後 編







暗い廊下を通り、大きな扉の前に立つ。中指の背で一度だけコツンと扉を叩いた後、即座に
戸に手をかけて引き開けた。
「天蓬」
間延びした呼びかけに返答は無い。積み上げられた書物越しに向こうを見ると、薄暗がりの
中にぼんやりとした灯りが見えた。
「入るぜ」
背を丸めた男が、薄暗い灯りをたよりに、一心に書物を繙いている。
煙草をくわえ、椅子にもたれて無言で文字を眼で追う男の横顔は、どことなく疲れて見えた。
読書中の天蓬に話しかける行為は、植木や盆栽に話しかけることと同義であろう。
一度本に向けられた視線は容易には動かない。
本の山にもたれ、暫しじっとその横顔を観察する。
強靱な身体を持つ荒くれ男達を束ねて率いている軍人とはとうてい信じることのできない、
線の細い身体。白衣の袖から覗く手首は、冗談で二つ折りにしてみれば、乾いた音をたてて
折れるのではないかとすら思う。
今度、意地でも食事を摂らせてやろうと、捲簾は胸の中で決意した。
睡眠時間もでたらめならば、食事時間も無茶苦茶な天蓬は、世話の焼き甲斐が無い。
以前は下界のインスタントラーメンに凝り、ラーメンばかり食べさせられて辟易としたこと
もあったが、此処最近は特に、出されなければ食事を摂る習慣すら忘れてしまっている。
部下達と酒を酌み交わすことも多かった彼と、最後に共に酒を飲んだのは、一体、何時の事
だったか。

突如、暗い不安に襲われる。胸の中に一陣の砂混じりの風が吹き抜け、眼前に居る筈の男の
姿を見失いそうな気分に顔をしかめた。




何故、そんなに急ぐ。




永遠に続く明日に、読書をすればいい。
寝る時間を惜しみ、酒も食事も忘れて、そんなに疲れた顔をして、何をそこまで急がねばな
らないのか。
思わずのびた手を留める術はなかった。

ざらざらと本や巻物が崩れ落ちた音にはっと顔をあげた天蓬の眼鏡が、薄暗い灯を反射して
ゆらりと光る。
「捲簾?」
驚きに眼を見開いた男の肩を無言で鷲掴みにした。掌に骨が当たる程、肉付きの薄い身体は
無防備に後ろへと倒れそうになる。
その背を胸で支え、背後から手を伸ばし、尖る顎に差し入れた。
力任せに傾けた顔に覆い被さるようにして、その唇に唇を寄せる。

その途端、ばあんと激しい音がして、視界が真っ暗になった。

「・・・・ってぇ!」
顔面を分厚い本で殴り飛ばされていた。頬を押さえ呻き声をあげると、涼しい顔で悠々と椅
子にふんぞり返っている天蓬が歪んだ視界の中に映っている。
「どーして、お前、キスしたくねーのよ!」
床に落ちた重い本を拾い上げながら、天蓬は顔色一つ変えず、ちらりと上を見上げた。
「貴方はどーして、キスしたいんですか?」
悠然と聞き返す天蓬は、軋む椅子に腰掛けて、眼鏡を服の袖で拭った。
「どーしてって・・・・」


「そうだ。この報告書、上に出しといてもらえません?」
いつもの飄々とした口調で天蓬は告げると、机の上から一枚の用紙を取り出して、鼻先にぶ
ら下げる。無言で報告書を受け取ると、くるりと丸めてポケットに突っ込んだ。
「ところで、何の用だったんです?」
思い出したように天蓬は口を開く、振り返り、白衣の男の姿を見やると、既にその両手には
先刻から読みふけっていた本が広げられ、その視線は紙の上に向けられている。
「・・・別に」
丸めた報告書をポケットに突っ込むと、中に有る固い表紙の本に触れた。
見つからないようにポケットの奥底に本を押し込んで、かぶりを降る。
「なんでもね」





