しとしとと降り続く雨。
辺り一面に広がる紅い花。
その中央に立ち尽くす、オレ。
傘もささずに、何故こんな所にいるのか分からない。
ただ、堪えていないと涙がこぼれそうで、オレは必死に唇を噛み締めた。


泣いたら負けだ。

泣いたら負けだ。

泣いてしまったら、自分が悲しんでいること、悔しがっていることの証明になってしまう。


オレは悲しくなんかない。
悔しくなんかない。
哀れまれるのも、同情されるのも真っ平だ。
母さんが俺のことを見てくれないのも、この「紅」しか見てくれないのも、きっとオレの
努力が足りないからだ。
もっと頑張れば、もっと一生懸命母さんの喜んでくれることをすれば、きっと母さんは
オレのことを見てくれる。
だからオレは、かわいそうじゃない。
グッと、血の味が口の中に広がるのも構わずにオレは唇を噛み続けた。

ふと、差し出される傘。
見上げれば、兄貴が横に立っていた。
「ほら、悟浄…帰るぞ」
そう言って微笑んだ兄貴の顔はどこか寂しげで、申し訳なさそうで。
「…分かってるよっ!」
そんな兄貴の顔は見ていたくなくて、俺は兄貴から傘を奪うようにして前に向かって歩き
始めた。





「…なつかしー夢…」
紅い景色がだんだんとぼやけて、次にはっきりと視界に映ったのは見慣れた自室の天井だ
った。何年の前の話しだか…と、悟浄は自嘲の笑みを浮かべる。
ゆっくりとベッドから半身を起こすと隣で微かに身じろぐ気配がした。
隣に眠るのは、雨の夜だけ関係を続けている同居人。

そう、昨日の夜は雨だった。

そして、その雨は今朝も降り止まずに悟浄の家の屋根を濡らす。
秋の長雨とはよく言ったもので、ここ3日間雨は決して止むことなく、しかし強まること
もなく、しとしとと降り続けた。
その辺りを歩いている女なんかではとても太刀打ちできないほど綺麗な顔をした同居人、
猪八戒は、雨の夜がくる度に自傷行為を繰り返した。
それを見ていられなくて寝具に引きこんだのはいつだったか。
それほど月日は流れていないはずだったが、悟浄には思い出せなかった。


「うっ…んん」
八戒の頬に手を伸ばすと翡翠の目がゆっくりと開いていく。
「おはよー」
「…おはよう、ございます」
八戒よりも悟浄が先に起きていることは珍しい。
いつもなら悟浄よりも早く起き出して朝食の支度をし、昨晩の情事のあとは微塵も見せ
ないのがこの猪八戒という男だった。
ベッドの中、2人で朝を迎えるのはこれが初めてで、気恥ずかしいのか八戒は悟浄と反対
側を向いてしまう。
「じゃぁ、オレ顔洗ってくるわ」
日頃の彼からはあまり想像できないその態度に悟浄は吹き出しそうになるのを抑えながら
ベッドを離れる。
降り続く雨に、八戒の疲労も溜まってきているということだろうか。
ドアを閉じて、悟浄は部屋の中に聞こえないように小さくため息をついた。



八戒は、簡単に心の脆さを見せたりはしない。
自らが行った自傷すら、何事もなかったかのように振舞う。
食事を摂ること、睡眠をとることと同じように、彼の中では捕らえられているのかもしれ
ない。血液の流れ出る腕を、痛むはずの患部を抑えようともせず賭場から帰宅した悟浄を
微笑みと共に迎える。
迎えられた悟浄の方は、またかと溜息をついて手馴れてしまった手当てという作業をはじ
める。それが、雨の日の日常だった。
だから悟浄は、雨の夜外出するのを控えている。
傍にいて目を光らせていれば、八戒の気も紛れる。
遠くを見つめ、今を見ない八戒を見ていることが、悟浄の雨の日の日課となった。



