「・・・んだってんだよ。」
悟浄のふて腐れた独り言は、ベッドの軋みによってかき消された。
それは、いつもの様に其処に2人分の体重が掛かったからではなく、ただ悟浄が必要以上
に弾みをつけてベッドに飛び乗ったが故。
その数分前。久々に、悟浄は八戒と喧嘩をした。







切っ掛けは、もう覚えて居ない。
確かなのは、『八戒と喧嘩をした』という事実。
お互いに虫の居所というやつがちょっとばかり悪かっただけだろう、と思う。
だが、思ったとしてもそれを態度や言葉で表せる程頭は冷えていない。
端から見れば痴話喧嘩の部類だとしても、当事者両方共に余裕が無ければ、犬も食わない
喧嘩は成立しないのだ。
天井を眺めながら、煙草を出そうとポケットを探る。
すぐに馴染んだ軽い紙の感触が指に触れた。
しかし、取り出して握り締めた瞬間、それは儚くもくしゃりと潰れた。
1本くらいは残っていないかと、ひしゃげた箱の中を覗き込む。
中に残っていたのは、これも馴染んだ煙草の匂いだけだった。
「・・・どうすっかな・・・。」
別に煙草を買いに行くか否かを迷った訳ではない。
呟きの理由はこの部屋の外に居る、同居人。
普段ならともかく、今顔をあわせたくは無い。
しばし躊躇って、今度は音を立てないように注意しながら悟浄はベッドを降りた。
小銭を適当にポケットに入れて、ゆっくりと部屋の扉を開く。
玄関までの道程に八戒が居ない事を確認すると、其処を早足で抜ける。
その勢いのまま悟浄は玄関から出て行った。


台所で食器を洗っていた八戒は、玄関の扉が閉まった音が聞こえると同時に溜息をついた。
「何やってるんでしょうねぇ、あの人は。」
悟浄は自分と会わないように細心の注意を払ったつもりで居るのだろうし、実際会って
いないのだから悟浄は成功したといえる。
しかし、それと気がついていないのとはまた違う。
八戒は、悟浄が自分の部屋の扉を開けたことも気がついていた。
煙草でも買いに行くのだろうと思って、敢えて声もかけずに知らぬ振りをしていたのだ。
前に喧嘩をしたのは何時だっけ、と八戒は過去を思い巡らす。
少なくとも、数年前にあの旅から帰って来てからは喋らなくなるほどの喧嘩はして居ない
筈だった。
しかし、八戒も喧嘩の理由を明確に覚えている訳ではなく、むしろほとんど覚えて居ない。
残っているのは、痛いような後味の悪さだけだ。
蛇口をきついほどに閉めて、タオルで手を拭う。ふと、喧嘩した後からジープを見ていな
い事に気がついた。
「ジープ!」
ところが、飛んでくる気配は無く、返事すら返っては来ない。
「ジープ?何処ですか?」
家の中を捜してもジープの姿は見当たらない。
1人で外に出てしまったのだろうか、とも思うが、余程の事が無い限りジープは八戒と一
緒に行動する。
「・・・あれ?」
まさかと居間の窓から外を覗こうとしたとき、八戒は其処の鍵が掛かっていないことに気
がついた。
今日はまだ1回も其処を開けてはいないし、悟浄が開けるとも思えない。
とすれば、やはりジープが開けたという事だろう。
だが、居間は自分と悟浄が喧嘩をしていたその場所。
ジープが窓を開けて出て行った事にも気がつかなかったなんて、有り得るのだろうか。
そう思って喧嘩している最中を思い返してみる。
ところが。話した内容も、悟浄の言った事も、周囲の事もほとんど出ては来ない。
その代わりに悟浄の表情一つ一つ、それらが驚くほど鮮やかに思い出せる。
映像を振り切り、きっとジープは此処から出て行ったのだろうと、溜息を吐く。
そのまま視線を彷徨わせた時、八戒はテーブルの上にイチゴジャムの瓶が残っている事に
気がついた。
悟浄や自分は余り使わず、その分ジープが愛用しているそのジャムを。
仕舞わなければとジャムの方に手を伸ばす。
しかし、瓶を持ち上げたその瞬間。窓ガラスに数滴水が当たった。
呆気に取られる隙に、窓は見る間に水面に変わり、部屋の中は雨音に支配される。
窓から入ってくる光の量に変わりは無く、きっとにわか雨だろうと思う。
しかし、それでも雨は雨。
ジープも、悟浄も居ない雨音の中。
一人きりで雨に抵抗する術を、まだ自分は知らない。
思わず手を握り締め、まだ瓶を持っていたことに気がついた。
イチゴジャム。鮮やかな紅色のジャム。
紅を、戒めの色と言った自分。
でもそれは、過去の自分。
過去に囚われる事を望んでいた、前の自分。
自分は罪人で、洗い流そうとしても事実は消えるはずは無くて。
未だに雨を聞くとその事を感じて。
でも、紅色の持つ意味は、変わった。
ゆっくりと瞳を閉じて、八戒は瓶の横に口付けた。


