またかよ。冗談じゃねぇぞ…。 悟浄は慌てて脳裏に浮かんだ美貌をかき消すように、頭を振った。 「なぁに?どうしたの悟浄?」 肩にしなだれかかる女の一人が訝しげに問うのに、オマエに見蕩れていた、と心にもないセリ フを吐いて嬌声をあげさせる。 手元のカードに集中するフリをして、悟浄は脳裏にこびりついて離れないその色を振り払おう と務めるが、どうしても思考が引き摺られる。 「スリーカード!」 「悪ぃな。フルハウスだ」 「もう一回!もう一回、勝負だ」 しつこく勝負を挑んでくる顔なじみの相手に軽く肩を竦めてみせながら、悟浄はゲームにでは なく、底の見えない深い湖のような色をたたえた瞳を持つ男への考察に意識を囚われていた。 今夜の相手は悟浄にとってはカモとしか言いようのない常連で、賭博を生業とする悟浄が持参 したカードを使って勝負することに、何の疑問も抱かないほどの鈍い相手だ。 最初から勝ちの見えたゲームに熱くなれるはずもなく、適当なところで切り上げて、適当な女 を引っ掛けて───と、ぼんやりとこの後の予定を思い描いていた悟浄は、自分の想像したも のに思わず頭を抱えたくなった。 あろうことか、お楽しみの相手がいつのまにか、ナイスバディの美女ではなく、ストイックな 容貌をした同居人のすらりとした痩身にすり替わっていたのだ。 野郎になんぞ、興味はない!と、何かの間違いだと否定する理性とは裏腹に、浮かび上がる映 像はどんどん鮮明になって悟浄に迫ってくる。 拾ったばかりの頃、包帯を取り替えるために何度も触れた雪のように白い肌の、きめ細やかな 手触りさえもが克明に思い出されて、それだけで鼓動が跳ね上がった。 頼むから消えてくれと冷汗を流す悟浄の脳裏では、目元をほんのりと朱に染めた八戒が、妖艶 とさえいえる仕草で悟浄を誘っていた。 見せつけるようにゆっくりとした動作で服を脱ぎ捨て、恥じらいながら裸身を晒して行くのだ。 ベッドへといざないながら、隠しきれない欲情を滲ませた声で「ごじょう」と己の名を紡ぎ微 笑む。ドキドキと早鐘を打つ心臓が、口から飛び出してしまいそうだ。 甘やかに悟浄の名を呼ぶ、桜色をした薄い唇に喰らいついてやりたい。 細い裸身を組み敷いて、白磁の如き肌を思うさま貪り尽くしたい衝動に、ドクリと下腹に熱が 篭る。 あらぬところのあらぬ反応に、悟浄はハッと我に返り、ついで激しい眩暈を覚えたのだった。 信じたくない恐ろしい妄想に、頭の中では盛大に銅鑼が鳴り響き、目の前が緞帳を下ろしたよ うにサーッと暗くなる。 だがしかし、その緞帳には絢爛豪華な色糸で八戒の悩ましげな姿が描き出されていたりする。 勘弁してくれよ…。なんで……なんで、アイツなんだ───?! 心の中で悲鳴を上げながら、悟浄はありえぬ妄想を必死で打ち消した。 悟浄には好き好んで男の相手なんぞしてやる趣味はない。 八戒がたとえどんなに綺麗な顔をしていたとしても、その辺の女顔負けの美人さんであったと しても、断じて、男に欲情する趣味はない。 なぜ、こんな妄想をしてしまうのだと、声にならぬ声で盛大に己を罵倒する。 八戒は悟浄が生まれて初めて得た友人だ。否、親友と呼んでも良いほどの相手で、同居するく らいなのだから、当然、気もあう。 だが、いくら気があうからといっても、そういった意味での相性など求めていない…つもりで ある。そもそも男の八戒を相手にしなくても、悟浄は欲を満たすための女に不自由はしていな いのだ。 わざわざ男の八戒にそんなものを求める必要はないというのに、どうしたことなのか。 情けないことに、悟浄の妄想は日に日にたくましくなる一方だったりする。 これで、一体、何度目だろう。何の気の迷いだと打ち消す理性を嘲笑うように、肉付きの薄い 白い裸身が、頭から離れない。 ただの妄想だというのに、それはいつも、ちゃんと八戒なのだ。 