目の前に突然現れた光景に、ジープの上で四人は一様に息を飲んだ。
右手に尾根を、左手に谷を見ながら細い山道を走り続け、山稜沿いに右へと道なりに曲がり
峠を下ったとろで、木々の緑に覆われた山肌の色合いに慣れた視界に不意に飛び込んできた
ものに四人は目を奪われた。
「うっわー……」
呆然と悟空が呟いた。
目の前に現れたのは、濃淡様々な紅色だった。
白に近いような淡いピンクから、情熱的な真紅まで、様々な紅が下り道の下方を覆っている。
地図通りならば、今日の旅程の目的地である小さな村がそこにあるはずだった。
そのとおりに、確かにそこには村があった。
段々と近づいて行けば、その紅色の雲の正体が、小さな花房を大量につけて咲き誇る紅色の
花樹だと見て取れた。
家々の屋根が、紅色の間からちらほらと覗いている。
よくよく見れば、紅の途中がところどころ開けており、そこには一塊ずつで仲良く屋根が並
んでいた。
西に傾く日差しを横に見ながら、紅い花のトンネルの下を一行は通り抜けた。花のトンネル
が途切れたところに、大きくない広場があり、幾つかの店と一件だけの宿があった。
ジープをその前に停めて降り、八戒はチラリと悟浄を見た。
悟浄は、真紅の瞳を、村に溢れる紅色に向けていた。
峠を下る途中から眺めた時は、淡く儚い薄紅の雲のように見えた花は、茜に染まった夕方の
光の中では、怖いような真紅に染まって見えた。
悟浄の髪と瞳と同じ、紅色の花。
紅い花 ―― 悟浄の嫌いな色。
夕方の強い風が、悟浄の髪と散る花とを空へと巻き上げる。
不思議な赤が、夜を迎える一瞬前の儚く高い蒼穹の中に広がった。
花と同じように茜の色を頬に受ける男の横顔から、八戒はそっと視線を反らした。
自分が気にする事ではないと思いながらも、この色の中に悟浄がいる事が八戒は心配になっ
てしまう。
無言の三蔵が宿の中へと足を進めたのを追い、きつい風を背に受けながら八戒も建物の中へ
と入っていった。





