文・ケイ様
「お前って、猫だよな」 しみじみと嬉しそうな悟浄の声に、読みかけの本から八戒は顔を上げた。 日溜りのように穏やかな笑顔の裏で、ぐさりときつい毒を吐く美人の同居人に対する己の例えがツボに入り、 悟浄は唇に大きく笑みを刻んだ。 八戒はソファに腰かけ小首を傾げている。暗褐色の髪が、カーテン越しに室内に入り込む日差しを反射して、 綺麗な天使の輪を八戒の頭上に出現させていた。 一見さらさらのストレートのように見えて一本一本違う向きに微妙に跳ねた癖がある柔らかな髪の手触りや、 悟浄が触れるとうっとりと目を細めて微笑む様や、そのくせ他人の手は愛想の良い笑顔で容赦なく拒絶する ところや、細くてしなやかな肢体も美しい容貌も、八戒から想像する生き物は悟浄にとっては猫にしかなら ない。縁側でのんびりと丸まって寝ている可愛らしい家猫の時もあれば、捕獲しようとする相手を殺そうと する野性の山猫の時もある、綺麗で我儘で情熱的な八戒。 その、大人しやかな美貌や温かな微笑からは判別のつかないきつい性格も、時々呆れ果てるほどに本気で ボケているところも、やはり猫のようで悟浄には可愛く思えてしまう。 同年代の同性に対し可愛いなどと思う日がくるとは、悟浄はこれっぽっちも考えた事はなかったが、それで も、この、複雑怪奇な中身を笑顔のオブラートで包み隠してしまう困った恋人が、悟浄は愛しいのだ。 ニヤニヤと満悦の笑みを浮かべ、悟浄は煙草に火をつけた。 慣れた味の煙を灰まで回し、ゆっくりと細く悟浄は紫煙を吐き出した。 他愛無く穏やかで、ただ時間がすぎるのをぼんやりと感じる事を許せる、静かな午後。 小さな赤を灯す煙草の先と、悟浄の肉厚の唇から生まれる白い煙の移動する様が、揺るぎなく止まらない 時間と空気の流れを目に見える形で表している。 こんなふうに何もしない時間に焦りも空虚さも感じないのは、多分、一人ではなく、相手が ―― 悟浄にと っては八戒で、八戒にとっては悟浄が傍らにいるからだ。 カチ、コチ、と、時計が規則正しい時を前へと刻む音がしていた。 柔らかな陽光が、室内を明るく温めていた。 なんだか訳の判らないことを言ったあげくに、一人したり顔で笑う悟浄に、八戒は片方の眉を器用に持ち 上げた。 己が猫だと言うのなら ―― もちろん、八戒は自分の事を猫だとは思わないが ―― 、大きな図体で子供じみた 部分がある悟浄は犬だと八戒は思う。 背が高く身体も大きく毛が長い犬種――アフガンハウンドを八戒は想像し、それから、あんなに上品な犬で はないだろうと内心で肩を竦める。 「どうして僕が猫なんですか?」 「どう見ても猫じゃん」 「どちらかというと、猫は三蔵だと思うんですが…」 「タレ目なのに?」 「…雰囲気の問題ですよ。目を言うのなら、僕だって、猫みたいに吊り上がって杏仁型の目ってわけじゃない でしょう?」 「でも、お前、猫みたいに可愛いじゃん」 真っ直ぐに目を見て真顔で告げる悟浄に、八戒の口元が微妙に引きつった。 どうして同性の、それも180を越した大男の己に対し、悟浄がこんなに素で『可愛い』などとほざけるのか 八戒にはどうしても判らない。 微塵の照れもない悟浄のそんな様子が逆に恥かしくて ―― けっして可愛いと言われたからではないと八戒は 自分に言い聞かせた ―― 、八戒の白い面にじわりと血の色が浮かんだ。 困ったような呆れたような顔でほんのりと頬を赤らめる八戒に、何を都合良く判断したのかニヤリと悟浄が 笑った。咥え煙草を左手に移し、トンと一度、悟浄は灰を灰皿に落とす。 右手の肘をテーブルに付くと掌に顎を乗せ、八戒がとても好きな悪戯っ子の表情を悟浄はした。 悟浄の背中でパタパタと振られる長い尻尾とぴくぴく動く耳が、八戒には目に見えるような気がした。 誉めて、と、言っている犬のようだ。 それとも、ご褒美かご飯を前にした犬だろうか。 「普通はですね、男に可愛いなんて言わないものです。誉め言葉じゃないでしょう?」 「なーんで。だってお前、本当に可愛くて美人だぜ。時々めっちゃムカつくけど、そんでも美人で可愛い」 「……悟浄…」 「本当にそうなんだから仕方ねーじゃん」 露骨に呆れた顔を八戒がすれば、悟浄の口端がへの字に下がった。 