◇◆





「未だ、居るのか」
梛(なぎ)の若木の根本に座り込み、うつらうつらと居眠りをしている男を数人の男達が取
り囲んだ。神木といわれている梛の若木は、青々とした葉を広げて真っ直ぐに天を仰いでい
る。しなやかな幹にもたれかかり地面に座る男は、ぼろぼろの僧衣を纏い、埃だらけの短い
黒髪に破れた傘を乗せて、輪の形をした長い錫杖を肩にかけた恰好で眠り込んでいる。
「おい、クソ坊主、起きやがれ。・・・・何度も言わせるんじゃねぇ・・・・失せろ」
男の一人が爪先で、地面に座りこむ小汚い僧の身体を小突く。
その乱暴な衝撃に、寝ていた男の静かな寝息がとまった。
埃だらけの黒髪が動き、伏せていた顔がのそりと腕の間から現れる。
鋭い、切れ長の瞳。
「・・・おう、本気でその木に惚れちまってるてめぇには悪いけどな。もう、俺達も限界なん
だよ。てめぇの恋人は、今日限りで薪にさせてもらうぜ。」
何も言わずに、じっと目の前に居並ぶ男達を睨み付ける僧の顔が、うっすらと歪む。
「もう一度だけ言う。この山の木は一本残らず切り倒なきゃなんねぇんだ。この山の持ち主
とも、もうとっくに話は付いてる。今日は腕ずくでもおめぇを此処から追い払うぜ。
・・・痛い眼に遭いたくなきゃ、とっとと此処から出ていきな」
熊のような体躯の男が、手を組み、指をばきりと鳴らしながら、独特の訛で喋る。
微動だにせずに、眼だけで男達を睨み付ける僧の汚れた僧衣が、緩い風にたなびいた。
「いいかげんにしろ」
「何ぃ?」
初めて口を開いた僧の低い声に、男達は身構える。
「・・・・少ぉし・・・・・想い出せたってのに。・・・・・貴様達のマヌケ面見てたら、忘れちまった
ぜ・・・・!眼ぇ開けたら、もう、名前も、顔も・・・・覚えていやしねぇ・・・・」
ぶつぶつと独り言を呟く僧の汚れた顔を、男達は不気味な怪物でも見るかのように眺め回す。
僧は顔をあげ、憎々しげに地面に唾を吐き捨てた。肩に担いでいた錫杖が、じゃらりと音を
たてる。
「と、とにかく、今日はてめぇの横に有る木、切ってやるからな。・・・・力づくでも!」
男の声が終わらぬうちに、僧の肩にかかっていた錫杖が空を切った。激しい勢いで足元を払
われ、なぎ倒された男達は、逆上し、叫び声をあげた。
「畜生!もう、手加減してやらねぇからな・・・・・退けぇっ!」
一斉に飛びかかった男達の眼前に居た僧は、突然、宙に飛び上がった。
人間離れした脚力で男達の頭を越えた僧侶は、短い黒髪の頭をひと振りすると、手にした錫
杖を打ち下ろす。激しい音がして、荒くれ男が一人、腹を押さえて地面に芋虫の如く這い回
った。
錫杖を振り回す僧侶の周囲に、一人、また一人と男達が倒れていく。
圧倒的な怪力を見せつけられ、残された男達は、じりじりと後ずさりする。
「今だ、その木、切り倒しちまえ!」
その声に、はっと僧は振り返った。その隙を見逃さなかったもう一人が、激しい声をあげて
無精髭の生えた僧の顔面目がけて枝を伐採する時に使用する柄の長い斧を振りかざし、襲い
かかる。
体をかわせず地面に倒れた僧のすぐ横の地面に、斧は突き刺さる。眼を見開いた僧侶の頬が
切れ、紅の血が滲み出してきた。
間髪入れず、その肩先に剣が打ち下ろされる。間一髪身をかわした僧の右肩の僧衣はすっぱ
りと千切れ、肩から血が噴き出す。激しい痛みに僧の鋭い瞳が歪んだ。
「ち・・・くしょ・・・・」
血で染まる頬を拭いもせずに、僧は素早く身を起こす。
地面に突き刺さった斧を掴み、勢い良く引き上げた。
しなやかで瑞々しい梛の若木の根本を、斧の刃先が傷つけていた。
断ち切られた木の根を見た僧の顔色が、怒りで真っ赤になる。
「畜生!」
狂ったように斧を振りかざし、飛びかかる僧の姿に、怖れをなした男が後ずさりした。
ぶん、と振り回す斧が空を切り、その風圧で男の衣服の裾がぶわりと持ち上がった。
「失せろ!」
叩き付けた斧は岩を砕き、地面にめり込んだ。
恐ろしい程の破壊力を持つ怪僧の力を見た男達の顔色が真っ青になる。
「・・・・覚えてろよ・・・何があっても、お前を此処から追い出してやる!」
捨て台詞を吐きながら、男達は地面に転がり呻き声をあげる仲間達を肩に担ぎ上げ、足を引
きずりながら退散していった。



