「悟浄、あなた絶対に目が悪いです。早く眼医者に行った方がいいですよ」 動揺を隠さずに告げる八戒に、悟浄は機嫌の良い猫が喉を鳴らすような、くぐもった笑い をもらした。 「そりゃ、オマエでしょ〜?悟浄さんは両目とも、バッチシよ」 「それじゃあ、きっと、何か勘違いをしているんです。そうに決まっています」 「素直じゃねぇなぁ…って、ほら。その屈折しまくっているところなんざ、まさにそっく りじゃねぇの」 二の句が継げない八戒に、悟浄は楽しげに片目を瞑って笑った。 ![]() 八戒は、心地よい温もりに包まれて、まどろみの淵をたゆたっていた。 肩に感じる重みも、肌を擽る髪の感触も、何もかもが愛しい。 一人ではない安堵に、幸せな気持ちが満ちてくる。 それなのに、自分のものではない穏やかな寝息に、なぜだろう、ツキンと胸が痛んだ。 花喃と二人、長身の八戒には小さすぎるベッドに身を寄せ合って眠る日常の、ごく当たり 前の覚醒前の一時であるはずなのに、どうしてだろう。 胸の奥に疼く、小さな棘が刺さったような痛みに、言いしれぬ悲しさが込み上げてくる。 違和感の正体を訝しむ間もなく、さわさわと枝をならし吹き抜ける風の音が、八戒の意識 を揺さぶった。 葉擦れの音に混じって、聞いているだけで暑くなるセミの鳴き声が響いている。 瞼の裏に淡いオレンジの光が広がるのを感じて、八戒はゆっくりと目を開けた。 「───っ?!」 寝起きのぼんやりと霞んだ視界に広がった、あざやかな紅。 血の色に染め上げられた世界に、息を呑んだ。 跳ね起きようとした身体は動かない。 咄嗟に自分を拘束しているものを払いのけようと動かした手足が、更に強い力で押さえ込 まれる。 一体、何が起きたというのか。 腕に抱いて眠ったはずの彼女は───?! 花喃を探さなければ、早く助けなければと、焦燥に駆られもがく八戒の耳に、低く掠れた 声が飛び込んできた。 「ん…Hush…a…bye…don't you……cry………go……」 冷水を浴びせられたように、一気に意識が覚醒した。 自由を取り戻そうと躍起になっていた身体から、急速に力が抜ける。 落ち着いて見回せば、ここは自分の部屋だった。 花喃と暮らした家の、悟能の部屋ではない。 悟浄の家に与えられた、八戒として暮らす自分の部屋だ。 八戒は、まだ夢の名残を留め、混乱する記憶に唇を噛みしめ、ぎゅっと目を閉じた。 深呼吸をして、ゆっくりと目を開ける。 潮が引いていくように、花喃とのささやかで慎ましい幸せの記憶が遠のいていく。 変わって押し寄せてくるのは、既に共に暮らして一年になる、悟浄との平穏な───時に 穏やかとは言い難い事も起こるが、それなりに安らぎのある日々の記憶だった。 落ち着いてよくみると、八戒をベッドに縫い止めているものの正体は悟浄だった。 仰向けに横たわっている八戒の上、正確には八戒を包む薄い上掛けの上から押さえ込むよ うに俯せている同居人の重みが、八戒の動きを制限しているのだ。 夜中にトイレにでも起きて、寝ぼけて部屋を間違えたのだろうか。 きっと今、悟浄は夢の中で豊満な肉体の美女を抱きしめているのだろう。 ツキンと疼いた胸の痛みに苦笑して、八戒は悟浄の方に顔を向けた。 寝乱れた悟浄の深紅の髪が八戒の肩口にまで広がり、カーテンの隙間から差し込む朝陽に 艶やかに煌めいている。 ああ、綺麗な色だ───と、八戒は思う。 ほんの数分前には、八戒を恐慌に落とし込んだ紅が、悟浄の色だとわかった途端に、八戒 の中で何よりも綺麗な色へと昇格する。 