第9話 酒とアヒルと甘い夜


 「あらぁ、イイ男ねぇ。」
 「ど〜も。」
甘い香りを纏いながらしなだれかかる女に、悟浄は男臭い笑みを浮かべて応える。
互いに慣れたやりとりに、隣で酒を飲んでいた八戒はひそかにため息をついた。



ちょっとした事故が原因で悟浄がアヒルと化した翌日…つまり今日の昼のことだったが、
悟浄と八戒、そして退屈していた悟空をあわせて三人で例の呪泉郷に足を運んだ。
もちろんそれは元に戻る為の男溺泉なるものを探すためであったのだが…。
結果は惨憺たるものだった。
話には聞いていたが、大小取り混ぜて百以上あるという泉を、ひとつひとつシラミつぶしに
調べてまわるというのは想像以上に大変な作業だった。
結局のところ十数個確認するのがやっとのありさまで、そこで解ったいくつかの事柄もまた
悟浄を落ち込ませるに十分な材料となってしまった。
あまりにもがっくりと肩を落とした悟浄の姿に同情したのか、宿の主人が村の酒場を紹介し
てくれたのだ。
 「こんな辺鄙な村ですが、酒場はなかなかのもんですよ。」
その言葉に、八戒は半ば強引に悟浄を誘いこうして酒場へと出向いたのだった。
そこの主人が酒好きで、半ば道楽でやっている酒場というだけあって、棚に並ぶ酒も厳選さ
れたよいものばかり揃っているようだ。
店の内装も雰囲気も、シックにまとめられていて悪くない。
そんな中、静かに二人で酒を楽しむつもりだったのだが、酒場で放っておかれるような容姿
の二人ではなかった。
一杯目も飲みきらないうちに、悟浄の周りは酒場の女たちで彩られる。
 「ねえ、どこから来たの?」
 「ん?遠いトコから。」
 「あら、教えてくれないのね。」
 「ミステリアスな方が魅力的でいいだろ?」
 「やだぁ!」
悟浄の軽口とウインクに、たちまち華やかな笑い声があがる。
それを何とは無しに聞きながら、八戒は聞こえないくらいの小さなため息をつく。
悟浄が女性にもてはやされるのはいつものことで、別に珍しいことでも何でもない。
今更そんな事で目くじら立てるつもりはないし、第一悟浄の気分転換になればと思って来た
のだから、本人が楽しそうならそれが一番だ。
ただ…どうしてもこういった華やかな雰囲気に馴染めないせいか、自分だけが妙に浮いてい
る気がして、どうにもいたたまれない時がある。
さてどうしたものかと、ぼんやりと酒を口に運びながら考えていると、背後から数人の男達
が近寄ってくる気配を感じ、八戒は今度こそはっきりとしたため息をつく。
 「おい、女大勢はべらしやがって。何様のつもりだぁ?」
 「まったくだ。ヨソもんのくせにいい気になってんじゃねえよ。」
疑いようのないほどに酔っぱらった男たちが、酒臭い息を吐きながら文句……限りなく言い
がかりに近いケンカをわざわざ売りにやってきたようだ。
 「どこにでもいるんですねぇ、こういう方。」
 「まあなぁ。」
呆れたような声で八戒がそう言えば、悟浄も苦笑いで応える。
端から見ていれば、特に何もしなくとも大勢の女性の関心を引く悟浄に対し、明らかに自分
が女性に相手にされない事で、一方的に嫉み恨みを抱いているのだと自ら宣伝しているよう
な行為なのだが、アルコールでマヒした脳ではそんな事も解らなくなっているようだ。
 「なにぼそぼそ話してんだぁ?ああ!?」
苛立った声を上げながら男のひとりが八戒の肩を掴めば、掴まれた八戒の代わりに隣の悟浄
がぎろりと背後の男を睨み付ける。
悟浄の事を、ただの軽いだけの男だと高をくくっていた男は、その鋭い視線に思わずたじろ
いでしまう。
 「な、なんだよ。ケンカ売ろうっていうのか?」
 「ムサイ野郎から何か買おうなんて気ねえけどな。俺は。」
どうせ買うなら、美人のお姉さんの方がイイと言わんばかりに、隣に座った女の腰を見せつ
けるように引き寄せ笑いかければ、周囲からまたも華やかな歓声があがる。
