─サヨナラ─


―――悟浄、今まで有難うございました。―――
最後に見たヤツの笑顔はやはり綺麗で。
その笑顔を瞳に映したまま俺は、彼の口から出た言葉の意味を理解することができなかっ
た。白い空間、俺と八戒以外には何一つ見えない。
ここは何処なのか、それすらも分からない。
「どう・・・いうことだ?」
何とか、吐き出した台詞もカラカラに乾いていて、かろうじて口内に残っていた唾液が嚥
下されるのをリアルに感じた。
「だから、言ったじゃないですか。お別れです」
そんなこと認めない。だって、今まで上手く行っていたはずじゃないか、俺とお前は。
そんな呟きを聞いて、八戒の綺麗な笑顔が僅かに曇った。
そして、彼の口から「だからです」という台詞が発せられる。
「僕は、あんまり気が長いほうじゃないですし、あまり我慢強い方でもありません。だか
ら、今まで貴方と上手く行っていたことが幸せで、それを壊したくないと思うのはいけな
いことですか?」
お伽話では、「いつまでも幸せに暮らしました」で、めでたしめでたしですが、僕たちに
はそれから長い長い未来があるんです。
どう考えても、半妖怪の貴方より、以前は人間だった半端者だとしても僕の方が長生きし
そうじゃありませんか。
僕はもう嫌なんです。置いて行かれるなんて。
だから。今まで有難うございました。
八戒の右手がこめかみまで上がる。
その右手には、S&Wが握られており、その蹄鉄が上がっているのが確認できる。
あンのクソボーズ!自分の持ち物くらい、きちんと管理しておけ!
今、この場にいない三蔵に悪態を吐くほど、非現実的な光景に俺の感情は置いてきぼりに
されている。
八戒の右手に握られている物がぎりっと形の良い側頭部に押し当てられているのを、ぼん
やりと眺めた。
人差し指が引き金に掛かり、そして──。





はっと紅い瞳を見開く。
その視界に木目の天井。悟浄は自分が嫌な汗をかいていることに気付いた。
「夢・・・か・・・」
ムクリと体を起こし、大きく深呼吸をする。
新鮮な清々しい空気が肺の中に入って行くのを感じた。
手探りでベッドサイドにお目当てのパッケージを見付け、一本引き抜いて細心の注意を払
ってライターを擦った。
「どうかしましたか?」
「うぉあああ!!」
せっかくなるべく音を立てないようにしていたのに、今晩二人部屋の同室だった八戒は眠
っていなかったらしい。
いきなり声を掛けられて思わずライターを取り落としそうになった。
「ビックリさせんなよ・・・。起きてたのか?」
「えぇ、まあ」
西に向かう旅の途中、立ち寄った宿屋。死とは隣り合わせの筈の旅だが、たった今まで見
ていたものに比べたらものすごく平和で、安堵のため息を煙草を吸う仕草で誤魔化した。
少なくとも、八戒はまだ生きている。
煙草を吸っている悟浄を眺めながら、八戒もベッドに座った状態になり笑顔を向けた。
「僕は、隣でウンウン唸っている人がいるのに爆睡できるほど、図太い神経の持ち主では
ないんです」
「げ。俺唸ってた?悪ィ」
灰皿に煙草を軽く叩いて灰を落としながら、もう片方の手はガシガシと長い髪をかき混ぜ
る。そんな悟浄の様子を窺いながら、一見普段とは変わらない口調で八戒が問い掛けた。
「何があったのか、訊いても良いですか?」
あえて無理に訊き出そうとせず、最終決定を悟浄に託した問い方。
心配をしながらも、プライドの高い悟浄を慮っているのが分かった。
普段なら、我関せずを通すであろう八戒にここまで気を遣わせてしまうほど、凄いうなさ
れ方だったらしいと気付き、悟浄は苦笑した。
短くなった吸いさしをぎゅっと灰皿に押し付ける。
悟浄はまた新しい一本を引き出して、火を点けた。
「お前がな」
「はい」
「自殺する夢」
「はあ?」
「凄かったぜ。三蔵の拳銃でこめかみを一発」
目の前に八戒がいるのが現実であると分かるからこそ、冗談交じりに言うことができた。
ニヤニヤした笑みを八戒のほうに向けながら自分のこめかみを撃つ真似をして見せる。
一方、クールな自分でさえも心配してしまうほど悟浄がうなされた夢に、自分が関わって
いたとは思いもしなかった八戒は、何と言って良いのか分からないまま、ピストルの形を
作った悟浄の左手を見つめた。
今でこそ、ヘラヘラと笑って夢の話をしてはいるが、あのうなされ方は酷かった。
八戒はおもむろに寝床から抜け出し、悟浄のベッドへ向かって行く。
「馬鹿ですね〜、貴方」
「そう?」
暗闇に慣れてきた所為もあって、八戒の碧色の瞳が自分を見下ろしているのが分かった。
「僕が、何故、自殺なんかするんですか?」
銜えていたタバコを八戒の細い指にするりと奪われる。
まだ長さがあるそれを追って灰皿に視線を移した時、目の前が真っ白になった。
息苦しさを覚える。
「少なくとも、僕は貴方の目の前で自害はしないと思いますよ?置いて行かれた方の気持
ちが分かりますからね」
八戒の声がステレオで聞こえ、それと一緒に自分のものではない鼓動さえも聞こえてきた。
そこで初めて、悟浄は自分の頭が八戒に抱き締められているのだと気付く。
生きている証。定期的に刻まれるトクントクンという微かな音。
悟浄は自分の体から余計な緊張が抜けていくのを感じた。
誰かの鼓動を感じるというのは、こんなに気持ちの良いことだったんだろうか?
町で暮らしていた時にはオンナと何度も密着して1つのベッドにいたこともあったが、そ
の時にはこんな音は聞いていなかったと思う。
その場限りの付き合いの中で、そこまでする気も起きなかったと言うのが正直なところだ
ろう。誰かの体に触れて、こんなに安心できるなんて知らなかったのだ。
静かな空間の中、悟浄は相手の体に腕を回すでもなく抱き締められた体勢のまま聞こえて
くる音を受け入れた。