悟浄好みの豊満な女性の体に八戒の清楚な美貌がすげ変わっているわけではなくて、華奢に見 えても薄い筋肉を纏った男の体のままの八戒だった。 扁平な胸も、細くても女性のようにはくびれていない胴も、固そうな尻も、悟浄と同じ性を主 張しているものさえも備えた、男のままの八戒だ。 男の姿のままの八戒だというのに、嫌悪を感じるどころか、しっかりちゃっかり反応してしま っている自身が恨めしい。 なぜ、どうして八戒なんだ…と答えの見つからない自問を繰り返し、ふと気付けば、悟浄の手 の中のカードは、時には不幸の象徴にもなるスペードのエースだ。 嫌味のようにスペードばかりが揃っているカードに、そういえば…と八戒を拾ったばかりの頃 を思い出した。 あの時も目の前に広げられたスートはスペードだった。 ロイヤルストレートフラッシュを簡単に作ってしまうくせに、ゲームの流れは読めても運がな いと、空気に溶けて消えてしまいそうに儚げに笑ったのだ、あの男は─── おかしな妄想ばかりではなく、こんなところにまで影響が出てきたかと、悟浄はいささか自分 の頭が心配になってきた。 「…浄…おい、悟浄っ!今度こそ、俺の勝ちか?」 騒ぎ立てる男の声に、ふと現実に意識を戻せば、カモでしかない男が既に勝負がついたかのよ うに浮き立っていた。 「さぁ、どうだかな」 片眉を引き上げ、瞳を眇めて笑ってやれば、勝ちを確信していたのだろう男の顔にとまどいが 浮かぶ。悟浄の表情を読み切れずに警戒の色を滲ませはじめたところで、悟浄はニィッと口端 を吊り上げた。 「これでどうだ!」 不敵な態度を崩さない悟浄への苛立ちも露に、バンッとテーブルにカードを叩きつけるように オープンした男に、悟浄は独特の片頬だけを持ち上げる皮肉めいた笑みを向けた。 男の作り上げた手はダイヤのストレートフラッシュ。 見物人の誰もが、この男と同じように悟浄の負けを確信しただろう。 「ま…焦るなって」 悟浄はおもむろに煙草を銜え、ポケットを探り見つけだしたライターの蓋を跳ね上げる。 片手で煙草の先を隠すように火をつけると、ゆっくりと一息吸って吐き出した。 そうしておいて、ようやく己のカードを開いて見せる。 スペードの10。続いて同じくスペードのJ、Q、K、そしてA。 文句なしのロイヤルストレートフラッシュだ。 「なっ…」 意気込んでいた男は、酸欠の金魚よろしくパクパクと口を動かしたまま絶句した。 「悪ぃな」 欠片も悪いなどとは思っていない態度で、悟浄はテーブルに積まれた掛け金をジーンズのポケ ットにねじ込む。 「な…なんで…」 がっくりと力無く椅子に沈み込んだ男を横目に見ながら、悟浄はさっさとカードを集め、椅子 の背に掛けていた上着のポケットに放り込むと、帰り支度を始めている。 「もう一回。畜生!悟浄、もう一回だ!」 悔しげに喚く男に、ふっと悟浄は煙草を銜えたままの口端を歪めた。 「やめとく。なんか疲れたし…」 いきり立つ男を軽くいなし、誘いかけてくる女達を適当にあしらって、悟浄は後ろ手にひらひ らと手を振り店を出た。 店を出た途端、足下から這い登る冷たい夜気に、ぶるりと大きく体を震わせて上着の前を押さ えながら、悟浄は低く笑った。 何度やったところで、時間の無駄さ。 新しい煙草に火をつけながら、悟浄は悔しがる男の間抜けさを嘲笑する。 目の前で堂々と行われたイカサマすら見破れないのに、どうやって勝とうというのか。 賭博にイカサマはつきものだ。 毎度、真剣勝負をして食い扶持を稼ぐギャンブラーなどいるものか。 常連の賭博師を抱える賭場では、イカサマもテクニックの一つと黙認されているのを知らぬ訳 でもあるまいに、おめでたいヤツもいたものだと笑わずにはいられない。 悟浄としては、カモがネギを背負って鍋まで用意して食われるのを待っているのだから、美味 しくいただかせてもらうだけだ。 とはいえ、悟浄も賭博を生業としている以上、心得てはいる。 