 「なにい!」
 「生意気だぞ、この野郎!」
煽るような悟浄の言動に、濁った男達の目が加速的に血走っていく。
声を荒げる男達に、ざわざわと店内はざわつきはじめる。
 「まあまあ。」
一触即発に近い状態まで場の雰囲気が下がったところで、八戒がのんびりと仲裁の声をあげ
ながら、なおも男達をからかおうとする悟浄を視線で制する。
 「僕たちに何かご用ですか?」
そう言いながら、八戒は得意の営業スマイルを男達に向ける。
すると、初めて気付いたように男達は八戒のその顔をしげしげと眺める。
 「お、こっちの兄ちゃんえらい別嬪さんじゃねえか。」
 「田舎のイモ姉ちゃんしかいねぇと思ったが、この際男でも構いやしねえ。
  な、こっちきて酒注いでくれよ兄ちゃん。な?」
まるで八戒を値踏みでもするような、男達の無遠慮な視線にむっとした悟浄が動こうとする
が、八戒は右手を軽く彼の方へ滑らせることで止める。
 「こっちこいよ、な?」
 「……ふぅ。」
馴れ馴れしく肩に回してくる手を無造作に払いのけながら、八戒はひとつため息をつく。
ここでこの無粋な酔漢達を叩きのめすことなぞ造作もない。
ただいつものように通りすがりの酒場ならともかくも、この村ではあと数日滞在しなくては
ならないのだ。
しばらくはこの村の人々に世話にならねばいけない以上、もめ事を起こすのはなるべく避け
たほうがいいだろうと八戒は考えた。
 「…先に戻りますね。悟浄はゆっくり楽しんでください。」
 「ちょっと待て、なんでそうなるわけ?」
微笑みを浮かべて周囲に軽く会釈しながら八戒がそう言い立ち上がれば、それまで余裕の笑
みを崩さなかった悟浄が驚いたような視線を向けてくる。
 「だって…せっかく楽しい雰囲気なのに帰ることないじゃないですか。」
 「あのな八戒、俺は…。」
 「お勘定、ここに置いておきますね。」
何か言いかけた悟浄の言葉を遮るように八戒はそう畳みかけると、カウンターにまとまった
額の金を置く。
 「じゃあそういう訳で。ああ、でもあんまり遅くならないようにしてくださいね。」
 「だから八戒!…って人の話聞けよ!」
立ち去ろうとしたその腕を掴んで引き戻そうとすれば、八戒は視線を合わせようとしない。
何に対してか、妙に頑なになってしまった八戒には、言葉でいくら呼びかけようともその心
まで届かない事は経験上悟浄は知っていた。
 「…ちっ。」
小さく舌打ちをすると、悟浄はカウンタの上にあったコップを掴む。
それをどうするのかという八戒の表情が、一瞬にしてまさかという驚きの色に変化するのを
見ながら、悟浄はそのコップの中身を何の躊躇いもなく自分の頭の上で傾けた。
バシャ!という水音とともに一瞬の閃光が走る。
そしてそのあとには、つい今までそこにいた筈の赤毛の男の代わりに一羽のアヒルが床の上
で、これでどうだ文句あるか、と言わんばかりにふんぞり返っていた。
あまりといえばあまりの出来事に、店内がしんと静まり返る。
いったい今、ここで何が起こったのか解らないという空気がひしめく静寂の中、真っ先に動
いたのはやはり八戒だった。
素早い手つきで床に落ちている悟浄の服を拾いまとめて腕にかけると、アヒルを大事そうに
そっと抱き上げる。
そして扉までゆっくりと歩み寄ると、ふと思い出したようにくるりと振り返った。
 「お騒がせして申し訳ありませんでした。どうぞ皆さまごゆっくりなさってください。」
小脇にアヒルを抱え、八戒は丁寧な挨拶とともに軽く頭を下げるとそのまま出ていった。
優雅な一礼とともに一人と一羽が店から消えた後もしばらくの間沈黙は続いていたが、よう
やく呪縛から解けたのか、店の人達は互いに顔を見交わしながら言う。
 「今のって…もしかして手品だった?」
 「さあ…。」
当然とも言える問い掛けに、正確な答えが出せるものはその場にはいなかった。