血塗れの斧を足元に投げ出し、僧はがっくりと頭を垂れた。
そのまま大の字になって地面にひっくりかえった僧は、息をはずませながら目の前にある梛
の若木を見上げた。
青々とした葉を広げた若木は、今はまだ僧侶と同じ背丈くらいしかない。
枝の一つ一つは細く滑らかで、すっきりとした形の葉は太陽の光をうけて目映く輝く。
「お坊さま」
ぼんやりとしていた僧の耳に、小さな声が聞こえた。
ふと視線を横へと向けると、小さな女の子が籐の籠を抱えて、地面にしゃがみこみ、僧侶を
見下ろしている。
「お怪我、痛いでしょう」
「・・・お前、麓の村の子?」
「うん。丁度、お坊さまが居る場所を下っていくと、一番山に近い所にあるのが、私の家」
起きあがった僧を見上げて少女は頷く。
僧はゆっくりと腕を回し、肩を押さえて眉を寄せた。
服を切り裂いた刃が、肉厚の肩をも傷つけている。
「痛い?今、手当してあげるからね」
少女は手早く、用意していた竹の筒を取り出し、中の液体を傷口にかけようとした。
「ちょっとまった」
「え?」
僧は少女の持つ竹の筒を指さして、にやりと笑う。
「それ、何?」
「お酒。母さんが、切り傷にかけてから、布で縛れって。」
「もったいねぇ〜。それ、かけるくらいなら、俺に頂戴?」
きょとんとした少女の手から酒の入った竹筒を押し頂くようにして、僧はその口に唇をつけ
ぐびりと中の酒を飲んだ。
「・・・美味ぇ・・・」
ぎすぎすとした、鋭い光を帯びる僧の瞳が、緩やかに細まる。
無精髭に汚れてはいるものの、その顔立ちは精悍で、身なりから受ける印象よりずっと若々
しく見える。少女はにっこりと笑いながら、酒を飲む怪僧を見守っていた。
「ねえ、どうして、お坊さまは、此処にずっと座ってるの?夜も昼も、こんな所に居て、
退屈じゃない?」
「ははっ、違いねぇや。本当に此処は退屈さ。だからたまに、ああやって恐いおじちゃん
たちが遊びにきてくれると、とっても楽しいねー」
心から楽しそうに、僧は笑う。
再びきょとんとした少女に、僧は人差し指を己の唇に押し当てて、しぃっと囁きながら笑う。
「誰にも言っちゃダメだぞ。約束な。・・・俺は、この木に呼ばれたから、此処にきたんだ」
「木に?」
少女はぽかんとして木を見上げる。碧の葉を風に揺らして立ち尽くす木はごく普通の細い若
木で、言葉を喋る様子は見られない。
「木が、お坊さまを?」
「ああ。ま、はっきりした言葉があるわけじゃないんだけどな。・・・・・呼ばれてたのよ、俺。
幼い頃からずっと、誰かに呼ばれてたんだ。・・・・誰が呼んでるのか気になって気になって
気がつけば、修行僧として全国を行脚して」
「あんぎゃ?」
「ま、平たくいえば旅してたってわけだ。・・・・・そしてこの山の麓の、お嬢ちゃんの家が
ある村にたどり着いたってわけ。」
僧は陽気に喋り続ける。自分の理解の範疇を軽々と越えた僧の話に、眼を丸くして少女は
聞き入る。
「と、いうことで、感動の巡り会いをする予定だったんだけど。いざ声の主を見つけたら、
この木だったのさ。どうして俺をこいつが呼んでいるのか、俺はどうしてこいつに遭いた
かったのか、全然わからねぇ。」
僧侶は若木の梢を懐かしい瞳で見上げながら、艶やかな低い声で続ける。
「でも、こいつと初めて遭った時、雨の中で濡れてるこの碧の葉を見たとき・・・会えたぜ、
と思ったのは確かだ。・・・・・無性に、嬉しかった。」
ゆっくりと、僧はその身体を木の幹にもたせかけた。鋭い表情は消え、まるで子供のような
無邪気な微笑みがその汚れた顔に浮かぶ。
木から声でも聞こえるかのようにその幹に耳をつけて、僧は笑った。
「それから・・・・何か、想い出せるかと思って、ずっとこいつの側に居るってわけさ」
わかんなぁい・・・と申し訳なさそうに呟く少女の頭を、ぽんと大きな手が包み込む。
「分かるわけねぇって。気にすんな。それより」
「ん?」
「この村は時々豪雨が来るよな。・・・・気をつけろ。馬鹿達がこの山の斜面に有る木という
木を切り倒しやがった。・・・・・・木が無くなった山の斜面程危ない所は無いんだ。緩んだ地
面が山を下りてきて、村を覆ってしまう。そうなる前に、なんとかしろ。・・・そう、大人
達に言ってみるんだ」
「?」
「・・・・難しかったか。」
「ごめん」
「謝ること無いって。馬鹿なのは大人達だ。・・・全部、切り倒しやがって。」
一瞬、険しい表情になった僧侶は、少女の怯えた視線にふと眼をとめて、慌ててにっこりと
笑ってみせる。
「大丈夫だ。ありがとう、さあ、日が暮れる前に家に帰れよ」