出会ったばかりの頃、八戒に自らの犯した罪を自覚させ、生へと繋ぎ止める戒めにしか思 えなかった悟浄の紅い髪と瞳は、血の色に見えていた。 八戒の手を染めたどす黒い血の色ではなく、生きるものの体内を流れる生命力の象徴のよ うな血の色だった。 今は血の色よりも、燃える炎のような色だと思う。 悟浄の持つ紅の意味を知って、その色を人目にさらし続ける悟浄の強さを知った。 悟浄の紅を思う時、凍えそうな気持ちが、ほんわかと暖かくなる。 悟浄の生まれ持った紅は、暗闇で足下を照らす灯火のように、八戒を明るく暖かな場所へ と導く色だ。 綺麗で、とても暖かい、けれど迂闊に触れれば全てを燃やし尽くす炎だ。 悟浄にこれほどに似合った色はないと思う。 自分はきっと、深紅の髪と瞳に戒められたのではなく、悟浄という人そのものにとらわれ たのだ。 それがわからず、目を引くあざやかな紅に戒められたのだと勘違いをしたに過ぎない。 悟浄が灯りであるなら、自分は羽虫に違いないと、八戒は困ったように眉を寄せた。 「…sleep………baby…」 まるで抱き枕よろしく八戒にしがみつく格好で眠る悟浄の口から、時折、意味不明な寝言が こぼれ落ちる。 ぽつり、ぽつりと音になるそれは、何の抑揚もないものであるのに、歌詞であることを八 戒は知っていた。 悟浄がそれを歌っているところなど、見たことはないと思うのに、なぜか、耳に馴染んだ 音だった。 混沌と入り交じる記憶の底に、激しい耳鳴りと、凄まじい頭痛を引き起こすノイズの合間 を縫って、悲しい響きを持つ声が、優しく囁きかけるように紡ぎ出す子守歌がある。 眠る悟浄の呟く言葉の一つ一つが、その歌を構成している音だとすぐにわかるほど、はっ きりと覚えている歌があるのだ。 どうしてあの場所にはいなかった悟浄の歌声が、凄惨な殺戮の夜の記憶と結びつくのか。 理由はわからない。だが、二つは確かに八戒の中で融合していた。 融合しているのに、全く違う別々の痛みを持って八戒を苛むのだ。 悟浄─── 八戒の閉じた瞳から、一粒の滴が頬を伝った。 ふと、身体にかかっていた重みが消えた。 今、目を開けたら更に涙が溢れてしまいそうで、八戒は瞼をあげることができない。 寝たふりをする八戒の横で、悟浄がごそごそと動き出した。 カチャッと小さく高い金属音がして、すぐに紙の焦げる音が続く。 部屋に流れる嗅ぎ慣れた匂いに、悟浄が煙草に火をつけたのだと知る。 ふうっと大きく息を吐く音に続いて、閉ざした瞼の裏に影がかかる。 耳元で微かな衣擦れの音がして、温かいものに頬を包まれた。 悟浄の手だ。硬い指先が眦に触れる。 思わずビクッと身じろいだ八戒に構わず、涙の後を辿るように動いた悟浄の指は、反対の 頬も同じように拭った。 「もう、泣くな」 苦しげな声が囁いて、ふわりと温かで柔らかなものが、八戒の唇に触れて、離れる。 ハイライトのキツイ匂いが鼻孔を擽った。 ご…じょ…? 八戒は、トクンと心臓が高鳴るのを聞いた。 もしかして、自分は今、悟浄にキスされたのだろうか。 軽く触れるだけの、子供がするようなものであったのに、悟浄から口づけられたと思った だけで体温が上がる。 驚きのあまり目を開けてしまった八戒は、灰皿を片手に部屋を出て行こうとしている悟浄 の後ろ姿を見つけて、慌てて目を閉じ寝たふりをした。 だが遅い。見てしまったことで、気付きたくないことに気付いてしまった。 