─翡 翠─


事の起こりは、三蔵が外出をすると言うので、悟空が沙家に遊びに来たことから始まる。
「なあ、八戒ー」
丁度、家事もひと段落して本でも読もうかとソファに腰を下ろした八戒の腕にそれまでジ
ープを相手にじゃれていた悟空が自分のそれをからめた。
「何ですか?」
一方、悟空に対してはすこぶる甘い八戒は、読書の邪魔をされたと言うのに嫌な顔ひとつ
せず悟空に笑顔を向けた。
それを傍で見ていた悟浄は眉間に皺を寄せてハイライトをふかしている。
以前彼は、読書中の八戒にシャツの在処を訊いただけで読書の供に、と置いてあったらし
いアイスティーの入っていた空のコップを投げつけられた、という苦い経験を持っている。
しかも、視線は本に落としたままなのに、悟浄のおでこを確実に狙って来たというのが恐
ろしい。
八戒曰く、「日頃の行いの差です」ということらしいが、ここまで対応が違うといっそア
ッパレである。
金色の瞳をキラキラさせながら八戒の袖口を引いた。
「なー、影踏みやろーぜ」
「影踏み、ですか?」
「うん!」
どうやら、斜陽殿に遊びに来ていた子供に教わったらしい。覚え始めた遊びはやってみた
くなるのが当然だろう。
しかし、生憎斜陽殿には、格好の相手が見付からなかった。
そこで、ここに来た時に一緒に遊ぼうと、楽しみにしていたのだ。
こういう悟空のお願いには、ほぼ100%「NO」という返事を持たないのが八戒だ。
ましてや今は、急ぎの用事もない。
二つ返事で腰を上げ悟浄に「行きますよ」と声を掛けた。
「俺も?」
「当然じゃないですか、影踏みは鬼ごっこですよ?二人でやって何が楽しいんですか?
残念ながらジープは鳥ですから、影踏みには向かないですし」
本当は、三蔵も混ぜて4人でやったほうがもっと楽しいんですけどねぇ。
と怖いもの知らずな台詞まで吐いている。
「俺の意志はナシかよ」
と結局、八戒には勝てない悟浄も渋々と煙草の火を消した。



中々どうして。久しぶりにやってみると面白い。
悟空が普通の子供よりも、スピードがあるため、中々捕まえづらいと言うのも、盛り上が
った理由の一つだろう。
上手い具合に陽も照っており、間に何分かの休憩を入れながら、それぞれに熱中してしま
った。しかし、夏も近付くこの季節。日が高くなるにつれ、影は短くなってしまう。
鬼になった悟浄はつい勢いづいて八戒の影を踏もうと接近しすぎてしまった。
土煙が上がる。
その瞬間、眼を閉じてしまった悟空がそろそろと瞼を上げると、受身を取った八戒と、そ
の上に覆い被さっている悟浄の図が出来上がっていた。
「大丈夫か?八戒」
「って、お前俺の心配はナシか?!」
「だって、八戒の方が下になってんだもん、心配だろ」
「・・・・・。どうでも良いですが、悟浄。いい加減僕の上から退いて下さい」
その場の空気が5度ほど下がってしまうような声音。
一瞬身体を強張らせたが、強張らせる暇があったらとっとと退いた方が賢明である。
「スイマセン」と呟きながら身体を左に避ける。
その時、つき直した左手の下で「ぺき」という可愛らしい音が聞こえた。
それが何であるか、想像のついてしまった悟浄は「そのもの」を確認するため、恐る恐る
視線を左手の下に向けた。
ようやく体を起こした八戒が埃を叩きながらキョロキョロと辺りを見回しているのが目の
端に映る。
「僕の眼鏡知りませんか?」
そう問い掛けられて、悟空も辺りを探し始める。見付からない筈だろう、何故なら。
「八戒、ワリィ。俺の手の下でグチャグチャになってる・・・」
次の瞬間、その場の空気が更に10度下がった。





「まあ、済んでしまったことですし?、僕の不注意って言うのもありますし?」
その後、慌てて町の眼鏡屋に持って行ったのだが、フレームの歪みとレンズの交換という
ことで、すぐには直らないらしい。
その報告を悟浄から聞いた八戒は、穏やかに自分に言い聞かせていた。
「スイマセン、俺の責任です」
その実、注意力散漫で眼鏡を握り潰してしまった悟浄を言外に責めているのは明白である。
昼食が作れないという八戒の申し出に従って、眼鏡屋に行った帰りに調達してきた昼食を
テーブルに並べながら悟浄がぼそりと呟く。
ちなみに本日の昼食は、白いタキシードが良く似合う老人の人形が店頭に立っているジャ
ンクフード店のファミリーパックだ。
普段、自分で準備することが多い食事だが、たまにはこんなものも良いだろう。
ジープを膝の上に乗せたままソファに座って至れり尽せりの扱いに、八戒は買ってきて貰
ったポテトを摘みながら密かに満足していた。
遠慮と言うものがまったくない悟空が、2つ目のパックの蓋を開けながら、何とか打開案
を考えていたらしい。
「八戒、替えの眼鏡ってないの?」
「普通は持っているんですけどね。僕、一つ身でここに来ちゃいましたし、モノクルでの
生活がほとんどでしたし。替えなんかなくても・・・。と買っていなかったんですよ」
「そう言えば、八戒モノクルは?」
「モノクルの調子が悪いので、見てもらうために三蔵に預けてあるんです」
そこでようやく、三蔵の外出の理由が判明した悟空である。
八戒と悟空の問答は、それを隣で聞いていた悟浄を更にへこませた。
八方塞というわけだ。
三蔵が帰ってくるのは、今日の夕方。
上手く行けば、その時にモノクルも持って帰って来てくれるかもしれない。