相手に自分がカモにされていることを気付かせるようなヘマはしない。 適度に小さく勝たせてやって、相手が決して立ち直れないほどに打ち負かしたりはしないのだ。 次こそはと思えるだけの余力を残して置いてやってこそ、カモはカモたり得るのだから。 くつくつと喉奥でくぐもった笑いを響かせながら、悟浄は何の細工もイカサマもなしに自分に 勝ち続ける男へと思いを馳せていた。 時には悟浄のもてるテクニックの全てを駆使しても、まるで歯が立たない、唯一の例外へと。 出会いからして、それはもう強烈な印象だった。 土砂降りの雨の夜、夥しい血だまりの中で泥にまみれて悟浄を見上げてきた男の瞳の強さに、 目を奪われた。 その男は死にかけているとは思えないほどの不敵さで、息を呑んで見つめる悟浄を嘲るように うっすらと笑みを浮かべさえしたのだ。 殺してくれ───と訴える、無機物の冷たさを持つ瞳が、宝石のように綺麗な瞳に浮かぶ絶望 の色が、死への昏い願望を乗せた双眸に居抜かれた瞬間から、悟浄の胸にナイフのように鋭く 突き刺さっている。 そのうえ極めつけの一言が、名匠の振るう小刀のように、悟浄の心にこの男の存在をくっきり と刻みつけた。 まだ、名も知らなかった男は言ってのけたのだ。悟浄に向かって堂々と。 『悟浄さんのその髪と眼は、僕には───血の様に見えたから』…と。 加えて、悟浄が嫌い抜いている深紅の髪と瞳を、自分を現実に引き留めた戒めだとまで言い切 った。紅い髪と瞳の意味を知らぬ女達から、媚びるように綺麗だと言われることはあっても、 血の色だと言われたことはない。 まして、自分には必要なものだとほのめかされたことなど。 男が死ぬつもりで出て行こうとしていることに気付いていながら、それでも好きにすれば良い と放っておいた悟浄は、このときになってようやく本気で、コイツを死なせたくないと思った のだ。 初めて出会った、自分と同じ感性を持つ者。 そういう意味では、八戒は確かに、最初から特別だった。 悟浄が初めて興味を持った他人であり、初めて本気で関わり合った他人でもある。 決して誰も踏み込ませない己のテリトリーに、悟浄自らが引き入れた唯一の例外なのだ。 ただし、間違ってもその興味は、欲望の対象としての興味ではなかったはずだ…。 脳裏を過ぎるあられもない妄想を、悟浄はぶんぶんと頭を振って追い払おうとするが、元々あ まり物事を深く考える事に適さない悟浄の思考回路は、無限ループに陥って、際限なく堂々巡 りを繰り返している。 頭の片隅ではエラー表示が点滅し、鳴り響く警報に目眩さえ起こしながら、ようやく帰り着い た我が家のドアを開けた途端、悟浄は物の見事にフリーズした。 「お帰りなさい、悟浄。今夜は早かったんですね」 風呂上がりなのだろう、生成のシルクのパジャマに身を包んだ八戒が、白皙の頬をほんのりと 紅潮させて、タオルを片手に振り向いた。 まだ濡れている前髪が額に張り付いて、まるで情事の後を連想させるような、八戒らしからぬ 艶めかしさを漂わせている。 滅多に見ることのない珍しい八戒の姿に、悟浄は目を奪われたまま立ち尽くしていた。 頭の中で繰り広げられる妄想にも劣らぬ、扇情的な八戒に声も出ない。 「悟浄…?」 湯上がりで体が温まっているせいなのか、紅を引いたように色を増した八戒の薄い唇の両端が ゆるりと持ち上がり、笑みを浮かべるさまは悟浄の知っているどんな女よりも官能的だった。 苦しい。 ギュッと胸の奥底から引き絞られるような切なさが込み上げてくる。 「どうしました?」 清楚な美貌からは想像もできない、煩悩を直撃するような色気を漂わせながら、八戒はあどけ なささえ感じさせる仕草で不思議そうに小首を傾げる。 そのアンバランスさが、絶妙のバランスを保って危うい色香を醸し出していた。 訝る声音さえも甘やかに誘いかけてくるようで、悟浄はフラフラと引き寄せられていた。 ドクリと、心臓が跳ね上がる。 