◇◆





「釣れませんねー」
「お前に言われると、どうしてこんなに腹立つんだろ・・・・」
ひしゃげた笑いを返しながら、空っぽの魚籠を覗き込む。
何度覗いても、中には小魚一匹入っていない。
その姿を見やりながら、天蓬は悠々と岩陰にもたれて本のページをめくっている。
「水面を挟んだ見えない敵とのバトルって、顎が欠伸で砕けてしまいそうな程、
暇そうですねぇ」
笑顔で毒舌を吐く天蓬の長い黒髪がさらりと肩先で揺れる。
砂混じりの風に髪を好きに遊ばせる男の顔はどことなくくすみ、血色が悪い。
「たまには、僕にも釣らせてくださいよ」
「え?」
かまわねぇけど?と呟くと、天蓬は本を片手に側へと岩を飛び越えながらやってくる。
便所下駄が岩に当たり、からころと軽妙な音をたてた。
「渓流釣りってなぁ、ちょっとテクニックが要るんだぜ?」
そうですか。とろくに説明を聞くつもりも無く、天蓬は気軽に釣り竿を握りしめる。
頭上に竿をかかげ、器用にしならせて糸をせせらぎの中に放り込む。
「やってみりゃ、どんなに難しいかわかるって」
言いかけた途端の出来事だった。放り込んだ糸が、急激に川の中へと引きずり込まれる。
驚いた天蓬は、手から転げ落ちそうになった竿を慌てて握り直した。
「・・・・・来たッ!?」
激しい力に、竿の先がぐいとしなり、川面へと近付いていく。慌てて立ち上がり、天蓬の
持つ竿に手を添えると、素早く肘が押し返してきた。
「僕の獲物ですよ」
眼鏡の奥の涼しげな瞳は、穏やかな微笑みと、あからさまな好奇心に輝いている。
「無理だって、引き上げるのにはコツがあるんだよ!」
「邪魔ですっ!退いてください!」
狭い岩の上で、もみ合うようにして一つの竿に縋り付く。その間にも糸は川面を動き回り、
ぐいぐいと激しい力で引っ張ってくる。
「あ!」
がくん、と天蓬の身体が崩れた。素足にひっかけていた便所下駄が、音をたてて川へと飛び
込んでいく。ぐらりと揺らぐ痩身を大慌てで支えたが、時既に遅かった。
ばっしゃんと派手な音と共に、透明な水飛沫が二人を濡らす。白い泡がそこここに立ちのぼ
り、透明な水が砂の色に濁っていく。その中に転げ落ちた二人の男は、げほげほと咽せなが
ら川の中からぐしょぬれの顔をあげた。