 「悟浄、もう少し頭前に出して下さい。」
裏道に入った八戒は、アヒル姿の悟浄を側にあった箱の上に静かに置くと、持っていた水筒
の栓を抜きながら言う。
素直に悟浄が頭を前に伸ばすと、八戒がその頭に水筒のお湯をゆっくりと掛ける。
ぽん!という音と閃光と共に、目の前にもとの姿の悟浄が現れる。
ただし全裸ではあったが。
濡れて重くなった髪を煩わしそうにかき上げながら、悟浄は八戒の手もとを見て言う。
 「お前、お湯なんて持ち歩いてたのか?」
 「ええまあ…一応。」
半ば呆れたような感心したような悟浄の声に、八戒は再び水筒の栓を締めながらあいまいに
そう答える。
 「用意のいい奴だよなぁ、お前って。」
 「そうですか?はいこれ着替えです。」
 「お、さんきゅ。」
視線を合わせることもなく突きだされた服をもそもそと着ながら、悟浄は黙ったままの八戒
に声を掛ける。
 「お前、何むくれてんだ。」
 「むくれてなんかいません、呆れているだけです。」
 「あ、そ。」
その表情と声を聞きながら、悟浄は充分むくれているじゃねえかと思いながらも、同じこと
を問えば恐らく八戒はへそを曲げたまま怒りだしかねない。
ま、追及してもしゃあねえかと軽く肩をすくめ、悟浄は無言でズボンのポケットから煙草を
取りだし口に銜える。
 「…っと。」
火をつけようとしてライターが見当たらず、ぽんぽんと自分の体を叩いていると、八戒が手
を突きだす。
その手には探していたライターが握られており、目の前でシュッと音を立てて火がともる。
 「かさねがさね、ど〜も。」
悟浄が小さく苦笑しながらその火に煙草を銜えたまま顔を近づけた。
暗闇の中、ぽうと浮かぶオレンジ色の光で悟浄の顔だけが明るく照らし出される。
煙草の先に火が灯るまでの少しの間だけしか見られない、無表情に近いそんな表情に八戒は
引き込まれるようにして見つめる。
時間にしてほんの十数秒の間の筈なのに、伏せ目がちのその表情で意外にまつげが長いのだ
なあとか、人懐こい笑みが消えた顔にああやっぱり顔立ちが整っているなあとか、そんな事
を細かく観察している自分に気付き、八戒は己の事ながらなんて恥ずかしい奴なんだとしみ
じみと思わずにいられない。
が、それがまたいかに自分が今目の前にいるこの男を好きなのか、という再認識にもつなが
ってしまい、嬉しいのか恥ずかしいのか馬鹿馬鹿しいのか、いったいどれが今の自分の感情
なのか解らなくなってしまう。
ただそれらが決して嫌ではないのは確かで。
 「…あんなに嫌がっていたのに、なんで自分からあの姿になったんですか?」
結局のところ、なんだかんだと言いながらも、悟浄という男に自分は振り回されているだけ
なのだと改めて思いながら、ライターの火に照らされた悟浄に問い掛ける。
ん?という顔で悟浄は紅く燃える煙草を一度大きく吸い、本当にうまそうな表情でその煙を
吐きだしながら答える。
 「だってあ〜でもしないと、お前本当に帰ってただろ?」
 「…いけなかったんですか?」
指摘通り、そうするつもりだった八戒は訝しげに軽く首を傾げる。
八戒としては、悟浄が楽しく気分転換できればそれでいいと思っていただけなので、そうま
でして彼が自分を引き止めようとしたその理由が今一つ理解出来ない。
 「当たり前だろ。お前がいないのにひとり酒場なんかにいたって仕方ないじゃん。」
 「ひとりって…大勢女の方がいたじゃ…。」
煙草を銜えたまま憮然とした声で悟浄がそう言えば、八戒は解らないというように軽く眉を
しかめて尋ねる。
自分が口にした言葉で、どこか胸の奥がつきんと小さな痛みを放つが、八戒はそれが何なの
か気付かないようにあえて意識を外す。
 「……お前それ本気?」
あまりの台詞に、思わず手にした煙草をぽろりと落としそうになり、慌てて再び持ち直すと