体の中心に生まれた熱が、埋み火のようにじりじりと身を焼き焦がす錯覚に、喉が渇く。 声も出せぬほどに、からからに喉が渇いて、飲み込んだ唾の音がやけに大きく響いた。 「…もしかして、気分、悪いんですか?」 かすかに眉を寄せて困ったように悟浄を見つめる顔が、全裸でしどけなくシーツの海に沈めら れて、悟浄を受け止め喘ぐ幻の表情へとすり替わる。 胸が、苦しい。 高鳴る鼓動に、呼吸さえままならないほどに。 悟浄は軽く瞳を眇め、不審な面もちで歩み寄ってくる八戒を見つめていた。 「………」 形の良い唇が動く。綺麗な唇だと、視線はそこに吸い寄せられていた。 八戒が何かを言っているが、破裂しそうなほどにドキドキしている自分の心臓の音がうるさく て、聞こえない。 「…………」 桜色をした薄い唇が、ゆっくりと近づいてくる。 魅入られたように、悟浄は動くこともできずに、八戒を、八戒の唇だけを見つめていた。 近づいたのに掠めただけで逃げて行く唇を追いかけて、悟浄は思わず八戒を抱きしめていた。 身長は変わらないのに悟浄よりもずっと華奢な体を引き寄せ、後頭部を支えて、そっと己の唇 を重ね合わせた。 ついばむような口づけを、より深める前に、ぐいっと八戒の掌に両頬をはさみ込むようにして 押しのけられてしまう。 「違いますよ、こっちです」 コツンッ 重なったのは、額。 頭突きにしては優しい接触に、悟浄は何が起きたかを理解しかねていた。 呆然と見開いた瞳に、八戒の唇が緩やかに笑みを刻むのが映る。 「やっぱり。熱がありますね」 ……ネツ? 八戒の言葉の意味を捉えかねて片眉を引き上げた悟浄だが、ハッと我に返り、己のとった行動 を理解した途端、悲鳴をあげかけた。 ちょっと、待て───!…俺……俺、今、何をした───?! 脳天を強打されたかのような衝撃を受けて、悟浄はおそるおそる腕の中の八戒を見やる。 八戒は悟浄の心配をよそに、くすくすと笑いながら悟浄の腕をやんわりとほどき、台所へと姿 を消した。 どうやら同居人の不埒な行為に、怒ってはいないらしい。 なにやら不気味な色の液体を入れたカップを持って戻ってきた八戒は、悪戯な子供を諭す教師 の口調で言い聞かせた。 「貴方らしいと言えば、貴方らしい熱の計り方ですけれどね、悟浄。誰にでもやっちゃいけま せんよ。特に悟空や三蔵は、冗談が通じませんから、気をつけてくださいね。貴方だって命は 惜しいでしょう?」 渡されたものに視線を落としたまま、悟浄は都合良く誤解してくれた八戒に、内心で冷や汗を 流しながら、ただコクコクと頷くことしかできなかった。 「少し苦いですが、お酒を飲んでいるなら、普通の風邪薬は飲めませんから、我慢して飲んで くださいね」 悟浄は目を伏せたまま、一刻も早くこの場から逃げ出したい心境で、促されるままに薬湯を飲 み干す。口から飛び出しそうになっている心臓を押さえ込んでいるのが精一杯で、苦みを感じ る余裕などない。 「寒気はありませんか?」 柔らかな声音で問いかけてくる八戒の顔をまともに見ることができず、俯いたまま無言で頷き 大急ぎで自室へと向かう。 悟浄は自分でも信じられないくらいに、動揺していたのだ。 やっちまった。やっちまった…。やっちまった───! 悟浄は叫びそうになるのを必死で堪えながら、バタンと全身で押さえ込むように閉めたドアに 背を預けたまま、ずるずると伝い下がって床に座り込んだ。 心臓が未だに早鐘を打っている。 とにかく落ち着こうと、震える指で胸ポケットから煙草を取り出す。 振り出した一本を口元に運んだ刹那、八戒の唇の感触が蘇って煙草を取り落としてしまった。 触れた己の指先の硬さが、殊更に八戒の唇の柔らかさを思い起こさせる。 八戒と、キスをした。 意識するまいと思っても、カーッと頬が燃え上がる。 重ねるだけの、子供同士のような他愛もないものだというのに、いつまでも動悸が治まらない。 たかが、キスひとつ。 