「・・・・・・あー、俺の竿・・・・」
流れは速い。振り返った時には、竿は下流へと逃げ去っていった後であった。
「・・・・特注だったのに」
ざばりと、川の中に両手をついて、がっくりと肩を落とす。
濡れた黒髪をかき上げながら、天蓬は濡れた眼鏡を外している。ぐっしょりになった白衣は
ぴたりと身体に貼り付き、重く垂れ下がっていた。
「貴方が、余計な事するからでしょう?」
「あーあー、悪うございました」
半ばヤケ気味に、言葉を返す。
ぼとぼとと髪から雫を垂らす天蓬は、ふと、眼鏡をかけながら上を見上げた。
先刻まで青く晴れ渡っていた空が、鈍い雲に覆われている。
「あれ」
しなやかな手を宙に差し伸べて、天蓬は上を見続ける。つられて上を覗くと、木立の隙間か
ら、ぽたりぽたりと、水滴が落ちてくるのがわかった。
「雨・・・・」
「まさに、泣きっ面に蜂?」
びしょぬれの身体に降り注ぐ雨の滴に嘆くと、上を見上げていた天蓬が、くるりと向き直っ
て、川岸へと歩き始めた。
「僕は雨が好きですけど。」
「ほー」
生返事をしながら、同時に岸を目指す。
下駄を流してしまった天蓬は、残った片方の下駄を手の指先でひっかけて持ち上げながら、
水を跳ね返して川の中をのろのろと進む。
「下界に興味を持ったのが、貴方ほど早く無かったですからね。
雨に打たれる経験が少ないですから」
雨に全身を晒しながら、無邪気に曇天を見上げて笑った。
「下界の木はいいですね、雨を一杯に浴びられて」





   たとえ絶望の涙の雨が
   此の頬を濡らそうとも

   我が命は永久(とこしえ)に碧の葉を広げる
   一本の常緑樹となりて





ふと、頭の中に、天蓬が冗談半分で読み上げた戯曲の一節が蘇る。ポケットを手で押さえ、
固い本の表紙の感触を確かめる。
「天蓬」
「なんですか?」
「勝手にお前から借りてたあのくだらねぇ物語、読んでさ」





お前がくだらねーって言ってたあの台詞見て、
可笑しくて、苦しくて、情けないくらいに泣けてきたって言ったら、お前、





言葉を紡ぎだそうとした途端、小さな声と共に、目の前の細い身体がぐらりとよろめいた。
躓きかけた身体を、慌てて背後から抱き抱える。
足を滑らせた天蓬は、決まり悪そうに苦笑いをしながら、手を胸に押し当ててその身を離そ
うと藻掻いた。
濡れた黒髪が揺れて、その毛先から滴り落ちる水滴がシャツへと染み込んでいく。
「・・・・・・なぁ。」
「え」
「ちゃんと、寝てる?」
濡れた眼鏡の奥の瞳が、ついと動く。
流れる川の水に眼をやる天蓬の薄い唇が、ゆっくりと微笑む。
「そりゃあ、貴方よりは」
いかに己が睡眠をとらずに書物を読んでいたかを自慢するのが彼であった。
猫背になりがちな美しい容姿を持つ変わり者のこの男に付きまとう不安定な空気の存在に、
雨が降り注ぐ空の如く心が曇っていく。
「で、本が、どうかしました?」
絡みついた腕からするりと離れ、すたすたと川岸へと歩いていく天蓬の背中に、低く呟いた。
「なんだっけ。・・・・忘れた。」


恋人達の無惨な死で締めくくられる、見え透いた戯曲の話を口にするのが、何故か躊躇われた。





◇◆





ふと、眼を開ける。
周囲は薄暗く、一瞬、夜になっているのだと錯覚しそうになった。
身体にも頭にも、肩に立てかけた錫杖にも、激しい雨粒が叩き付けている。
山間の村に時折訪れる、激しい豪雨。
雨宿りをするには大きさも数も足りない枝葉を広げた若木が、風にその梢を靡かせている。
上を見上げながら、旅の修行僧は、よくもこんな状況で夢を見ながら寝ていたものだと、
己自身に呆れていた。
「何の、夢だっけ」
思い出そうとしても、全ては霧がかかったようにぼんやりと霞んでいて、何も想い出せない。
濡れた頭を掻き上げながら、僧侶はついと剥き出しの山肌を見渡した。
「・・今・・・・・音が・・・・・?」
呟きが終わらぬうちに、少し離れた斜面から、異様な音が聞こえてきた。