悟浄が八戒の顔を確認するかのように覗き込む。
 「うわ、マジ天然?」
 「どういう意味ですか、それ。」
まるで心の中まで覗かれそうなその視線に居心地の悪さを感じると、悟浄は顔を上げ大げさ
にそう言いながら驚いてみせる。
そんな悟浄に対し、さすがにむっとした声で八戒が聞き返す。
 「あのなぁ、俺はお前と酒を飲みに来たかったの。お解り?」
 「ええ、だから…。」
噛んで含めるように悟浄がそう言うが、不思議そうな顔で八戒が頷く。
どうも意味が解ってない様子の八戒のそんな表情に、悟浄はその語尾をひったくるようにし
て遮るとさらに詳しく説明する。
 「だから聞けって!もっと細かく言うと酒っていうのはついでで、あくまで俺は八戒と
  ひっさ〜しぶりのデートのつもりだったの!」
 「……え?」
きょとんとした瞳が、悟浄の台詞を理解すると同時に大きく見開かれる。
 「これで理解した?」
 「デ、デートだったんですか?」
思わず口にした言葉に自分で照れたのか、八戒は口許を軽く抑えて俯く。
そんな八戒を見ながら、悟浄はわざとらしくため息と共に言う。
 「そお、デート。なのに八戒さんてば俺ひとり残してとっとと帰ろうとするんだぜ?
  なんか悟浄さんすっげ〜キズツイタってカンジ。」
 「デート…。」
デートだという悟浄の言葉に、思わず八戒はここに来るまでの出来事を反芻していた。
精神的、肉体的ダメージで半ばいじけていた悟浄の気をなんとかもり立てようと、懸命に彼
を酒場に行こうと誘ったこと。
悟浄が女性に囲まれているのが、何故か今日に限ってひどく気にかかったこと。
からまれたのを口実に、悟浄を残してひとり帰ろうと思ったこと。
自分でもよく解らなかった苛立ちや寂しさは、悟浄とのデートを邪魔されたせいだったのか
と指摘されて初めて気付く。
悟浄の事ばかり考えていて、自分の行動が端から見ればどう思われるのかという事によう
やく気付くと、何故か無性に恥ずかしくなってしまう。
かああっと熱を持った血液が顔中に広がっていくのを感じながら、八戒はより深く俯いて
そんな自分の顔を隠す。
 「………。」
ぷはぁとひとつ大きく煙を吐きだすと、悟浄は俯いたまま顔を上げようとしない八戒の横顔
にちらりと視線を向ける。
酒場の脇のうら寂しい細道でろくな照明などなかったが、それでも悟浄の夜でも視界が利く
目には、うっすらと赤くなった八戒の頬が見える。
 「どうした?ん?嬉しい?」
 「知りません!」
からかうように悟浄がわざと顔を覗き込むようにして尋ねれば、いっそう頬を赤くして八戒
はぷいとそっぽを向いてしまう。
 「可愛いやつ。」
くっくと喉の奥で笑いながら、悟浄は一本目の煙草の火を座っていた木箱に押し付け消す。
ここに入ってきた時から聞こえていた、ニャアニャアと鳴き交わすサカリのついた猫の声を
BGMに、悟浄は二本目の煙草を口に銜える。
 「しっかしまあ、いつ元に戻れるんだろうね俺。」
例の泉の管理者とやらが戻るのは、いつもだと一週間くらいだと宿の主人から確かに聞いて
はいるが、それはあくまで推測であって決定事項ではない。
下手をすればもう数日かかるかもしれないし、逆に早めに帰ってくる可能性もある。
ただ待っているだけの時間というものは結構苦痛なものだと、今となってはそれほど深刻で
はない心持ちでぼんやりと考える。
 「…そんなに戻りたいんですか?」
 「……!げほっ!」
ふいに八戒が顔を上げると、何故か不思議そうにそう尋ねてくる。
思わぬ台詞に、悟浄は吸い込みかけていた煙草の煙にむせてしまう。
 「それってどういう意味よ。俺はアヒルのままのほうがいいわけ?」
まだ喉が痛むのか、目尻にかすかに涙を浮かべて悟浄が非難するような口調で問えば、八戒
は小さく笑って首を横に振る。
 「そうじゃないです。そうじゃないけど…せっかく可愛いのにって思うし。」