華々しい女性遍歴を持つ悟浄にとって、挨拶代わりのようなものに、何をときめいて舞い上が っているのだと情けなくなるほど、ドキドキしている。 しかも相手は男で、親友で、同居人で、八戒だというのに、もっと触れていたかったなどと、 ほんの一瞬だけ残念に思ってしまった。 信じられないと我が身の正気を疑いながら、けれども他のヤツが相手ならどうだと考えて、悟 浄は小さく息をついた。 たとえば、賭場や酒場の女達なら、当然のごとく欲望を感じる。だがどんなにナイスバディの 美女であっても、いかにしてベッドに誘い込むかと頭の中は冷静で、こんなふうに胸が苦しく なるほどドキドキすることはない。 男なら…ゾッとするだけで、端から相手にする気さえ起きない。 たとえ三蔵のように綺麗な顔をした男であっても、だ。何かの間違いでキスをしたと仮定する だけでも、悪寒が走る。 それなのに、相手が八戒ならば───ナイスバディじゃなくても、男であっても、八戒だとい うだけで、高ぶる体も心も抑えきれない。 一体、自分はどうしてしまったとういのか。 おまけにこのところずっと、悟浄は気がつけば、いつでもどこでも、八戒のことばかり考えて いる始末なのだ。 「なんだかなぁ…」 声に出して呟いて、悟浄は、もやもやと蟠る不可解な感情に溜息を零した。 これではまるで、悟浄の気を引こうと擦り寄ってくる女達が、口々に囁く症状と同じではない かと苦笑しかけて、不意に冷水を浴びたように急激に全身の血の気が引いた。 ダメだ───と、心が悲鳴を上げる。 危険だ!と、悟浄の中で何かが叫ぶ。 それに囚われてはいけないと、警報が鳴る。 この、もどかしく胸を焼く焦燥にも似た思いの正体に、気付いては、いけない。 もしも気付いてしまったならば、二度と立ち直れないほどの衝撃を引き寄せてしまいそうな予 感に、とてつもない恐怖が込み上げる。 唐突に目の前に広がる幻の、血の海に沈む女が、涙に濡れた顔を上げて嗤った。 決して忘れることなどできはしない痛みが、押しつぶされそうな悲しみを連れて蘇る。 悟浄がただ一人、心の底から求め続けた女は、悟浄が差し出す全てを振り払い、悟浄が必死に 願う小さな望みさえも打ち砕いた。 悟浄がどんなに心を尽くしても、義母は泣いた。 悟浄の中では、今でも特上の美人と分類される美貌を歪め、号泣するのだ。滂沱と流れ落ちる 涙を止めたくて、悟浄が幼い真心を差し出すたびに、嘆き、悲しみ、怒り、狂った。 愚かなことに義母を慕う気持ちを断ち切ることができずに求め続けた結果、悟浄は、幼い日々 の世界の全てを一瞬にして失ったのだ。 兄が義母を殺し、悟浄を置いて出ていったあの時、誰かに心を寄せることも、誰かの心を望む ことも、悟浄には許されないことなのだと思い知った。 愛情というものは、決して悟浄には、与えられることのないものなのだと。 悟浄は、全身の血液が凍り付くような寒気に襲われ、カタカタと小さく震えながら、膝を抱え て蹲る。 壊したくない。 悟浄はきつく奥歯を噛みしめた。 叶うはずのない夢を見て、与えられるはずのない物を望んで、許されるはずのない物を求めて もう二度とあの痛みを繰り返したくはない。 八戒との静かで穏やかな生活を、壊したくはない。 だから───悟浄は、気付いてはいけないのだ。 月明かりが差し込む窓の下、そこにあるはずはないのに、どす黒く浮かび上がる血の海を睨み 据えながら、悟浄は嫌だと、八戒を失いたくないと首を振る。 違う、と。 これは恋なんかじゃないと、何度も己に言い聞かせる。 否定し続ければ、朝にはきっと、自分はこんな不可解な感情からは解放されていると信じるよ うに、悟浄は繰り返す。 アイツは、たった一人の親友で、同居人。それだけ…。 そうでなければ、いけないのだ。 悟浄は切りつけられるように痛む胸を押さえ、愚かな自分を嘲笑うことしかできなかった。 *END* |