仰ぎ見た時には、もう遅かった。

全ての木々を伐採してしまった裸の斜面から、赤土や大きな岩が、ずるずると崩れ落ちていく。
巨大な岩が支えを失った地面を激しい音をたてて転がり落ち、大量の土砂が斜面を下っていく。
程なく、めきめきと言う嫌な音が響き、眼下に広がる村の家が、流れてきた土砂に埋まって
壊れていくのが見えた。
「ヤバいぜ」
僧は立ち上がり、拳を握りしめる。今流れ落ちた土砂は、山肌のごく一部を削り取っただけ
に過ぎない。眼下の村では惨状に気付き、人々が大騒ぎをしている声が聞こえてきた。
泥のついた草鞋が雨水を跳ね上げる。
僧は若木の根本に錫杖を放り出すと、裸の山の斜面を駆けていった。


「仕度はできた?早く!次の土砂崩れが起きないうちに、家から出なきゃ」
母親に手を引かれて、少女は荷物の入った籐の籠を抱えて顔を歪ませる。
家から一歩出ると、激しい雨が全身を襲った。
母親の腰にしがみつき、その着物に顔を埋める。母親は宥めるように少女の髪を撫でた。
「あのお坊さんが言ったとおりになったわね。山の木を全部切っちゃったから、
山の神様が怒ったのよ」
「もう、ご機嫌は治らないの?山は、怒ったままなの?」
「さあ、それは誰にも分からないわ・・・・とにかく、安全な所へ行きましょう。
今はそれだけを考えなさい」
「母さん、ちょっとだけ見てくる。お坊さまがまだ彼処にいたら、危ないって教えてあげなきゃ」
「待ちなさい!山に近付いちゃダメ!」
母の手を振り切って、少女は家の裏手へ回り、山を目指して雨の中を駆けていく。
「待ちなさい!」
「すぐ、帰ってくるから!」
叫びながら草をかき分け、上へと登っていく少女の頭上から、激しい声が響いた。

「来るな!」

激しい雨音にも負けずに響く低い声。
はっと上を見上げると、緩やかな傾斜に、沢山の巨大な岩が、まるで壁のように積み上げら
れているのが見えた。
昨日来た時には影も形もなかった岩の砦を、ぽかんとして少女が見上げる。
その岩壁の前に、汚れた服を着た僧が立っていた。
「すぐに行け!少しでも山から離れろ!土砂に巻き込まれたらひとたまりもねぇ!」
「お坊さまは?お坊さまも、一緒に行こう!」
少女の言葉に、僧は濡れた顔をあげた、にんまりと笑いながら、ゆっくりと深く頷く。
「おー、後から行く。」
「よかった!早く来てね!お母さんが、山が怒ってるから、すぐに逃げなさいって
言ってるから!」
安心したように背をむけて、少女は崖を飛び降りていく。
少女の姿が視界から消えると同時に、背後から雷のような地鳴りが聞こえてきた。
岩や土砂の重い響きが足元から這い上がってくる。
短い切り株が根こそぎ抜ける音が混じる重い響きは、次第にこちらへと近付いてくる。



「ありがと。」
姿の見えなくなった少女に手を振りながら、男は濡れた髪をかき上げる。
その鋭い眼は、じっと目の前の梛の木を見つめていた。
命のなくなった山の中に、唯一本だけ立ち、雨を喜ぶように葉を広げている、常緑樹。

「悪いな」

うっすらと唇をつりあげて、僧は木に話しかける。
「ちょっと相手が悪すぎた。幾ら俺でも手に負える相手じゃ無いって。・・・・こんなちゃっ
ちい壁じゃ、お前を助けることはできねーけど・・・・あの女の子の家は、ちょっとだけ守れ
るかもしれねぇだろ。」
冷静に腕を組み、天を仰ぎ見る。霞みがかかる脳裏に、曖昧に浮かんでくる感情や切れ切れ
の音声。
波のように崩れ落ちてくる土砂の中に、懐かしいイメージが浮かび上がる。
『下界の木はいいですね、雨を一杯に浴びられて』
いつか確かに、己が、見て、聞いてきた、

遠い、遠い記憶。





瞳を閉じて、僧侶は錫杖を肩に担ぎ、喉の奥で嬉しそうに笑った。
体中に飛沫の如く沸き上がってくる、想い。
「俺が、選んだ死に様さ。・・・・・・・遠慮しないで、かっこいいって誉めろよ、な。」
しなやかな梛の若木の枝を手にとり、その葉に唇を寄せながら、僧侶は背後に迫り来る騒音
を振り返りもせずに、満足げに微笑み、眼を閉じた。