箱に纏わりついているビニールを取った時、悟浄の手に水滴が1つ付いた。
「・・・マジ?」
思わず上を見上げても、雨雲は見当たらない。しかし、明らかに上から水滴が降ってきた。
あめ。
思った瞬間、悟浄は駆け出していた。
いつものタバコ屋であったなら、走って5分もすれば家にたどり着く。
しかし、あろう事か自分は家から遠いタバコ屋を選んだ。
此処からだと走っても倍は掛かるだろう。
水溜りを避けなかったため、ズボンの裾に泥飛沫か飛ぶ。
すれ違う人が何事かと振り向く。
そんな事にも全く構わずに走った。
もしかしたら八戒は抱きしめられたくないと思うかもしれない。
そうだとしても、自分は八戒を雨の中に一人きりで置いておきたくない。
八戒を守りたい訳ではない。
ただ、自分の横に引き止めておきたいだけ。
何時の間にか雨はやんでいる。
それでもなお走る悟浄の視界の前を、何かが横切った。
足をとめて、反射的に捕まえたのは木の葉だった。
虫食いも変色も無い、完全な形をしているそれ。
眼の前にかざすと、陽に透ける事によって八戒の瞳のようなエメラルドグリーンとなる。
その美しさに一瞬息をするのも忘れるほど見惚れてしまう。
しかし、少し手を緩めた瞬間、木の葉は風に乗り悟浄の後ろへと舞い飛んだ。
もう一度捕まえようと、腕を伸ばしながら後ろを振り向く。
大きく伸ばされかけた腕は、しかし中途でその動きを止めた。
木の葉を捜す為に空の方へと向いた視界が捕えたのは、葉では無く。
―――虹だった。
幾つもの色が美しいグラデーションとなり、それらは完璧な弧を描いている。
「・・・すっげぇ。」
悟浄は思わず呟いた。
すると虹はあたかも、その感嘆に満足したとでも言う風に上の方からゆっくりと薄くなっ
ていく。
虹は光の乱反射で出来る。
だから、タイミングや場所、全てがピタリと一致しなければ弧を描いた虹はみる事が出来
ない。
今あの虹が見れたのは、全くの偶然。
其処まで考えて、悟浄は自身の髪を掻き上げた。
数年前、八戒と出会えたのは、こうやって偶然が重なったから。
一瞬の偶然から始まった関係が、今も続いているという事実。
その事実、それすら偶然によって成り立っている。
何より大切な今のこの場所。
―――無くして、たまるかよ。
選択するという偶然を握っているのは自分自身。
悟浄は虹に向かって口の端を不敵に上げた。

もうイチゴジャムは仕舞った。雨音もしない。
それでも瓶に触れた口元が甘い気がして、八戒は幾度も自分の唇に指を這わせる。
ただ瓶に触れただけなのに、こんなにも甘く感じるのはその瓶が紅色をしていたからだろ
うか。そう考えるのは悔しくて、縁にイチゴジャムが付いていたせいにしてしまった。
まだジープも帰ってこない。
今は乾いている窓に近づいて、八戒は外を眺めた。
僅かに視線を上に動かすと、青い空が覗いている。
それを彩るかのように、紅い線が見えた。
なんだろうと眼を凝らして眺める。しかし、その間に静かに線は消えてしまった。
「何でしょう、あれ・・・。」
そう呟いて、思い出したのは昔得た知識の1つ。
虹は、全ての色が一緒に消えるのではなく、端の方に、最後に残る色がある。
それは夕焼けの色、真紅。
其処まで思い出して、また唇が甘く思えてしまった。
「・・・悟浄のせいですよ。」
この甘く感じる唇も、紅への気持ちも。
全部が悟浄の責任。


帰ってきた悟浄が責任を取ったかどうか、それは別の話。





*END*







喧嘩って理由は覚えていない事が多いですよね。後に残るのは苦い思い
だけで。そんなふたりに空からのプレゼントなんでしょうか。《結花》





《言の葉あそび》