八戒は、瞳を開けたことを悔やんだ。 悟浄は灰皿を持って出て行った。悟浄が持って来ない限り、八戒の部屋には灰皿はない。 悟浄は、わざわざ灰皿を持って、八階の部屋を訪れたのだ。 そして八戒を抱きしめるように眠っていた。 いや、抱きしめていたのではなく、あの状態は、押さえ込んでいたというのが正解だろう。 灰皿を持って来たということは、悟浄には八階の部屋で煙草を吸う意志があったというこ とで、眠るつもりはなかったはずだ。 つまり、悟浄は決して、寝ぼけて八戒の部屋に来たわけではないということだ。 一体なぜ、悟浄は、そんなことをしたのだろう。 否、なぜ悟浄は、そんなことをしなければならなかったのだろう。 そして───あのキスにはどんな意味があるのだろう。 昨夜、自分は何か変なことをしただろうかと考えて、八戒は、愕然とした。 記憶がない。 八戒には、昨日の夕方からの記憶がなかった。 「なんで…?僕、一体……どうして…?」 ベッドに上半身を起こして、自分自身を見回した。 着替えたはずはないのに、なぜか、きちんとパジャマを着ている。 外した覚えのないモノクルも、いつも通りサイドボードの定位置にある。 左耳のカフスも、外れかけても、位置がずれたりもしていない。 倒れて頭でも打ったかと手で探ってみるが、瘤も傷もない。 身体のどこにも痛む場所はないのだ。 そして八戒には、酒を飲んだ覚えも、意識を失うほど体調を崩した覚えもない。 まさか、薬でも盛られたのだろうか───と考えて、昨日、悟浄は昼過ぎから家にいなか ったことを思い出した。 「何をしていたんでしょう。僕、昨日は確か…」 片手でこめかみを押さえ、必死で記憶を探る。 パタッと屋根を叩いたものがある。 パタタッとリズミカルに響いた音は、あっという間に、放送終了後のテレビのような激し いノイズへと変化した。 湿った生温い空気が入り込んでくるのが不快で閉めた窓を、流れ落ちた滴。 暗い窓に映った、歪んだ自分の顔と、泣き笑いしている花喃の顔。 頭が割れそうな頭痛と耳鳴りに血がざわめいて───。 どう頑張っても、そこから先が思い出せない。 けれども、寝起きに悟浄の重みを花喃と勘違いしたことから、自分はきっと悟能だった頃 の夢を見ていたのだろうと推測はできる。 いつもいつも、悟能だった時の夢が行き着く先は、大量殺人を犯したあの夜だった。 悟浄と暮らし始めて一年、花喃を失った日、悟浄に拾われた雨の夜から数えるなら約一年 と半年が経とうとしている。 その間に、雨の日は何日あったのだろう。 朝から一日中ずっと降り続いた日もあれば、晴れていたのに急に降りだしたこともあるは ずだ。自然現象なのだから、一年半の間にただの一回も起こっていないわけがない。 けれども、そのどれもが、八戒の記憶には残っていなかった。 八戒が覚えていない雨の日を、悟浄がどう過ごしてきたのか。 考えるまでもなく、最も思い出したくない夜の記憶に融合している悟浄の歌声の意味が、 おぼろに見えた気がした。 「ははっ…参ったなぁ…」 あまりの情けなさに、八戒はもう笑うしかなかった。 自分を嘲笑うしかなくて、キリキリと痛む胸を押さえた途端に、涙が溢れた。 ───もう、泣くな─── 悟浄の声が耳の奥で蘇る。 きっと自分は、泣き喚いたのだろう。 殺してくれ、と。 夜の雨に錯乱し、悟能だった頃に立ち戻って、花喃を失ったあの夜に絶望の底で願ったこ とを叫び続けたに違いない。 