お互いの認識に歩み寄れる場所は見つからないだろうと、八戒は嘆息する。悟浄の頬が少々不機嫌に歪んだ。 「なんだよ」 「………あなた、そんなベタなこと言って、恥かしくないんですか?」 「全然」 「…そーゆー人ですね……」 そんなところも犬みたいだと八戒は思った。 大きくて、強くて、仲間を守る気持ちが強くて、敵には容赦がない ―― そのくせ、どこか甘く優しい犬。 そんな悟浄が嫌いではないから ―― ムカツクことに好きだから、八戒は自分が情けなくなってくる。 バカな子ほど可愛いとは、こういうことなのだろうか。 バカは大嫌いだったはずなのに、相手が悟浄だと言うだけで事情が変わってしまう己に、なんだか八戒は腹立 たしさすら覚え始めた。 「だってお前さ、大人しそうでぼんやりして見えて、でも、実はめっちゃ気が強いし我儘だし、気紛れだし、 綺麗だし可愛いし、ぐりぐりしたくなるし、これってやっぱ猫だろ?」 「最後の、“ぐりぐりしたくなる”ってなんですそれ」 「んー? ―― …こーゆーの」 左手に持ったままだった煙草を色っぽい唇に挟んで深く吸い込むと、悟浄はまだ長いそれを灰皿に押し付けて 消した。そして、ゆっくりと立ち上がり、大型の狩猟犬のように無駄のない動きでテーブルを回って八戒の前 に立った。 「?」 見上げる八戒の翡翠の眸を見下ろし、悟浄は両手を上げるとワキワキと指を動かした。 何かよろしくないことをやりそうな悟浄の様子に、八戒は逃げ場を探す。 だが、ソファに座る八戒の真ん前を陣取る悟浄自身が邪魔で逃げられない。 顎を引き、ソファの背凭れに身体を押し付けるようにして、八戒は少しでも悟浄と距離を取ろうとする。 「八戒、体逃げてるけど、なんで?」 「…あなたが何かしようとしてるからですよ」 「ふ〜ん、ま、気にすんな」 「気にしますっ…つっ、ちょっ、悟浄っ、やめて下さいっ」 突然、悟浄の両手が八戒の髪に差し込まれた。そして、長い指で八戒の髪をぐしゃぐしゃにする。 「なんだよ、お前が、“ぐりぐりしたくなる”ってなんだって聞くから…っとこらっ、逃げんなよっ」 「逃げるに決まってるでしょう、も、悟浄っ、ご、じょうっ!」 「うわ、何すんだっ?この…っ」 悟浄の手首を掴み八戒は頭から引き剥がそうとしたが、単純な腕力では悟浄の方が断然上だ。 引き剥がせないと判断した八戒は、すぐに掴んだ手首に爪を立てようとした。 察した悟浄は八戒の髪から手を離し、逆に八戒の手首を掴んで下ろすと、座る八戒の上にのしかかった。 「!うっ…重…でぶっ…」 「言いやがったなこのやろ、潰してやるっ」 怖い顔で怒鳴って、悟浄は八戒をソファにうつ伏せに押し倒した。 そして、八戒の薄い背中の上に全体重を掛けて悟浄は乗っかった。 八戒が読んでいた本が、ばさりと床に落ちた。 「お前がぐりぐりってなにか聞いたンだろーがぁっ」 「やってくれなんて、言ってませんっ。退いてください!」 「やだ ―― さーって、と♪」 「ご…待って、悟浄っ」 大喜びでわき腹や腰をくすぐり出した悟浄に、じたばたと八戒は暴れた。 まるで犬と猫が乱暴にじゃれあっているかのようだった。 足をばたつかせ、八戒は背に乗る悟浄の尻や腰を踵で蹴ろうとする。 悟浄はタイミングを見計らい器用に避けたりくすぐる場所を変えたりして、八戒の体力を奪っていった。 しばらくずっとくすぐられ続け、抵抗して暴れたり笑ったりした八戒は、そのうちに涙目で息も絶え絶えに なってしまった。悟浄に背中に乗られたまま、ぱったりと八戒はソファに突っ伏した。 「…ご、じょう……ひどい……」 「お前、本当にくすぐったがりだよなぁ。面白ぇ〜」 「…っひゃっ…!」 耳の裏から首筋を、つーっと悟浄の指が撫ですべる。思いきり肩をすくめ、八戒は体を縮こまらせた。 背中に乗る悟浄を首をひねって振り返り、生理的反応で潤んだ瞳で八戒はきつく睨みつける。 悟浄はまったく悪びれずにニシャリと笑い、八戒に見せ付けるようにむにむにと妙に厭らしく両手の指を 動かしてみせた。 「……これ以上の事、したら、僕、本当に怒りますからね…」 掠れ声で一言一言ゆっくりと宣告するように八戒は音を紡いだ。 