『ちょうど良い時期にいらっしゃいましたねぇ』
人の良さそうな宿の女将は、にこにこと笑いながら夕刻ギリギリの旅人を迎え入れた。
三蔵達以外は、一組しか宿泊客はいなかった。
だから、好きな部屋を使ってくれとの笑顔の申し出に、一も二もなく三蔵が個室の鍵を分捕
ってゆき、悟空も、そして悟浄も一人部屋の鍵を選んだ。
最後に残った八戒も、当然、そうなれば一人の部屋になる。
金赤の光輝の残滓が、低い山稜の際に未練がましく残っているのを窓の向こうに見つめなが
ら、八戒は風呂上りの濡れ髪を拭いた。
強い風が窓の外を吹き過ぎて行く。室内に吹き込む風向きではないので、八戒は窓を開けた
まま、暗い蒼に沈んでいる村を眺めていた。
紅色の花も、闇の中に徐々に沈みこんでいっている。
と、村の一角に橙色の火が灯った。
ぼわりと広がるそれに、紅の花が宵闇に浮かび上がった。
八戒は形の良い眉を僅かにしかめた。
こんな強風の日に火を灯すとは、どういうことだろうか。
だが、八戒の視界にはそれ以上は灯火は増えず、一箇所だけ真紅の色が闇を従えて輝いている。
『この時期、一晩だけ強い風が吹くんです。それでこの花も散ってしまいますから、
今日が最後の見頃なんですよ』
『夕暮れの茜に染まると、紅宝珠のように光る色合いになるでしょう?あぁ、お連れさんの
髪の色と似ていますね』
悪気のない宿の人間の、誇らしげに語る言葉に、八戒はいつもの笑顔のまま内心で舌打ちした。
似ていると言われた悟浄は、胸裏で何を思っているのか解らない軽薄な表情でヘラリと笑った。
ザーッ、と、風が花を散らし巻き上げる音が静かに響く。
悟浄の部屋へ行こうかどうしようか、迷いながら八戒は長い睫を伏せた。
視界の隅に、真紅がちらつく。
美しい紅色。
闇の中から浮かびあがり、炎の色を映して花本来の色よりも濃く深い真紅に染まっている。
その真紅が、強い風に煽られて、深まる夜の漆黒の中をちらちらと震えながら舞い散っていく。
赤い血の雫が飛び散るように。
大多数の人間は、きっとそんな感慨はもたないだろう。
ただ美しいと、紅玉のように艶やかで華やかだと、この花樹を見るのだろう。
細い指で、八戒はトンと己の顎先を一つ叩いた。
どうやら、イライラしているらしい。
美しいものを見て、素直に美しいと思えない ―― その色の為に。
同じ紅を身に纏う男は誰よりも美しいと思うのに、その紅で身を飾る花とそれを美しいと誇
る村人達には苛立ちを覚える。
かなり身勝手な自分に、八戒は苦く笑った。
窓をゆっくりと閉める。
長四角の窓枠と硝子の向こうに閉ざされた花は、それでも紅く美しい。
ポツポツ、と、散った花房が風に飛ばされて窓硝子を叩いた。
ポツポツ、パツン。
窓ガラスの向こうで風が吹く音、ガラス窓が鳴る音が、静かに響く。
その音を聞き、紅い花を見ていると、八戒の胸の奥でざわりと蠢くものがあった。
無意識に、八戒は己のシャツの胸元を握った。
窓の外からは夕の微かな紅色さえも消え去り、灯火の紅と花の紅以外は漆黒の闇が支配して
いた。
ゴツンと一つ、部屋の扉を打つ音がした。
勘違いや間違いの音ではなく、はっきりとしたノックの音だ。
八戒はわずかに首を傾げ、ついで、柔らかく微笑んだ。
ドアの向こうにある気配は、ひどく慣れ親しんだものだ。八戒は誰何をせずに扉を開けた。
静かに開いていく扉の間に、予想した通りの見慣れた長躯が立っていた。
それに、八戒はますます笑みを深くした。
突然の訪問者 ―― 悟浄は、懐っこい笑みで八戒を見つめていた。
「どうしました?」
「んー、らぶらぶ恋人訪問?」
悟浄が答えた途端に、八戒はぷっと吹き出した。
悟浄の頬が、小さな子供がするようにムッと膨らんだ。
「なんだよ」
「いえいえ。―― こんなところで話すのはなんですから、中に入って下さい」
笑いながら八戒は大きな子供を室内に導き入れた。
背を向けた八戒の後ろで、悟浄がドアを閉めた。
パタンと閉まった扉の音にかぶさって、窓の外で風が鳴った。
「ところで悟浄……え?」
突然、背後に引き寄せられ、八戒は背中から温かな胸の中に抱き入れられた。
少し斜めに後ろに倒れた体勢の為に、八戒の後頭部に悟浄の肩が当たった。
「悟浄。こんな悪戯はやめて下さい」
首を捻って苦笑しながら、八戒は悟浄を見上げた。
悟浄はニヤリと笑って八戒を見下ろしている。
「悪戯じゃなきゃイイわけ?」
「悪戯じゃなくても、突然こういった事をされるのは困りますねぇ」
のんびりと八戒は返した。ただ、そう言いながらも、八戒は自分から悟浄から離れようとは
しなかった。細い腕を上げ、悟浄の頬に指を当てる。
そっと、宥め慰めるように優しく八戒は悟浄の端整な貌の輪郭に沿って指を滑らせた。
「なんか甘やかされてる感じ」
囁いて、悟浄の唇が八戒のそれに触れた。
柔らかな羽毛がふわりと触れていったような柔らかい感触に、八戒は一瞬瞳を見開き、そし
て、甘やかに目を細めた。その目尻に、悟浄の唇がまた落ちる。
くすぐったい感触に、八戒は肩を竦めた。
なめらかな頬に、高い鼻に、唇の端に、悟浄の接吻が降る。
不思議なキスだった。
欲情の欠片のない、優しいキス。
なぜかそれに慰められているように感じる。
欲よりも恋よりも、静かで優しい ―― どこか寂しい愛情のようなものを感じる。
それを問いかけようと口を開き、けれど、八戒は言葉を綴らずに唇を閉ざした。
悟浄の腕の中でくるりと体を反転させ、長い髪に指を絡めて悟浄を抱き寄せる。
白い指の間を滑り落ちていくしなやかな紅の感触を、愛おしく八戒は思った。



風が宿の窓を叩く。
紅色の花をつけた無数の枝を揺らす。
風に舞い散る紅。
暗闇に浮かび上がる紅。
揺れる花。
濡れる花。
雨が降っている。
雨の中で花を照らす炎は灯り、闇の中で紅が閃く。
消えない炎。
拭えない紅。
止まない雨。
散り止まぬ花。



