作り物めいた精巧なビスクドールのような八戒。そう言えば三年前もこんな風に、息を殺して じっとこの寝顔を見詰めていた。 昔、幼かった子供のころに、何度か義母に隠れて巣から落ちた雛を拾い育てたことがあった。 思えばあたりまえのことだが、野生の雛は飢えと落下時のショックで手の中で息絶えて冷たくな っていくこともしばしばで、そのたびに募る無気力感にいっそ助けられぬものならば、助けなけ れば良いものをと、己の無力さのみを感じとり、そう誰よりも自身が判っていながらも懲りるこ ともなく雛を拾っては、その墓を作っていた子供のころの自分。 あの時も、八戒の、まだ名も知らなかった男の死んだような寝顔を見つめながら、きっと自分 が寝ている間に、この男は、あの雛のように死んでしまうのだろうと思うこともしばしばで、そ れも運命さと放ることも出来たはずなのに。何故だろう、今回に限っては放っておくことができ なかった。夜中に何度も起きては、その胸が微かに動いているのを息を殺しながら食い入るよう に見詰めていた。耳を置いた胸元の、トクンと生きていると伝える、心音を聞くたびに、ほっと 深い息をつく。 そして今また悟浄はあのころと同じように、震える指先を八戒の頬に、瞼に、口唇に滑らせた。 誰よりも仲間を気遣い、誰よりも無茶をするなと口うるさく諭す代わりに、また誰よりも無茶を する負けず嫌いの八戒。今回の神様との死闘とも言える一戦で一番重症を負ったのもまた彼だっ た。 はじめて完膚なきまでの敗北に叩きのめされて、それでも望んだリターンマッチで得たものは なんだったのだろう。勝者の得るべきあたりまえの権利すら満足に得ることも悟浄にはできずに いた。結局のところあの神様すらが誰かのおもちゃに過ぎなかったのだから。 「優しいジャン」そう言って微笑んだ寂しげな微笑が、名を知らなかった男の笑みに摩り替わる。 ずきりと胸が痛んだ。そんな感傷すらも気づかぬ振りで受けた傷の痛みに摩り替えた。否、一番 痛かったのは、一番、苦痛なのは、自らに負った傷よりも、八戒が受けた傷。もしくはこの胸の 内を焦がすような愚かな嫉妬と独占欲、そんなものに苛まれる己自身だろうか。 その口唇に己の口唇を重ねて、けれど八戒は目覚めない。そんなことは知っている。それはす でに三年前にも試したことだ。けれど自分の八戒への思いが真実ではないと思わない。ただ八戒 にとってはそれが真実の愛ではないのかも知れないだけだった。 月の光に照らされて奇妙に作り物めいて見える白い花。かがみこんで、彫刻のように美しい指 が花をそっと撫でた。 「この花、鷺草というんですよ。鷺と言う鳥は一度番ったら片割れが死んでも、二度と番うこと はないと言われているそうです。だから鴛鴦と共に、夫婦の鏡と評される。でもそんなこと自然 界ではありえませんよね。だってそうでしょう、自分のDNAをより多く残すことが種の保存に なる、それが本能として刷りこまれている鳥がそんな馬鹿な感傷に囚われるわけありません。そ れは人の愚かな感傷を押しつけているに過ぎないんですよ。この鷺草はね、その典型なんです。 死んだ片割れの死骸の側に寝食を忘れて佇んでいたそうですよ。番の片割れは、そして死んでし まった。神はそんな鷺の夫婦愛にうたれ、一対の花にその姿を模した。それがこの花だそうで す・・・」 そのとき一陣の風が花を揺らし、八戒の言の葉の続きを浚う。それが潮時でもあるかのように 彼はすくっとたち上がった。 「すっかり遅くなってしまいましたね、帰りましょうか」 瞬間、悟浄はこのまま八戒が白い鳥に己が姿を代え飛んで行ってしまうのではという錯覚に囚 われた。けれど今はそれでも良いかもしれないと思う自分が確かにそこに存在していた。