悟浄はきょとりと瞬きした後、おやと表情を改めた。 八戒の上に覆い被さったまま、じっと様子を窺っている。 「…これ以上の事って…?」 「あなたがしようと考えてること全部ですよ」 八戒が答えると、悟浄は一瞬視線を天井に飛ばし考える素振りを見せた。 角度の変わった日差しが、悟浄の端整な横顔に明るい影を作る。 「このままもう1ラウンドとか、さすがにここでそれはきついかもしんねーからベッド行こうかなぁとか、 そーゆーの?」 「……あなた本当にバカでしょう…」 「お前、マジ失礼だな」 「誰のせいで、僕が、失礼な態度を取らざるを得ないと、思ってるんです…? ―― あぁ、もう、気持ち良い 午後だと思ってたのに……」 「だからもっと気持ち良くなれる事を…」 「寝言は寝てから言って下さい。ほら悟浄、退いて」 「っわっ!」 油断していたのか、かなり簡単に悟浄は床に落っこちた。 八戒は気だるげに身を起こし、ソファの背凭れに上半身を預けた。 「まったくもう……どうして猫の話からこんなことになるのやら…」 ぶつぶつ言う八戒を、床に座り込んだ悟浄は顔をしかめて見ている。 八戒は視線で叱るように悟浄を見つめ返した。無言でただじっと八戒が見つめ続けると、だんだんと悟浄の顔 が下を向き、視線が上目遣いになった。 その様が、耳と尻尾を垂らし拗ねつつもご主人様のご機嫌を窺うわんこのように見えて、そんなふうに見える 自分の目の腐り具合が八戒は悲しくなってきた。 悟浄をバカだと言えないと、八戒は胸中で溜め息をつく。 「悟浄」 ぽんぽん、と、八戒は己が座るソファの横を叩いて示した。悟浄が不思議そうに顔を上げた。 八戒は仕方なく苦笑してみせる。 「悟浄、ここに座って下さい」 「…?」 何かされるのではないかと警戒しながらも、悟浄は大人しく八戒の言葉に従った。 少し間を空けて八戒の隣に座る。ぱたりと八戒は悟浄の膝の上に頭を倒して横になった。 「……八戒さん?」 悟浄の膝の上からその紅玉の瞳を見上げ、八戒はうっすらと苦笑する。 腕を伸ばし、悟浄の長い髪の一房を八戒は掴んだ。 「僕、疲れたんで寝ます」 「…ここで?」 「えぇ、ここで」 「俺、動けなくなっちゃうんですけど?」 「動かなくていいんですよ。じゃ、お休みなさい」 悟浄が言い返せない綺麗な顔で笑って、八戒は体勢を整えると静かに瞳を閉じた。 猫は、その時その場で一番気持ち良く過ごせる場所を本能で知っていると言うが、八戒はまさに自分がもっと も気持ち良く寛いでいられる場所を選んだだけなのだ。 他のどこでもなく、我儘で甘ったれでだらしなくて優しい大きな犬のような悟浄の傍らが、八戒にとっては一 番気持ちのよい場所なのである。 「…ったく、どーやっても猫じゃん…」 「僕が猫ならあなたは犬です」 片目だけ開けて、悪戯な表情で八戒は悟浄を眺める。 悟浄はわざとらしすぎるほど大きく嘆息すると、八戒の小さな顔を覆うように掌を翳した。部屋の明かりか ら、悟浄は八戒の顔の上に自分の掌で影を作った。 甘え上手で甘やかし上手な悟浄は、そうやって八戒の我儘を受け入れてくれる。 どれだけ文句を言っても、苦情を申し立てて怒っても、それでも優しい悟浄に、八戒は白い瞼を閉ざしながら 見惚れるほど美しい笑みを浮かべた。 たった一匹の野良犬と、捨て猫のように、寂しさや悲しさを笑い飛ばし、喧嘩をして、じゃれて、ぬくもりを 分け合って、小さな家に光を灯そう。 その傍らが、何よりもどこよりも気持ちのいい、優しい場所になる ―― そのぬくもりの傍らであるのなら。 『最適な場所』 |
《ケイさまからのコメント》 お名前変更記念!で、いつもお世話になっている結花様に、 何かお祝いになったらいいなぁと思ったのですが…… 新サイト名に関するような内容にしようと努力したつもりで、 思い切り勘違いした結果になりました(爆) かなり外しておりますので、 お祝いになってない事を先にお詫びします。 外しただなんて、とんでもないです!もう感激の涙で前が見えません! いいですよね、はっきり面と向かって「バカ」と言える猫な八戒さんと 愛情はストレートに体で表現!な犬の悟浄のじゃれあい。うっとり…。 本当にありがとうございました!ヽ(^。^)ノ |