「タダイマ〜」
「あ、おかえりなさい」

いつものように扉を開けて帰りを報せた途端、聴き馴れた声が足元から響いて、少し驚い
た。帰宅の挨拶は、この家に住人がひとり増えてからの習慣となっていたが、深更のこの
時間に、こんな場所で返事があるとは夢にも思わなかった。
「何してんの、お前」
声のするほうを見下ろして問い掛けると、薄明かりのなかでジョーロを片手にしゃがみ込
んでいた青年が頸だけ上向けてにっこり微笑み、応じた。
「水やりです」
「そりゃ見れば解るけど…どしたの、ソレ?」
お世辞にも広いとは言えない三和土で少なからぬ場所を占める大きな鉢植えは、見慣れぬ
…どころか初めて眼にする代物だった。
乾燥地の植生を思わせる肉厚の大きな葉、上の方にぽつんとついた淡い彩の柔らかそうな
蕾。潤いを与えられたばかりのソレは、どことなく嬉しそうな風にも見える。
同居人が好きで育てている植物を全て把握しているわけではなかったが、見覚えのない鉢
の存在に悟浄は訝し気に頸を捻った。
「お隣さんが、昨日引っ越したでしょう。引っ越し先に持って行けないし、捨てるのは忍
びないから…と言って下さったんですよ」
「ふーん」

「満月の夜にしか咲かない花だそうです」

仄かな笑みを湛えて、八戒がつけ加える。
花のことを隣人から色々訊いたのだろう、穏やかな眼差しを新顔の植物に向けて語る青年
に倣って傍らに腰を下ろし、悟浄は言葉の続きを待った。
僅かばかりの沈黙が落ちる。
ちら…と。
ほんの一瞬、翡翠の光が黙ったままの男に移り、そっと覗き込んでから直ぐに元の位置へ
と戻る。水の入っていた容れ物が、かたりと音を立てて床上に落ち着いて──少し後。
「真夜中の数時間だけ、白い大輪の花を咲かせるんです。とても良い匂いがするそうですよ」
夜中だけなんて、フシギですよねえ…。
抑え目の声と共に、長い指が件の花蕾をつい…と滑り落ちた。
優し気に幾度もなぞる白い指先は、愛おしいものに触れる時のように艶かしくて、見てい
るだけでぞくり、とする。



少し、冷たいであろう彼の指先。
自分に向けられたわけでもないのに、その仕種にざわ…と胸の奥が波立った。

 鼓動がどくんと高鳴る。
 ちりり、と妬ける感じがする。

開花を促すような柔らかな動きは、白いはずの花を薄紅に染めてしまうかもしれない。
ひんやりとした彼の手に触れられるたびに、欲を煽られる己がごとく。



「もうすぐ満月ですよ」
楽しみですねぇ…なんて。
熱を帯びはじめた紅玉の気も知らぬげに、八戒がおっとりと微笑う。
その表情に、悟浄は些か複雑な想いを抱いた。
花を待つ気持ちは解らぬでもない。
心底嬉しそうな青年を咎めることなど、出来ない。
だけど、他所を向いている興味に素直に同意出来るほど、心は寛くなれなくて。
「…何で満月の夜にしか咲かねぇんだろうな」
言いながら、淡黄色の蕾を軽く突ついた。ささやかな意趣返し。
大輪の豪奢な花は、陽の光のほうが似合う気がするのに…。
そう呟くと、青年はほんの少し頸を傾げて、同意するように微笑んで──それから。

「…月にしか言えない秘密でもあるんじゃないんですか」

かるく笑みを浮かべたまま、回答えた。
「ヒミツ、ねえ…」
悟浄の眼には、月が花を独占したがっているようにも見える。
だけど、陽光よりも月明かりの似合う青年が言うと、秘密、というのも当て嵌まる気がする。
「お前は、どうなの?」
「何がです?」
「お月サマにしか言えない内緒話とかあるワケ?」

自分の知る限り何よりも艶やかな存在は、また、何より不思議な存在でもあった。
眼の前にある蕾のように月にしか明かせぬ秘密があったとしても、おかしくない。
出逢ってから今まで、少しずつ謎を解いてきたつもりではあるけれど。
それでも未だ、視えない部分は数多ある。

「そうですねえ…」
考えこむ八戒の視線が、束の間、紅玉から外れた。
月明かりは今はない。
それなのに、在らざる月に翡翠の眼差しを浚われてしまった気がして、悟浄は少し後悔した。



 ちり、と再度胸の奥が妬ける。



燠火のように燻る感情を底に湛えながら、緋色が翠玉を覗き込む。
ちらりと様子をうかがい、どうなの…と無言で問いかけると、不安げなさまを察したのだ
ろうか、すこし悪戯な光が煌めいた。
そうですねえ…と、穏やかな口調でもう一度呟いて。





「…あったとしても、貴方だけが知っていることの方が多いと思いますよ」





くすり、と笑みを添えて青年が言葉を紡いだ。
その一言に胸中の燻りを散らせた、紅の眼差しの先には。





真夜中の花が綻ぶように。
艶やかな秘密を囁くように。
月夜に見せる夢のように。







 綺麗な笑顔が、咲いていた──。







*END*












《鷹居ゆきさまのコメント》

『言の葉あそび2』開催おめでとうございます♪

今回、SSを書くにあたって、58的妄想力を掻き立ててやまない10の素敵な言葉に、
かなり迷いました。
いっそのこと頑張って全部入れてみようか、とかそれが無理でもせめて半分…などと
無謀なことを色々考えた挙げ句、選んだ言葉は“月”“水”“夢”。植物のお話にし
ました。色気はあまり出せませんでしたが、しっとりした話を目指してみました。

お目汚しかとは思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです。
読んで下さいまして、ありがとうございましたv



真夜中に咲く花って白くて清楚で「月下美人」という名前だそうですが(ちなみに
使ってる壁紙の花がそうです)この名前ってなんか八戒を連想しちゃいます。
「隠し事」とか「秘密」は、恋愛持続のエッセンスだ〜!とどっかで聞いたことが
ありますが、この二人にはそれはあんまり関係ないのかな、と思いました。



鷹居ゆきさまのサイト 【真午の月】







《言の葉あそび》