賭場に出なくなって3日目の日暮れ時。
『気分が乗らない』という言い訳でごまかせる日数ではなくなってしまった。
「あの、ぼく大丈夫ですから…」
キッチンから2人分のコーヒーを手にして目の前に座り、八戒は口を開いた。
「飯食わねー奴の言う言葉に説得力はナシ」
言われたことが事実なのは八戒の重々承知で、何も言い返せずにそのまま俯く。
コーヒーを受け取り口に含むと、コーヒー独特のにがみが悟浄の口の中に広がる。
そのコーヒーの味が、ふと悟浄に、今朝見た夢の血の味を思い出させた。
昔の思い出のはずなのに。
モヤモヤとした嫌なものが悟浄の身体全体に広がっていく。



「アンタナンカ…!」



オレは、かわいそうじゃない



オレがもっと頑張れば、きっと母さんに伝わるはずだ



「生マレテコナケレバヨカッタノニ!!」





ガタンッという音で、悟浄は我に返った。
目に入ったのはテーブルに叩きつけられた自らの両手。
立ち上がった時に反動で倒れたイスの音が悟浄を正気へと連れ戻した。
「どうかしましたか…?悟浄」
怪訝そうに見つめてくる八戒。
彼に気を病ませてはいけないと、悟浄は必死に笑顔を繕った。
「オレ、ちょっとシャワー浴びてくるな」
このままこの部屋にいて、自らを偽れる自信など悟浄にはない。
逃げるように部屋をあとにし、悟浄は浴室へとむかった。




家路を急ぐ。
雨の中、濡れるのも構わず走った。
手に握り締めた花が萎れてしまわないように必死に気を使いながら。
少し前に出かけた森の中で見つけた、小さな小さな紅い花。
母さんに渡せばきっと喜んでくれる。
そう信じて必死に探して、見つけて、手折った。

「まぁ、キレイね…」

花を受け取って、母は言った。
「お前の髪の色、そっくり…」
ゆっくりと母の指から離れ落下する花。
「…え?」
歪む唇、流れる涙。
そして、グイと頭に走る衝撃。
髪の毛を掴まれていることを理解するのに数秒を要した。
「こんなに鮮やかな血の色!!」
「痛っ!…痛いよ母さん!!」
必死にもがいて、母の手から逃れようと暴れた。
あぁ、また自分は母の怒ることをやってしまったのだ。
「お前なんか!!…お前なんかー!!」
母の顎を伝って流れ落ちる涙が、視界の端に映る。
いつも自分は、母を泣かせてばかりだ。
「…!!悟浄!母さん!!」
声を聞いて慌てて部屋に飛び込んできたであろう兄の手を借りて、ようやく母の手から
解放されると、悟浄は一目散に家の外へと駆け出した。

どこを、どの位走ったかは分からない。
未だ降り止まぬ雨が肩を濡らし、体温を奪っていく。
ふと気がつくと悟浄は紅い花の中に立っていた。
名前も知らない紅い花が、視界一面に広がっていた。
自分の不甲斐なさが悔しくて、また母を悲しませてしまった自分が憎らしくて、悟浄は
こみ上げてくる涙を唇を噛み締めるという行為で誤魔化した。




何故、今になってこんなことを思い出すのか。
体に纏わりつく滴をタオルで拭取り、用意してきた服の袖に腕を通す。
「オレって意外とおセンチ?」
ククッと笑いながら浴室の扉を開け、八戒がいるであろうリビングへと向かう。
途中窓から見上げた空は少し明るくなっていて、もうすぐ雨が止むであろうことを思わ
せた。強かな八戒が戻ってくるのも時間の問題だ。
「おー、雨、上がりそ…」
リビングの入り口に手をかけて中をのぞきこんで見たが、中に目当ての人物はいない。
「…おいおい、マジかよ」
家の中を一通り見てみたが、やはり八戒はいなかった。
「…出かけるんだったら、メモくれー残してけっつーの!!」
慌てて八戒を捜すために、踵を返した。
勢いよく玄関を開けると、ぬかるんだ地面に足を取られる。
「ぐわ…ッと…!」
体が反転する感覚。
それをなんとか押さえつけ、ダンッと地面に足をつく。
「……ん?」
転倒を回避し、安堵のため息をつく悟浄の目の端に真新しい足跡が映った。




足跡を辿り森の中を進む。
足跡は悟浄が足を向けたことのないところへ進む。
思えば悟浄が使っていたのは街と自宅を繋ぐ一本道くらいかもしれなかった。
「ったく、こんな所に何があるってんだよ…」
ぶつぶつと文句を言いながら、足跡を辿る。