そうやって死を望む一方で、誘蛾灯に群がる蛾のように、抗いがたく悟浄に惹かれている 自分に、気付いてしまった。 花喃を奪われた怒りと狂気は未だ八戒の中で燻り続けているというのに、呪詛と怨嗟の塗 り込められた血まみれの両手で、悟浄を得たいと欲している。 そのうえ八戒には、悟浄が好きだと自覚しながらも、花喃への想いを忘却の彼方へ押しや ることなどできはしない。 花喃への愛情を胸の奥に潜ませたまま、悟浄に恋情を募らせるなんて、どちらに対しても 手酷い裏切りだと思う。 なのに、どちらかを選び取ることなど、八戒にはできない。 何と強欲で、傲慢な生き物なのだろうと、八戒はこぼれ落ちそうになる嗚咽を噛みしめた。 愚かで身勝手な自分に吐き気が込み上げる。 こんなにもあさましい自分が、優しくて温かくて綺麗な悟浄の側にいるなんて、許されな い。このまま悟浄の優しさに甘え続けるなんて、絶対に許されないと思うのに、悟浄の側 を離れたくないと胸が軋む。 悟浄の側にいられなくなるくらいなら、何も気付いていないふりをしようと囁きかけてく る内なる声に、己の心根の卑しさを見せつけられて、反吐が出そうだ。 「ホント…参ったなぁ…」 自分はこんなにも狡猾で醜い、身勝手な生き物だったのだと、八戒は両手で顔を覆った。 あまりの情けなさに嘲笑うしかなくて、込み上げる可笑しさに涙が止まらなかった。 八戒は食べ終わった食器を持って台所に向かう。背に悟浄の視線を感じていた。 洗剤を含ませたスポンジで一つ一つ丁寧に汚れを拭い、水を張ったシンクに入れていく。 悟浄の視線が怖かった。全神経が背中に集中してしまったように、悟浄の気配を探ってい る自分がいる。 己の醜さに辟易した日から、今まで以上に気をつけて天気予報を見るようになった。 雨の予報の日は殊更に気を張って、悟能の記憶を呼び起こさぬよう努力している。 もっとも、いまだ効果があったとはいえないが。 目覚めた時、部屋に微かに残る悟浄の痕跡に気付くたびに、罪悪感に駆られる。 だが同時に、悟浄が自分の傍らにいてくれたことに、嫌がられて捨て置かれたりはしなか ったのだという喜びが、じんわりと胸の奥に広がって行く。 雨が降るたびに突き付けられる最低の自分を厭悪し、心の内で盛大に罵倒しつつも、八戒 は何事もなかったように平素通りの仮面を被り続けている。 それもいつまで持つか、自信はない。 今も、勘の良い悟浄に、身の内に潜む薄汚い本性に気付かれてはいないかと怯えている。 けれども八戒には何も知らぬふりを通すことでしか、今の生活を保つ術は見つけられなか った。 流水で洗剤をすすぎ落としたグラスを水切り棚に伏せようとして、力が入りすぎた。 手の中で鈍い音がして、八戒のお気に入りのグラスが砕け散る。 「あ…」 「八戒?」 訝しむ声音と近づいてくる足音に、八戒は慌てて表情を繕い振り返った。 「すみません、悟浄。グラスを割っちゃいました」 「あ〜イイって。グラスなんざ」 言いながら悟浄は八戒の隣に立つと、無造作に八戒の前髪をかきあげ額に手を当てた。 「悟浄…?」 「熱はないみたいだけど。体調が悪いなら、無理するな」 「大丈夫です。ちょっと手が滑っただけです」 「あっそ。んじゃ、そういうコトにしておきマスか」 「…しておきますか……って、本当に手が滑ったんですよ」 「ふ〜ん」 ひょいと片眉を跳ね上げ、瞳を眇めた悟浄が面白そうに口角を歪めた。 観察するように八戒を眺めたあと、 「俺、ちょっと出かけてくるから」と、あっさりと踵を返した。 