淡い期待を胸に抱いて、それぞれ最高僧の帰りを待つ3人だった。



その日の夕方。
稀に見る熱烈歓迎を受けた三蔵が持って来た答えは、一同をがっかりさせた。
モノクルの調子も、今日一日では直らないものらしく、早くても明日の午後になってしま
うと言うのだ。
目に見えて、がっかりしている3人を見て哀れだとは思うが、出迎えた時とのギャップを
思い出すと面白くない。これは、三蔵の責任ではないのだ。
「この家は、八戒の眼鏡がなくなると、茶も出さないのか?」
偉そうにふんぞり返っている最高僧のふてぶてしい顔を見て、一度台所に消えた悟浄はコ
ップを1つもって現れ、三蔵の前に置いた。
「てめーなんか水でじゅーぶんだ」
八戒の淹れた珈琲とは雲泥の差があるが、歩いて帰ってきたので喉は渇いている。
コップを手にすると、口をつけた。
しかし、唇を湿らせただけでテーブルに戻してしまう。
「水道水だろう」
「はい?」
ハイライトに火を点けようと、ライターを出したところで動きが止まってしまった。
水道水の何が不満だと言うのか?現に、悟浄はこの水を飲んで生活をしている。
何も危険な事はな・・・
「あぁ、すいません、悟浄。言い忘れていましたが、冷蔵庫を開けて飲み物棚の左端に三
蔵用に置いてあるミネラルウォーターがあるんです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
何故、我が家の冷蔵庫に、三蔵のキープボトルがあるのか?
悟浄の知らないうちに沙家の台所は恐ろしいことになっているのかも知れない。
しかも、あまり深く考えるのは止めておいた方が賢明だ。
悟浄は大人しくテーブルに戻されたコップを取って、冷蔵庫の中にあったペットボトルの
中身を注いだ。





散々な一日だった・・・。しかも、それが自分の責任も何%かはあるため、逃げられない。
長かった一日を思い返して悟浄は、はああああ、と深くため息をついた。
食事も終わったし、風呂も入った。後は寝るだけだ。
視力が悪いため、家事の全てを悟浄に押し付けていた八戒だが、流石に風呂は自分で入れ
ると言ってバスルームに消えている。
とりあえず、彼が風呂から上がるまでは起きていた方が良いだろう。
しっかりしているようで、実は結構抜けた所のある八戒のことだ。
脱衣場に続く扉にけつまずいて転ぶかも知れない、石鹸に足を取られて後頭部を強打する
かも知れない。
そう思って、窓辺で外を眺めながら煙草を燻らせていた。
日中の熱さが嘘のような、心地よい風が室内に入ってくる。
「悟浄、居るんですか?」
どうやら、気付かない内に物思いに耽っていたらしい。
振り向くと、八戒がリビングに入ってくるところだった。
普段なら八戒の姿を見ると傍に居たがるジープも、彼の視界が悪くなってしまったことを
知っているので少し遠慮をしているようだ。
ソファの上に蹲った体勢のまま頭だけを上げて、自分の存在を教えるように一声鳴いた。
その声に応えるようにジープの方に笑顔を向けてソファの横を通り過ぎると、悟浄の立っ
ている窓まで近付いて来た。
よく見えないためだろう、普段よりもしっかりと悟浄の顔を見つめる。
「起きててくれたんですね」
「結構ボケボケさんだから、お前」
「なんですか?ソレ。失礼ですね、貴方」
八戒が穏やかにくすくすと笑う。碧の瞳が細められた。
もう片目は作り物だとは知っている。
しかし、それでもつい見入ってしまうような綺麗な色だと、悟浄はぼんやりと思った。
あの時見上げた彼の瞳の印象はまだ記憶の中にしっかりと残っている。
あの碧の瞳がなかったら、自分はこうして、この男を同居人として迎えていなかっただろ
うから。そして今、その真っ直ぐな瞳が両目とも表れているのだ。
ここ暫く、レンズ越しの瞳に慣れていた悟浄は、自分が過去に戻った気がして奇妙な感覚
を感じた。
しかし、彼がまだ『悟能』だった時に見慣れていた筈のこの顔も、『八戒』とはちょっと
違うように感じるのは気の所為ではないだろう。
八戒の方が棘がなくなっている気がする。
悟浄の隣に陣取り、窓枠に手をついて八戒が夜空を見上げる。
「今日は満月でしたっけ?」
「何?お前見えるの?」
風が窓を潜って二人の間を抜けていく。
「いいえ、ぼんやりと黄色いものが見えるくらいです。新聞に載っていたのを覚えていた
だけですから」
明日には見られますかね?とふんわりとした笑顔を悟浄に向けた。
そうだ、彼はやっぱり八戒である。
それは、モノクルがあろうとなかろうと間違いなく断言できた。
逆に、モノクルがあっても『悟能』の時は『悟能』であるのを、去年の冬見たことがある
のだ。