八戒が雨の日に家を出るのは、何もこれが初めてではない。
ふと悟浄が目を離した隙に忽然と姿を消してしまう。
そのたびに悟浄は、八戒を捜して森の中を走り回った。
大体彼は、木の根元にしゃがみこんでいたり、天を仰いで雨に打たれていたりした。
そして悟浄が声をかけると、ゆっくりと悟浄を向き直り、微笑むのだ。
そんな彼の笑顔を、悟浄は見ていたくなかった。

しばらく行ったところで目の前に広がる草の中に吸い込まれるようにして、足跡は消えて
しまった。
「…この中に、入れってかぁ…?」
雨が降り続き地面がぬかるんでいる中、悟浄は半ばヤケクソで前へと進む。
辺りはすでに薄暗くなっていて、風に乗って流れる雨雲の隙間から見える月が弱々しく
光を発していた。
茂みに入って5分程。
シャツとズボンは草の水滴を吸って重くなり、腕の所々は葉によって切り傷ができて
しまっていた。

そんな状況の悟浄の目の前に広がったのは、真紅の花畑。
そして、その中央に佇む八戒。
目の前の光景と重なる、今朝の夢。
真紅の瞳を一瞬見開いた悟浄はゆっくりと八戒に近づいた。
「…八戒、帰るぞ」
背後からゆっくりと声をかける。
「悟浄、この花の花言葉、知ってますか?」
八戒の口から漏れた問いの意味が分からなくて黙り込む悟浄。
ゆっくりと振り向く八戒。
あぁ、またあの笑顔だ。
儚げな、消えてしまいそうな、けれど真実を覆い隠した、そんな笑み。
ツキンと、悟浄は胸の奥で何かが痛むのを感じた。
瞬間、悟る。
八戒の折れてしまいそうな腕を掴み、引き寄せる。
突然のことに対応しきれなかった八戒の身体は悟浄の腕の力にバランスを失った。

触れ合う、唇。

それは触れ合うだけの拙い口付だったけれど。
2人が初めて寝具以外で交わした口付だった。
僅かに離した唇の間で、八戒は呟く。

「『悲しい思い出』って言うんですよ…」

風に揺れる、紅い花。
雲の間から覗いた月が2人を照らした。
雨はいつの間にかあがっていて、悟浄はゆっくりと八戒の髪を梳く。
「最初にこの場所を見つけたとき、この紅は、花喃が流した、血の色に見えました。」
八戒は、ゆっくりと悟浄の胸に顔をうずめた。
一呼吸おいて、そして再度八戒は口を開く。

「でも今は…、貴方の色に見えるんです、悟浄…」

気がつくと、貴方のことばかり考えてる…
花喃への想いが、日に日に思い出に変わっていくんです……

消えてしまいそうな程小さな声で呟かれたそれは、しかししっかりと悟浄の耳に届いて
いた。
「帰ろ、八戒…」
ゆっくりと、八戒の中にしっかりと届けられるように悟浄は囁く。
腕の中で小さく、八戒が頷くのが分かった。




「想い」が「思い出」に変わる…。
膨大な時間が必要だろうと、悟浄は思った。
自分が幼い頃の夢を見たのは、自分の中で母のことが思い出に変わり始めているから
かもしれない。
隣で眠る八戒をそっと見やる。
月明かりに照らされて眠る八戒の顔は穏やかだ。

彼の全てだった、花喃。
彼女の存在を思い出に変えてしまうにはまだ経過した時間が短すぎる。
しかし、花喃の存在が全てだった八戒の中に、悟浄は入ることを許された。
そのことがバカみたいに嬉しくて、またそんなことに喜んでいる自分を自覚して悟浄は
苦笑する。
自分が、この猪八戒という男にどっぷりと浸かってしまっていることを悟ってしまったから。


「ゆっくり…な」


眠る八戒の髪を梳きながら、悟浄はそっと囁いた。





*END*







痛いけれど、そんな過去があったからこそ今の悟浄があるんですよね。
自分の心の傷と一緒に、八戒を支えてあげてほしいです。《結花》


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