◇◆





「貴方だったんですね、この本・・・・・・持っていたのは。」
持ち主の居ない黒い軍服のポケットに入っていた本は、既にくしゃりと端が折れ曲がり、見
るに堪えないほどに捩れていた。相当、長い間、持ち歩いていたのだろうか。
「おかしな人ですねぇ。・・・・・こんな本に興味を示すなんて。」
本の扱い方を知らない子供のような行為に、思わず苦笑が漏れる。
「よりによって、どーしようもない、救われない三文芝居の落ちなんか知りたがらなくても
いいのに・・・・。結末なんか言うのも馬鹿らしくて誤魔化しちゃったのが、逆に貴方の興味
を引いたのかもしれませんが」
手にとって広げてみると、独特の濃い煙草の匂いがふわりと身体を包み込んだ。
ページの端を折り曲げてある箇所に気が付き、広げてみる。
戦場に赴き、帰ってこなかった恋人の後を追い投身自殺を試みる悲劇の女性の大袈裟な台詞
を、懐かしげに眼を細めて読み返した。


   其の愛しき手に触れ
   愛しき唇に祝福の口付けを捧げる時まで


「そう言えば貴方、どうしてキスしたくないのか、知りたがってましたよね」
くすくすと笑いながら、天蓬は眼鏡を指先で押し上げた。
「貴方がキスしたがっていた理由と一緒だから、でしょう?」
忍びやかな囁き声は、誰も居ない暗い室内に緩やかに溶け込んでいき、闇と混じり消えていく。
「好きなものは真っ先に食べるタイプでしょ、貴方って。・・・・だけど、僕は」





永遠を許された天界の時の中で、一番やってみたいことだけは、

「ついつい、後回しにしてしまっただけです。でも、ご存じでしょうが、僕は、やりたい事
は必ずやり遂げるタイプですから。覚悟しておいてくださいね」





ぱたりと本を閉じて、机の上に投げ出されている軍服と、その傍らに投げ出されていた煙草
の箱に背を向ける。
便所下駄が床を打つ。静けさをかき消す固い足音は、扉の外へと向かっていった。
軋みながら、扉が開き、一呼吸置いて、重い扉は閉まっていく。
部屋の中は、真っ暗な闇と静寂だけが残されていた。





◇◆





耳を打つ雨音が、朦朧とした意識を更に霞ませていく。
全身は痛みすら感じない程に冷たく痺れ、手足は棒のように固い。ただ、果てしのない寂寥
感だけが身体の中を浸していた。
雨音に混じる微かな声が、死を待ち望む身体へと囁きかける。
死神が己を呼ぶ、甘い調べ。
白々と霞んでいく感覚の中で、その言葉の輪郭は極めて曖昧で。





   たとえ絶望の涙の雨が
   此の身を冷たく濡らそうとも





「おーい、死んでんの?」
虚ろな雨の中に届いた、声。










   我が命は永久(とこしえ)に碧の葉を広げる
   一本の常緑樹となりて

   万物を其の暖かき光で慈しむ
   紅き陽に貴方の生を待つ











「あ、何だ。生きてんじゃん」
深い碧色をした瞳が、紅の双眸を見上げる。
雨の中で絡みつく、紅と碧の視線。

寒さと失血に震える惨めな身体が、何かを思い出そうとしている。
深い水底の如く、暗く混沌とした意識の中にうっすらと射し込んできた、淡い光の様な想い。
得体の知れぬ懐かしさと嬉しさが、骸のような身体を浸す。










   其の愛しき手に触れ
   愛しき唇に祝福の口付けを捧げる時まで


   汝を呼ぶ我が魂は
   新たな生と死を繰り返す




















何故か、無性に嬉しかった。
惨めに切り刻まれた身体に残る力を振り絞り、
目の前に有る、太陽の光のような紅に向かって












微笑った。












*END*








輪廻転生の大作ありがとうございました。
何度生まれ変わっても、どんな姿になろうとも
惹かれあう事ができる関係ってすごいと思いました。
しみじみ…。《結花》


愛さまのサイト 《BISTRO SEED》



《言の葉あそび》