雪の中、倒れていた『悟能』は自分を知らない者のように見つめていた。
悟能の中には、自分と、花喃と、それから・・・。
少なくとも、悟浄はその中には含まれなかったのだ。
──かな・・・・・──
彼の唇がそう動いたのを覚えている。
あの吹雪の中見上げた幸せそうな笑顔は花喃に向けたものだったのだろう。
帰ってくるのがあと少しでも遅かったら、八戒は花喃と悟能の所に行ってしまっていたか
も知れない。



「悟浄、有難うございました」
「何が?」
自分と認めて向けられる瞳だからこそ、綺麗に感じるのかも知れない。
ふわりと笑う八戒の視線を受け止めきれず、視線を桟に乗せた灰皿に移す。
「実は今日1日、僕不安だったんですよね」
こんなに物が見えないというのが怖いことだとは思いませんでした。
ぼんやりとしか見えないこの世界では、僕1人しかここに居ないような気がして。
綺麗な瞳の中に少しばかりの不安が見られた。普段はレンズ越しで見ていたため気付きず
らかったのだが、彼の瞳はこんなに物を言うものだったのか。
悟浄は、煙草を灰皿に押し付けると、八戒の後頭部を掴んだ。
八戒のこんな不安な瞳は見ていたくなかった。
「悟浄?」
八戒は自分が何をされているのか分からないが、自分の頭が何かに押し付けられているの
だと言うことだけは感じられた。
中途半端に屈められた体勢はちょっと辛いものがある。
思わず手に触れた悟浄の服を掴んだ。
とくん・・・とくん・・・とくん・・・
規則的な音が聞こえる。
「八戒は今独りじゃないじゃん、馬鹿ザルだって、クソボーズだってちゃんといるし、ジ
ープだってさ。・・・俺も」
規則的な音と共に直接耳に入ってくる悟浄の声を聞いて、今自分の頭が、悟浄の胸に抱き
かかえられているのが分かった。
自分のものではない、誰かの心臓の音がこんなにも安心できるとは知らなかった、物心つ
いた時から、誰にも甘えずに生きてきたので。
花喃は全てを包み込んでくれる女性だったが、あの頃の自分はそれに応えるのに精一杯だ
った。何処か突っ張って生きてきたから、彼女のこんな音まで感じる余裕はなかった。
暫くそうしていたが、自分の今日一日の緊張が溶けていくのを感じ、そろそろと頭を起こ
して感謝の意味も込めて笑顔を浮かべた。
悟浄の方も、その瞳に不安がなくなったことに安心し、ニヤリと笑顔を向けた。
「悟浄、お願いがあるんですが」
「何?」
「今夜ひと晩、僕と一緒に寝ませんか?」
だって、途中トイレに起きたら、転んじゃいそうですし。
八戒の申し出に悟浄がニヤリとした笑顔に苦笑を滲ませて俺は杖代わりか・・・。
とぼやく。
「ダメですか?」
「ひと晩くらい、ベッドが狭いのもガマンしましょー」
「それはお互い様です」
窓を閉めて、リビングの明かりを落とす。
満月の淡い光が室内に差し込んだが、八戒の視力では暗闇も同然だろう。
八戒の右手を自分の肩に乗せ、寝室へと向かった。
暗い廊下で、自分と悟浄の足音と、ジープの羽音が聞こえてきた。
自分は今、独りではないのだ。
「それにしても八戒」
寝室のドアを開けてジープを中に入れた後、二人がその後に続く。
「何ですか?」
シーツを手探りで捲り、ベッドに潜り込んだ。
「こー言ったらナンだけど」
──お月さまが見てるぜ?──
笑いを含んだ悟浄の声音についうっかり、くすくすと笑い声を立てた。
「サムイ冗談はそのくらいにしましょう。なんだかんだで疲れていますから」
お休みなさい
ゴソゴソと、八戒が寝の体勢に入る。
「疲れている」という彼の言葉は真実だったらしく、5分も経たない内に悟浄の隣で規則
的な寝息が聞こえてきた。
お互い、散々な一日だったけれど、こんな風に穏やかに一日が終われるのなら、結果オー
ライだろう。悟浄は、隣の穏やかな呼吸を聞きながら、静かに瞳を閉じた。












《日常の破片》







《言の葉あそび》