このま ま、この花にその身を変えても、白い鳥になって飛んで行っても構わない。明日と言う日が終わ るまでならば、八戒がこれ以上傷つく様を見るくらいならば、けれどそれを告げることを彼はけ っして許さないだろう。 「ああ、そうだな」軽く答え、さっさと宿代わりに使わせてもらっている酒場に向かい歩き出す。 今の自分の顔を見られたくなかった。どれほど惨めな面をしているか判ったものではない。 「三蔵を信じきれませんか?」問われて、否と答えたのは嘘ではない。けれど必ずしも本当でも ない。ただ、八戒の三蔵への絶対的な信頼心をまざまざと見せ付けられたような気がしただけだ。 同じことをしろと言われれば、自分もまた否とは返さないだろ。けれど、それを八戒が肯定する ことは酷く辛い。 「三蔵の腕前は貴方だって良くご存知なはずでしょう」 そこにあったものは言の葉に載せるまでもない、何を今更心配することがあると言わんばかり の静かな微笑みだった。瞬間、なぜか酷く八戒の存在をこれまでにないほどに遠く感じた。 三蔵の腕前に関しては悟浄も良く知っている。さきほども悟浄の吸いかけのハイライトを見事 にジャストショットで撃ちぬいたばかりだ。けれど人はロボットではない。どれほど精巧に、ど れほど正確にあろうとも、必ず失敗することはある。百歩譲ったとして、三蔵の狙いがまったく のところ外れなかったとしても、八戒自身が盾になるということは、すなわち、大怪我を負うと いうことには間違いないのだ。 「悟空では背が低すぎて盾になりません。貴方には先人切って、神様を翻弄してもらわなければ 困ります。それに僕なら、三蔵の銃弾に気孔を込めることだって可能ですよ」 果たしてマッハのスピードで通りすぎる弾丸にそんな技は不可能だと、そう言い切ることは悟 浄には出来なかった。否定は許さないと八戒が無言でそう告げるなら、ただ頷くしか道は残され ていない。これは問いかけではなく決定事項の確認に過ぎないのだから。 悟空と悟浄を囮にし、八戒を盾にすることで自由に動くことのできる三蔵が神様にトドメを刺 す。それが万全の方法であることを否定することのできるものなど存在するわけもない。悟空で すらが反対しなかったではないか。けれど理性と感情は別物だ。実際、先の戦いの傷が癒えてい ない八戒がなぜまた犠牲にならなければならないのか。けれど、それはまた皆同じことなのだと、 皆が同じほど傷つくのだからと八戒はこともなげに笑ってみせた。自ら好んで貧乏くじを引きた がる、悟浄の誰よりも大切な薄幸美人。その笑みを見ているのが辛くて、タバコを吸う振りをし て背を向ける。だからその背を八戒が食い入るように、息を詰めて見詰めていたことに悟浄は気 づくことがなかった。 「すみません。でも悟浄、僕が嫌なんです。貴方がその無防備な背中を三蔵に晒すことだけは、 貴方がどんなに三蔵を信頼しているか見せ付けられるのを見たくない。これはだから僕のエゴな んです」 痩身は何時になく折れくだけてしまいそうで、生きてることを感じたい、八戒に触れたいと望 む心とは裏腹に、悟浄は八戒に指で触れることすら躊躇われた。 自分にも八戒と同じように治癒の力があればいいのにと今ほど思った事はない。そうならば、 この命と引き換えにしても彼を癒せるものを。 そっと触れるか触れないかの距離で包帯を巻かれた傷口に舌を這わせた。まるで獣のようにそ れしか術をもたぬように、一つ一つの傷を癒そうとするかのように。 暖かい温もりを口唇に感じて、凍てついていた大地が雪解けるように緩やかに八戒の意識は覚 醒した。 「悟浄・・・」そう名を呼びたいのに、まるで封印を施されたように、口唇を動かすことは叶わ なかった。