どのくらいの時間が流れたのか。
ほんの数秒だった気もするし、数分間のような気もする。
「落ち着きました?」
そろそろと、八戒が紅い髪の上で交差させていた腕を解く。
その動きに合わせて悟浄も少し名残惜しい気もしたが頭を起こした。
「まぁな、サンキュ」
見上げた視線の先に八戒の笑顔。
いつ見てもコイツは綺麗な表情で笑う、と漠然と感じた。
あの夢の中の笑顔など、やはり模造にしか過ぎないのだと、今なら思える。
「結構効くでしょう?安心できるおまじない」
「効いた、効いた。馬鹿ザルになった気分」
八戒は、悟浄独特のニヤリとした笑顔をちょっと呆れたように見下ろした。
「以前僕もしてもらったことがあって、それから愛用しているんですよ、これ」
「へえ?誰に」
「・・・・・ナイショです、貴方にだけは教えてあげません」
「・・・・・・・・・・・・・・・。オイ、俺限定かよ?」
「あぁ、まだ夜明けには時間がありますね。悟浄が安心できたところでもう寝ます」
「俺の質問に答えろっつーの!」
八戒は灰皿の煙草の火を確認すると、くるりと悟浄に背中を向け自分のベッドに戻ってい
く。その背中に悟浄がまだ話は終わっていないと騒ぎ立てた。
自分限定と言われると何故だか後味が悪い。
尚も言い募ろうとしたところで、八戒が枕に頭を乗せ完璧な笑顔を悟浄に向けた。
「悟浄、僕だって貴方が夢でうなされたお陰で寝不足なんです。ただでさえ、今日は酷い
道で疲れたんですから。これ以上ごちゃごちゃ言うのなら、ぶっ飛ばしますよ?」
こういう表情をした八戒ならきっと本当にぶっ飛ばすだろう。
渋々と「オヤスミナサイ・・・」と挨拶をしてシーツを頭まで被った。
とくん・・・とくん・・・
先ほどの鼓動の音が耳の底に残っている、瞳を閉じるとそれが顕著に感じられた。
「おまじない」が誰のオリジナルだって良いか。
それを自分にしてくれた人が誰であるかが問題なのだから。
とりあえず、今夜はぐっすり眠れそうだ、と悟浄は深い眠りの世界へ意識を手放した。












《日常の破片》







《言の葉あそび》