はらはらと舞う紅の花 ―― さらさらと降る紅の雨の幻が瞼の裏に流れる。
八戒はゆっくりと目を開けた。
視界は暗い。
夢か、と、目の奥で未だにちらついている幻影に八戒は胸裏で呟いた。
隣に、自分のものではない体温がある。
雨の音が聞こえた。
悟浄を起こさないように、八戒はそっと体を起こした。
カーテンの隙間から、夜が終わる前触れが淡い蒼の光を細く室内に忍び込ませている。
カタカタと強い風に窓枠が鳴った。
雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえる。
その割には、洩れ入ってくる外の気配が雨天のそれとは違う。
八戒はベッドから抜け出して窓の外を見た。
そして、一瞬瞠目し、顔をしかめると、細い眉を片方だけ器用に持ち上げて窓に背を向けた。
手早く着替えて室外へと出て行く。
ドアを開けると、暗い部屋の中に、廊下の非常灯の光がうっすらと入り込んだ。
暗闇に慣れた目には、そんな微かな光でも瞬間は眼底に痛みを呼び起こす。
八戒は何度か瞬きを繰り返した。
細く開けたドアから射し込む光を、八戒は自分の体で遮った。
ベッドの上で長い睫を閉ざして眠る悟浄の姿を振り返る。
同じベッドにいながら、キス以外何もせずに、ただ、守るように互いを抱き締めて眠った
不思議な一夜。
これまで、ベッドを共にしてセックスをしなかった日は一度もなかったとは言わないが、
ほぼ皆無に近い事である。
その気が起きないほどに前日までに抱き合ったかと言えばそうではなく、柔らかなベッドの
上でゆっくりと抱き合えるのは久しぶりのはずだったのだが、それでも、文字通り“抱き締
めあう”事しかしなかった。
奇妙な夜。
血のような紅色の花の幻と、雨の音に包まれた夜。
雨音から守るように悟浄の腕に包まれて眠った夜。
八戒は微かに苦笑した。
悟浄の寝顔を愛しく瞳の中に収め、静かに八戒はドアを閉めた。
極力足音を立てずに、薄暗い廊下を進む。
こっそりと、まるで無断侵入者が逃げ出すように静かに宿から八戒は出た。
強い風が八戒の頬を打った。
瞬間、八戒は舞い上がる花房や埃から逃げるように目を瞑った。
そして、ゆっくりと閉じた瞼を持ち上げる。
昨夜、窓から見ていた灯火はすでにどこにもなく、ただ、蒼い明け闇だけが眠りの淵を未だ
漂う村を覆っている。
八戒の白い頬を冷たいものが打ち、するりと下に落ちた。
落下の途中で、八戒はそれを掌に受け止める。
夜露に濡れた紅色の小さな花房だった。
ポツン、ポツンと、風に吹き散らされた花が八戒の頬や肩に当たる。
風が強く梢を揺らし家々を鳴らし、吹き過ぎて花を舞い散らす。
ザーッと、足元を過ぎて散った花びらが流れ飛ぶその音に、八戒は肩を落とした。
掌の上の小さな紅色を拳の中に握りこむ。
雨の音がする。
けれど、雨は降っていなかった。
強い風に煽られて枝葉が鳴り、散った花房が飛ばされて地面をこすり窓を打つ音が、雨の
音に似ていただけなのだ。
八戒の耳は、それを真実の雨音と捕え、脳は音だけでそれを雨と錯覚した。
ゆっくりとした歩みで、八戒は灯火が灯っていたあたりを目指し歩いていった。
風が八戒の痩身を打つ。冷えた明け方の大気に痩せた体を震わせて、八戒は苦笑しながら
進んでいった。
紅色の花のトンネルの下をくぐりどれだけかも歩かずに、篝火の痕跡が現れた。
鉄製の大きな篝の籠の中には、濡れた黒い煤跡が残っているだけだ。
周囲の地面も満遍なく濡れて、散った花びらが紅くへばりついている。
焼けて黒い鉄籠にも、紅い花房が張り付いていた。その周囲を、紅い花が散って舞う。
こんな音を雨と間違えた自分に、八戒は呆れて嘆息した。
わざわざ確認するために、温かな宿のベッドから外に出てくるまで八戒はしたのだ。
「散歩?」
ガサリと足音がして、少し遠い場所から響いた声に、八戒は小さく俯いた。
歩み寄る音が近づいてくる。
これだけの花びらが地面に散っていては、それを踏んで歩く音を消す事は不可能に近い。
風の音や梢の音、舞う花びらの音が雨のように周囲の音を消しているが、それでも、地面を