 「可愛いってなぁ…。お前があの手の生き物結構好きだって事は知ってるけどさあ。」
どこか本当に惜しそうにそう言われてしまえば、悟浄はただ深いため息をつくしかない。
八戒がいわゆる小動物系を好きだという事は別にどうとも思わないのだが、その対象物の中
に自分が変化したものが入るという点において、やはりどうしても抵抗がある。
まあ、一般的に嫌悪される生き物に変化する可能性もあった状況を考えれば、アヒル程度で
すんでよかったと思えない事もないのだが。
どのみち、どう考えてもすっきり納得できる筈もない。
そんな複雑な心のうちを表情に浮かべる悟浄に、八戒はくすりと小さく笑って言う。
 「それもちょっとちがいますよ。確かに可愛いものは僕好きですけど。」
 「じゃあなに?」
ため息と煙草の煙を同時に吹きだしながら、悟浄がやや非難がましい目つきでそう尋ねる。
そんな悟浄の視線に、八戒はふわりと極上の笑みをその白皙の顔の上に浮かべた。
思わず見惚れてしまうような柔らかい微笑みを浮かべたまま、八戒は言う。
 「悟浄だから、好きなんです。」
一瞬またからかっているのかと思ったが、本当に嬉しそうに幸せそうに微笑まれてしまえば
そんな疑いなど、遥か彼方へ吹っ飛んでしまう。
 「どんな姿でも、悟浄だから僕は好きなんですよ。知りませんでした?」
 「…知りマセンでした、ホント。」
下手な愛の告白よりも、その言葉と笑みは雄弁に八戒の想いを悟浄に伝える。
今度は悟浄の方が赤くなる番だった。
悟浄はかあっと熱くなった自分の顔の下半分を思わず手で押さえてしまう。
ものすごく嬉しいと思う。嬉しいと思うから全身の血が燃えるような熱を帯びるのだ。
でもそんな熱には慣れていなくて、まるで十代の初心なガキのように顔が赤くなる。
嬉しすぎて、でもそんな言葉ひとつで顔を赤くする自分が少し情けなくて。
それでもやはり、心が舞い上がる程嬉しいのだ。
 「じゃあ、俺がカエルになってもイイの?」
ぐるぐる回る思考と共に未だひかない顔の熱さを隠すようにして、ようやく軽口でそう言い
返せば、悪戯めいた輝きに瞳をきらめかせた八戒が応える。
 「もしそうなったら…そうですね。おとぎ話のようにキスでもしてあげますよ。」
 「八戒のキスかぁ。効きそうだなそれ。」
おとぎ話に出てくる、どんな絶世の美女でもかなわないだろう目の前の恋人の、その唇に
そっと指で触れながら、悟浄はにやりと笑って言う。
 「で、聞くけど、そのキスってアヒルじゃ駄目?」
 「いつもの姿の悟浄でも僕は構いませんよ。」
暗にねだるような悟浄のその口調に八戒は小さく微笑むと、自分の唇に置かれたままのその
指先にちゅっと軽く口付けながら、弄うように恋人の顔を横目で見つめる。
 「…して欲しいですか?」
 「欲しい。」
煽るようなその視線と仕草に、素直に悟浄が返事をしながら笑みで誘う。
八戒は微笑みを浮かべて両手を伸ばすと、まるでその形を確かめるかのように額から髪の生
え際、こめかみへと指を滑らせると、頬を手のひらで愛おしそうに包み込む。
そして、指先で頬に刻まれた傷を辿りながらゆっくりと顔を近づけていく。
が、鼻先が触れそうな位置までくると、ふいに動きを止める。
悟浄が視線で問い掛けると、八戒はうっすらと赤く頬を染めてその耳元に囁く。
 「目…閉じて下さい。」
娼婦のような手つきと処女のような初々しいその表情のギャップに、悟浄は喉の奥で小さく
笑うと、言われるままに静かに両目を閉じる。
八戒は、自分の手の中の端正な顔に思わず見惚れながら、傷のついたその頬にひとつ口付け
を落とすとくすりと笑う。
 「なんか…照れますね。」
 「今更なのにな。」
二人くすりと笑って、八戒も自分の目を閉じさらに顔を近づける。
そして吐息がまさに重なろうとした瞬間…。

バシャ!

