眠る男の、紅い花の蘂のようなまつげが、切なくふるえた。
かすかな身じろぎにつれて、寝乱れた緋の髪が、さらさらと音をたてて流れる。

―――まるで、緋色の花を一面にばらまいた、みたいだった。





覚醒めは、ふいに漁網にかけられた魚に似ている。
ゆくりもなくひき上げられていくのに、なす術もない。
二度三度、まばたいた青年はしょうことなしに息を吐いた。

長息が、海の底のようなしじまを破って、空気をふるわす。
鎖された帳の向こう、遠ざかる雨の気配を知って、青年はふと笑んだ。

彼方からは、胎の底にとどろき、背すじを這って揺すぶるような大気の喚き。
鼓膜をつんざく音。

―――春雷だ。

立てた片ひざに頬杖をついて、青年は思う。

咲き初めた莟も、芽吹きかけた新芽も、夜来の風雨に落ちて、地に乱れているのだろうか。
くくっと、青年は小鳥のように喉を鳴らした。

けれど、もう春は近い。

莟はむごく散らされ、若芽はむなしく凋落れて、けれどうすら氷は、うすら陽に溶けてい
るだろう。溶ける。溶けて、そして流れる。

青年は、傍らのぬくもりに、笑みを深めた。
緋の髪を細かな糸の流れのように、乱して、秀でた額もあらわに男は眠っている。

つかの間、翠の目もとをなごませた青年は、ややしてわずか、面をひそめた。
ほっそりと白い指先が、なかば怖じたようにおののいて、紅の、ゆたかな流れを梳る。
指にすくった血色の流れはしなやかに柔らかく、ひんやりと冷たくて、その掌からこぼれ
ていく。……まるで、死のように深い眠り。

眠りこんでいる若い男というものは、艶に、不吉だ。

ためらった指先が、肩先から、頬へ。うねり、乱れた緋の髪を手繰って這い上る。
眉尻から、頬。そしてうっとりと開かれた口元へ。愛撫すように、からめとるように、
指先がその形をなぞる。

口元へ。

指先をしめらす、濡れた吐息に、青年はほっと、愁眉をといた。息をもらす。
血紅の眸はいまだ鎖されて、唇ばかりがほのかに紅く、血の色を浮かす。

慕うように、需めるように。青年は、その紅に接吻けた。母親の乳房に舌を巻きつける
赤ン坊のようにして、吐息を、吸う。

―――男は、いまだ眠っている。

小さく、どこか寂しそうに笑った青年は、ふと、遠い異国のモノガタリを思いかえした。
不実なニンゲンの男に恋をして裏切られ、その命を奪う罔象女。
やさしい水の女は接吻けで、命を奪う。

―――接吻け、で。

その、哀れにかなしい水妖精の名は、何だったか。
眠る男の頬を掌にすくいとり、吐息が肌を濡らすほど間近に、己が頬をよせて、思いを
めぐらす青年の、その目前で、男の、紅いまつげが切なくふるえた。

「……何してンの、お前」

「……何でしょう?」

ぽっかりと瞠らかれた血赤の眸は、けれどまどろみを名残らせて甘く、潤んでいる。
その蕩けたような紅を、水をたたえて揺れる翠の眸が、あどけなくひたむきに、見つめた。

そうだ―――。

「ルサルカ」

「何それ」

ユウレカ?それはアルキメデスだ。

まだなかば、まどろんでいる男は、あくびをかみ殺した。いかんせん、眠い。
ふつふつと泥に沈むようにして、今は深く深く眠りに沈みこみたいのに。
男はもう一度、あくびをこらえて、喉をひきつらせた。
乱れて額にふりかかる緋の髪を、片掌に梳きあげる。

こらえて、呑みこんだあくびは、喉の奥にごろりと引っかかって、こそばゆかった。

「オレ、もっぺん寝るわ」

口のなかで、つぶやく。なめらかに硬く、広い肩を無造作にさらして、寝返りをうとうと
した男の、その紅色の流れを、ふいに伸びたあえかな掌が、執えて、手繰りよせた。

「いてェ!」

思い切り、頸をひかれた男が、声を上げる。

「何すンだよ!?
「……眠らないで」

「はい?」

男の、頬を捕らえて。その膝に乗りあげて、青年がささやく。
すっきりと、若木のようにのびた四肢。しなやかになめらかな肢体の、息詰まるほどに
稠密な真白の肌。その、ひんやりと冷たく、水を孕んでぬめるような肌には、爛れたよう
に紅い花弁が散っている。

ああ、昨日は雨だったのだと、男は唐突に思った。

「キス、しましょう。悟浄」

「……は?」

したたるように濡れ、潤びた唇は、やはり紅くて、まるで露をおいて綻んだ花弁か、
それともラビアみたいだった。ホントのところ、花は植物の生殖器官、なのだけれど。

「……」





やさしく濡れた吐息が産毛をくすぐり、吸いつかれた肌の奥で、毛細血管がぷちぷちと
泡のように、はじける。吐息めいて、青年は、喉を鳴らした。

「ねぇ、悟浄」

―――かわいそうなルサルカ。

「キス、しましょうね。たくさん、たくさん」





この人を殺す日は、きっと来ない。





*END*







すごくきれいな文体にうっとりしました。
で、そんな余韻の中「イナリ=お稲荷さん」を連想した私は、
色気のカケラもない事を実感…;《結花》





《言の葉あそび》