じゃあな、と後ろ手に手を振る悟浄の背中で、深紅の髪が揺れる。 その後ろ姿がドアの向こうに消えるまで見送って、八戒は大きく息を吐いた。 緊張に強ばっていた身体から力が抜ける。 「なんだかなぁ…」 苦笑して八戒は、散らばる硝子の破片を手に取った。 「…で、何してるんですか。悟浄?」 「見て、わかんない?」 いつになく早く戻ってきた悟浄は、なぜか帰って来るなり台所に直行した。 小さな片手鍋に水を張り、火にかける。 それだけなら珍しいと感じはしても、特に真意を問いただすことなどしないが、今回ばか りは悟浄の正気をすら疑った。 悟浄が火にかけた鍋の中、水に浸っているのは、直径1センチほどの透明な硝子玉なので ある。こんなものを煮てどうしようというのか。八戒には悟浄の意図が読めなかった。 まさか、食べるわけではないだろうが、つい尋ねてみたくなる。 「……美味しいんですか?」 「そりゃあもう、歯ごたえがあって最高……って、あンの欠食猿じゃねぇんだから、食わ ねぇよ」 くつくつと笑って、悟浄は楽しげに瞳を細める。その悪童のような表情に、今度は一体、 何を企んでいるのだろうと訝りながらも、八戒は好きにさせておくことにした。 八戒は溜息を一つ残して居間に戻り、読みかけの本を再開する。 カチッと小さな音がして、電気が消えた。 「悟浄…」 八戒は、本が読めないと苦情を申し立てるために顔を上げた。 と、部屋の電気を消した張本人である悟浄が、いつの間にか側に来ていて、八戒の手を軽 く引き上げる。 「どうしました?」 促されるままに立ち上がり、悟浄に導かれるままにローテーブルを迂回し、部屋を横切る。 開け放された窓から月が見えた。 真円よりわずかに歪んだ月が、蒼白く夜空に浮かんでいる。 皓々とした月明かりの下、悟浄は手にしていたワイングラスを掲げて見せた。 グラスを満たす液体からはアルコールの匂いがしない。 チューリップ型のグラスの底に、氷とは思えない丸いものが2つ入れてあった。 「何ですか、それ?」 「水とビー玉」 ニィッと口端を引き上げて、悟浄は八戒へとグラスを渡した。 「ビー玉…?」 八戒は小首を傾げ、手にしたグラスを目の高さに持ち上げた。 緩やかにカーブしたグラスの底で揺れていたものは、確かに悟浄の言うビー玉であった。 だがそれは八戒の知る、子供達がよく遊んでいるビー玉とは、かなり違っている。 グラスの底のビー玉は、表面は滑らかで疵一つ無く見えるのに、内側には無数のひびが入 っていた。 透明であるため、疵の───ひび割れた亀裂の断面すらまでが見える。 球体であるせいか、内部を走る断層があらゆる方向からぶつかりあい、素通りするはずの 光を複雑に屈折させていた。 「えっと。もしかして、悟浄、これを作ってたんですか?」 「そ。綺麗だろ?」 嬉しそうに問う悟浄に、八戒は素直に頷いた。 「ええ。綺麗です…とっても」 月光にかざされたグラスの中、ゆらりとうねる水面で淡い虹色の影が踊る。 プリズムの役目を果たしているそれは、水の底で小さな硬質な音を立てて転がりぶつかり あい、様々な方向に光を散らしていた。 くっきりと影を浮かび上がらせる亀裂の断面にあたった光がそこで屈折し、別な亀裂にあ たりまた屈折する。 陽光とは比べるべくもない光量しか持たぬはずの月光が、疵によって落ちる影との対比で とても明るく煌めいて見えた。 「どうしてこんなに綺麗なんだか、わかる?」 「…え?」 