それどころか、まるで眠りの魔法にかけられた姫君のように自分の身体でありながら 指一本動かすこともままならない。 やがて、傷だらけの身体を包みこむように優しい接吻が降り落ちてきた。 まるで獣のようだと思う。他に術を知らぬように、そうすれば八戒を癒すことが出来ると信じ きっているかのように悟浄の口唇が、舌が傷の一つ一つを優しく労わるように触れてくる。 獣の愛は何時だって一途だ。永遠を誓いながら裏切る術を知るのは人だけだ。あれほど愛して いると思った。その人のためなら人間であることすら捨てられたほどの、そして奪われた愛。け れど自分は、今、その思いより強いものを悟浄に対して抱いている。だから八戒はけっして永遠 など信じなかった。けれど、悟浄だけは違う。 そう、貴方は違いますよね、悟浄。もしここで僕が永遠に目覚めることを止めたならば、僕は あなたを永遠に手に入れることが出来るでしょうか。 接吻で目覚めるのが真実の愛だといったい誰が決めたのだろう。王子が通りかかるまで白雪姫 に接吻したものはいなかっただけだ。あれは言わば偶然に過ぎない。眠り姫しかり、あれを真実 の愛ゆえといったのは姫だけだ。もし目覚めさせたものが王子以外のものだとしたら、彼女は目 覚めることを望んだろうか? 崩れゆくおもちゃ箱。崩壊する壁に潰されそうになったとき、このまま貴方と瓦礫の山に埋め 尽くされて原色の化石になってしまえたらと、あの一瞬に僕が思ったと知ったら、それが刹那の 願いであったと知ったならば、貴方は呆れますか? それとも共にと望んでくれますか? こうして眠る僕の傍らに貴方が佇むその様は、あの白い花のようでしょうか? あのとき、あ の白い花にさえ、僕が嫉妬したことを貴方は知らない。 優しすぎる貴方。敵としていた者にさえ、その手を差し出すことのできる人。だからこそ貴方 を永遠に手に入れることが出来るならば、僕はこの場で己の手で心の臓を抉り出しても構わない。 長い髪が素肌を優しく掠っていく様に八戒は一つだけ、満足そうにため息を漏らした。そして、 その八戒の口唇に瞬時、微かに浮かんだ笑みに気づくこともなく悟浄はただ一心不乱に八戒の傷 を舐め続けた。 待っていてください。明日になったら、いつものように微笑むから。この汚らしい独占欲を胸 の奥に封じこめ,貴方の重荷にならぬように、いつもの親友に戻るから。だから、今だけはあの 白い花の伝説の鳥のように僕の側にいてください。 鷺草の花言葉は、繊細、そして夢の中でも貴方を愛す。望んでも決して一つになれない二人だ から。夢の中でのみ貴方に告げましょう。僕の本当の気持ちを。獣の一途さを持つ貴方に。 そんな二人のけっして交わらぬ思いに答えるかのように、窓の下に咲く鷺草が静かに風に揺れ ていた。 END |
middy昴さんからのコメント とある方が、GF11号後日談を読みたいと日記に書いていたので、ではと書きこしていたら、 またとある方が、それこそ凄く素敵で一途な悟浄さんのGF11号の後日談を書いてくださった ので、ヤッメタと放っておりました。 そうしたらある日某エムシュさんから、500年来の親友が4サイト合同で、正しい58の在り 方を検証するらしいから、うちも参加ねと、ハート付きで微笑まれましたとさ。 いわく、一番権限ない管理人は嫌とは言えず、しかし出来あがった作品はどこをどう取っても、 正しい58の在り方には程遠い気がします。 でもまあ、悟浄を手に入れるためならば、永遠の眠りについても良いくらい八戒さん、一途なの で許してやってください。 とにかく傷舐めというお題はクリアしたと言うことで、外しているのはいつものことのmidd y昴でした。 |