悟浄と一つ屋根の下で暮らすようになった相手は雨が苦手だった。 叩きつけるような土砂降りのなか拾ったその人。 『悟能』から『八戒』という名に変わったその人の詳しい過去は未だに知らないけれ ど、それでも彼にとって−雨の夜−はひどく耐え切れないものなのだということだけ ははっきりとわかる。 微笑みを浮かべたまま八戒は静かに狂っていく。 少しずつ。 少しずつ。 逃れられずに絡め捕られて。 否、正しくは“逃れようともせずに”だ。 そうして、隔てられた世界の向う側には生ける屍ができあがってしまう。 こうなると悟浄にはどうしようもなくなる。 いくら声をかけようとその翡翠に彼の姿は映し出されてなどいないのだから。 「八戒」 呼んでも。 「八戒」 「……」 いつだって返事はなく。 「八戒......」 ただ突きつけられる。 己の無力さを。 二人の間にある距離の遠さを。 だからといって、何がどうというわけでもないのに。 泣きたくなる。 小さなため息をつくと、そんな思考を変えるように自身の髪を掻き揚げた。 伸ばしかけのせいで一つにまとめるには少し中途半端な長さのそれが骨張った指の 隙間から零れ落ちてゆく。 血のような色。 禁忌の。 戒めの。 ―――――紅――――― 不意に何かが閃き。 「あ…」 納得する。 なぜこんなにも八戒に拘るのか。 雨の夜毎に何時間もこうやって目の前に座っている必要などない。 厄介だというのなら素知らぬフリで放っておけばいい。 実際、彼と出逢うまではそうやって生きてきたのだ。 誰とも視線を合わせず。 誰にも深入りせず。 適当にその場限りの関係を結びながら。 たとえどれほどの血が流されようと、どこで死のうと、他人のことなんてどうでも よいことだった。 それは今この瞬間も同じ。 狂いたい奴は勝手に狂わせてしまえばいい。 ちゃんとわかってる。 わかっている。 けれども、そうしないのは。 多分。 見て欲しいのだ。 初めて出逢ったときにこちらを見上げた、射抜くにも似たあの眼差しで。 媚や虚飾に塗れたソレではない。 『殺して』と。 剥き出しの感情のままに真っ直ぐこの紅を見据えた鋭い瞳でもう一度自分を見て欲しい。 思い出すだけでもゾクゾクしてくる。 そう。 きっとそれはどんな情熱的なキスよりも煽られる。 だから―――。 どうか 映してください 俺を その翠に やがて、生きた人形の冷たい頬に腕を伸ばし引き寄せると、悟浄は掠めるように 奪った唇から距離をなくしていくことにした。 *END* |