
る音、下品な笑い声や怒鳴り声がだんだんと近くなってきていた。
「先生・・・・!せ・・・・・」
「貴方の師匠として、命じます。・・・・・今直ぐ、此処から出て行きなさい!」

青年はがっくりと床に頽れた。
投げ出した短剣が、床をからからと滑る。頭を抱え込み、激しく嗚咽を繰り返していた青年
は、がばりと立ち上がると、顔を伏せたまま扉に縋り付いた。
激しい声をあげて、青年は扉を開けると、狂ったように廊下へと走り出た。
階下の騒音が一際激しくなり、意味の無いわめき声や怒鳴り声が広い館中に響き渡った。
その轟音に驚いたのか、金色の鳥籠の中の小鳥が、宙で激しく羽ばたく。

部屋に残された男はにこりと軽やかに微笑んで、鳥籠の入り口を開けた。
するりと滑り込んできた長い指先に驚いて、小鳥は籠の天井にぶつかりながら飛ぶ。
その震える身体をすばやく掴まえ、男はそっと籠の外に小鳥を連れ出した。
差し伸べた両手の中に、小鳥はちょこんと座り込み、おどおどと首を動かしながら周囲を
見回している。その小さな丸い瞳を、男はゆっくり覗き込んだ。
「次は、貴方ですね。」

ふわりと宙に舞った小鳥は、金色の飾り机の上に舞い降りた。
ちょんちょんと干支表の上を飛び跳ねている小鳥を見守りながら、男は先刻弟子の青年が残
していった短剣を、床から拾い上げた。
長くのびる髪を左手で一房握りしめた男は、右手にもっている短剣の刃を、その髪に当てた。
さく、と軽い音がして、黒く長い髪が一房、蛇のようにとぐろを巻きながら床に散らばって
いった。
「・・・何をしてるのか、興味があるんですね?」
小首を傾げる小鳥に話しかけながら、淡々と男は髪を肩の辺りまで切っていく。
長さがまちまちになるのも構わずに、大胆に刃で切り落としていく。
「・・・・首を落とされる時、髪が長いと邪魔になるんですよ。」
薄い唇が、ゆっくりと微笑みを形作った。

窓を開けると、霧のような小雨が中へと入り込んでくる。
驚いたように天井近くをぐるぐると飛び回る自由な小鳥に、男は嬉しそうに話しかける。
「・・・・・そういえば、貴方と出会った時も、雨が降ってましたっけ。あの雨の日、翼を傷つ
けた貴方が僕の家の前に転がっていなかったら、僕は一生、天を飛ぶ貴方を見つけることは
できなかった・・・・。」
くるりと旋回する小鳥の元気な両翼が空気をかき回す。
雨模様の天候に戸惑ったように飛び回っていた小鳥は、次第に飛ぶことに飽きたのか、ゆっ
くりと下へと降りてきた。
「・・・・占いで、調べてみました。・・・・・ここから東北東の方角へ飛んでいくと、人が殆ど足を
踏み入れない未開の地があります。その一際高い山の頂に、札が貼られた祠が見えます。」
窓枠に留まった小鳥は、首を傾げて、男の声に聞き入っているようにも見えた。



「・・・・・悟空を、覚えていますか。・・・・・あの子は、そこに封印されています。もし、
貴方が少しでも覚えていてくれるなら・・・・飛んで行って、彼の相手をしてあげてください。」



背後の扉が、だんだんと荒っぽく叩かれた。
「出てこい!さもなくば、こっちから行くぞ」
「貴方がどこへ飛んでいくか、見送れないことだけが、残念ですね。」
荒々しい足音、金属の武器があちこちに当たる音が響く。
豪快な笑い声と共に、重い扉が靴底で激しく蹴られ、ぎしぎしと軋んだ。
「命に背けばどうなるか、もう、わかっている筈だ。出てこい!」

窓を大きく開けると、細かな雨が男の短くなった髪に降りかかってきた。
微笑んだ男の濡れた頬に、一筋の黒髪が貼り付く。
「さあ、お行きなさい。次に出会える日には、もうこんなにはっきりと、・・・貴方の顔も、
名前も、もう・・・・覚えていないのかもしれませんけれど」
大きく羽ばたき、勢い良く雨空の中へと飛び出していった白い小鳥に、窓から顔を出した男
が小さく呼びかける。




「また、遭いましょう。・・・・・・・捲簾」




背後で、扉が乱暴に叩き壊された。東北東の方角を目指して羽ばたいていく小鳥が視界から
消えていくのを見守りながら、男は美しい瞳を伏せて、涼しげに微笑んだ。
















「たとえ絶望の涙の雨が」

後編へ







《言の葉あそび》