派手な音と共に二人の体に衝撃が走り、八戒の唇は勢いのまま何もない闇と合わさる。
 「うるさいよ!サカるならよそでサカりな!」
頭上でそう叫ぶどこぞのオバサンの声と、ガラガラピシャン!という少し建て付けが悪そう
な窓が閉まる音が、サラウンドで周囲に響き渡る。
全身ずぶ濡れになった二人…いや一人と一羽は、ぼう然とした表情を浮かべたまま互いの顔
を見つめるしかなかった。
今までの甘いムードも余韻もへったくれもない仕打ちに、二人無言で自分の体から滴り落ち
る水の音を聞く。
 「そういえば…さっきから鳴いてましたねぇ、猫。」
 「……。」
先に復活したのは八戒で、苦笑を浮かべながらそう現状を分析すれば、悟浄は深い深いため
息をひとつ落とす。
それでも一抹の希望にすがるように八戒を見れば、本当にすまなそうな顔つきで側に置いて
いた水筒を振る。
 「すいません、もうお湯ないんです。」
どうして今日はこうもついてないんだろうかと、がっくりと悟浄は肩を落とす。
きっとどこぞの雑誌の裏についているなにかの占いには、水難の相が出ているとでも書かれ
ているんだろうぜと、半ばヤケになって悟浄は心の中で叫ぶ。
そんな悟浄の思いとは裏腹に、何が楽しいのか八戒はくっくっと肩を震わせ笑い出した。
 「ガア。」
半ば八つ当たりめいた気分で悟浄はそんな八戒を恨めしげに睨むと、八戒はようやく笑うの
を止めると、悟浄の体にかかった水を丁寧にはじき落としながら言う。
 「濡れちゃいましたね。」
そう言いながら八戒が軽く頭を振れば、ぱさっという湿った音とともにその髪から水滴が
無数に飛んでいくのが見える。
 「今度は僕もおそろいになっちゃいました。」
そう言うと、またもくすくすと八戒がおかしそうに笑い出したが、悟浄にしてみればこんな
おそろいなど少しも嬉しくなどない。
 「だからね。」
 「ガ?」
そっと抱き上げられ、ふいに柔らかな何かが自分の唇……いやクチバシに触れた。
それが八戒の唇だと理解すると同時に、何気なく囁かれた八戒の次の台詞に思わず悟浄は
その顔を見上げる。
 「宿に戻ったら一緒にお風呂に入りましょう。」
思わぬ積極的なお誘いに全身で驚きを示せば、少し困ったような視線で八戒が小首をかしげ
て尋ねてくる。
 「…嫌ですか?」
もちろん、悟浄に異存などあろうはずもなかった。


やっと悟浄さんに幸せをあげる事が出来ました。これで一安心。(笑)
今回の悟浄、私的にちょっと格好良いジャン?と思っているんですが
いかがなもんでしょう?まだだめ?埋め合わせにならない?

ちなみにうちの八戒さんは「可愛いもの」好きなんです。ええもう。
でもやっぱり八戒じゃなくても、悟浄アヒルはすっごく可愛いと思い
ますよねっ!というのはいぢめる言い訳にはならないでしょうか?

さて、次回は今度こそ三蔵VS八戒の冷戦勃発になるんではないかと。
なんか楽しみにしてる人がちらほらいるみたいだけど…マジ?(汗)


【第8話】  【第10話】

悟浄1/2