踏みしめる音とそれらは別物だ。
だから、わずかに離れた場所から、己の存在を知らしめるために相手は八戒に声をかけたの
だろう。
自分の足元にある紅色の ―― 今は明け方の淡い蒼闇の中で紫に見える花弁を、八戒はじっ
と凝視した。
紅色の花。
真紅に良く似た ―― 真紅に見える花。
音だけの雨。
雨に良く似た散花の音。
悟浄にも八戒にも影響を与えるそれらを生み出した花と、花を散らす風を、八戒は俯いた
視界に見ていた。
紅の花影に己の胸がざわめいた訳、風の音にイライラした理由を八戒は考えた。
それから、悟浄が昨夜、奇妙で不思議に優しかった理由を考える。
守るようにされたキス、宥める柔らかなキスの理由を考える。
突然悟浄が訪れた訳を、八戒は考える。
そして、それに応えて悟浄を甘やかしていた訳を、八戒は考えた。
キスされて怒らなかった自分、悟浄を大事にしたい、守りたい、そう思っていた自分。
真紅に染まった花を見ていた、昨日の悟浄の真摯な横顔。
理由は、ただ、そこだけだ。
悟浄の色に花の色が似ていたから ―― 悟浄が紅の花が苦手だから。
寂しい顔で、優しい顔で、笑うから。八戒の知らない遠い視線をどこかへ投げるから。
だから。
だから苛立った。だから優しくしたかった。大事にしたかった。
雨に似た ―― 無意識に雨と錯覚した花の音も、それに拍車をかけていたのかもしれない。
不意に風が止んだ。
近づく足音以外が消える。
「八戒」
くるりと体ごと八戒は振り返った。
咲き誇り舞い散るどの花よりも美しい紅を持つ男は、いつも通りの悪戯で軽飄な表情で笑っ
ていた。
八戒に、雨の音を聞かせない為に、やってきた男。優しい男。
八戒が真紅の花色を気にしていたように、きっと悟浄は雨に似た音を気にしていたのだ。
互いの為に。
「おはようございます」
夜明け前の凪のように、風はそよとも揺るがずに、ただ、大気の色だけが蒼から白へと変化
していく。
「はよ」
悟浄が手を伸ばした。八戒はその手を取った。
そのまま軽く手を引かれ、指先に悟浄の唇が触れた。
昨夜と同じ、欲情でも恋情でもなく、ただ優しいキスだった。
この口付けのわけを、お互いに理解している。
ふわりと、八戒は笑った。
困った顔で悟浄が笑い返した。
ほの明るくなっていく夜の終わりに、暗かった空から一つひとつ星が消え、暁の薔薇色が
ゆっくりとその美しい両の腕を広げて二人の周囲を取り巻こうとしている。
昨日あれほどまえに見事に咲き誇り村を紅色に染めていた花のほとんどは地面に散って落ち
ていた。頭上にあったはずの紅は、地面を染めている。
「っ」
「うわっ」
止んでいた風が、収まった時と同じ唐突さで吹き抜けた。
夜と朝との気温差が生み出す風だった。
突風は二人を打ち据えて、八戒が雨と錯覚した音を強く響かせて、悟浄の眸に真紅と映った
花弁を高く天に舞い上がらせた。
太陽が、山の端から最初の光を投げかけた。
舞い上がる花は、白く眩い陽光を浴びて紅金色に光る。
不思議な光景だった。
夜と朝の境目に、蒼とも青とも紫とも白ともつかない空を背景に、紅金の花が舞う。
ひらひらと舞いながら複雑に色を変え、一瞬は光を反射し白に、一瞬は影となって真紅に
染まる花達。
それは、落下の途中で濃く暗い色味を湛え悟浄の瞳と良く似た真紅となって、二人の上に
ちらちらと降り注いだ。
紅の花の雨が降る。
さらさらと。
偽者の雨音をさせて、紅色に染まった花の雨が降る。

雨に似ているのに、怖いような真紅なのに、それでも花の雨は美しい。
悲しいほどに美しい。
「綺麗ですね……」
「あぁ」
二人は、良く似た表情で静かに笑った。



八戒や悟浄の髪の上、肩の上で、真紅の花の雨は、儚い薄紅色の小さな花房に戻った。
雨の音も、やんでいた。





*END*







八戒は悟浄を想い、悟浄は八戒を気づかう。互いの中にある「傷」よりも
なにより自然に相手を大切にしたい、守りたいと思う関係って素敵だと
思います。《結花》


ケイさまのサイト 《妖狐堂》



《言の葉あそび》