八戒の手から取り上げたワイングラスを窓枠にのせて、悟浄もそのまま窓枠に浅く腰掛け た。唐突な問いに首を傾げた八戒に構わず、悟浄は胸ポケットを探りライターと煙草のパ ッケージを取り出した。 振りだした一本を口に運ぶと、慣れた仕草で火をつける。 流れるハイライトの匂いと、悟浄の口元を彩る朱色の輝きに八戒は無意識に灰皿を取りに 動いていた。 ふっと息をつくように笑って、悟浄は差し出される灰皿を受け取り、それも窓枠に置く。 「あのさ、八戒。ビー玉って、どうして『ビー玉』って言うか、知ってる?」 「ええ、聞いたことがあります」 こちらの質問には、八戒は簡単に答えられた。 ビー玉の語源にはいろいろな説があるが、八戒はその中の一つ、ビー玉イコールB玉とい う説を答えた。 硝子玉で口に蓋をするという、独特な形状の瓶に詰められた清涼飲料水がある。 その清涼飲料水の瓶に使うための規格に通った良品の硝子玉をA玉といい、規格外品をB 玉として、子供の遊び道具に払い下げたという説である。 悟浄は満足そうに紅瞳を細めて笑うと、煙草を挟み取った指で窓枠に置いたワイングラス の縁を軽く弾いた。 「コイツはさ、B玉でしか作れないの」 僅かの衝撃に振動し、さざ波立つ水面に空気の泡が一つ、浮かんで消えた。 「A玉は頑丈すぎて、どんなに煮沸しても、こんなにはならない。煮沸しておいて氷水に 放り込んでも、ダメ。割れちまうことはあっても、こんなふうに、疵を内包した状態には ならない」 かすかに瞼を伏せて、優しい表情でグラスを眺めながら、悟浄は続けた。 「B玉から作ったコイツは負荷をかけて疵を入れている分、割れやすくなっている。頑丈さ から言えば、一番脆い。でもさ、八戒。どれが綺麗って聞かれたら、コイツだと思わねぇ?」 不意に笑みを消した真顔で問いかけられて、ドキンと心臓が跳ねた。 「コレ見た時さぁ…なんか、オマエみたいだなぁ…って思っちまった」 柔らかな声音で告げられた一言が、電流のように背筋を駆け上った。 「僕は……僕は…こんな……じゃ…」 否定しながら、八戒の全身に震えが走った。 悟浄は一体、何を言いたいのかと、悟浄の思惑を図りかねて口ごもる八戒の言葉を遮るよ うに、悟浄は言う。 「さっきの答え。ただの硝子玉よりも、コイツが綺麗に見えるのは、中に疵があるからデス」 溜息のように長く、吸い込んだ煙を吐き出しながら、悟浄は煙草を灰皿に押しつけた。 「もしも、硝子玉の世界っつーのがあって、コイツらにも意志があったとしたら、綺麗な のは光も闇も素通しするA玉で、内部に疵があるなんてのは異質で醜い…ってことになる のかも知れねぇけどな」 完全に火の消えた煙草から手を離し顔を上げると、悟浄はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 「ケド、俺には、コイツが一番、綺麗に見える」 再び掲げられたワイングラスの底で、カランと小さな音を立てて硝子玉が転がる。 複雑に走る疵の位置が変わり、悟浄の指に虹色の影が落ちた。 夜色に染まる水の中、黒い疵の上で光が煌めく。 「───!」 漸く、悟浄の言いたいことが理解できた。 価値観が違えば、物事は同じには見えない。 美醜の感覚は、価値観の差によると言いたいのだ。 だが、なぜ、今、そんなことを言い出したのかが、理解できない。 困惑して見つめる八戒に、悟浄はいつもの皮肉さの欠片もない笑みを浮かべている。 「イイコト教えてやろうか、八戒?俺は、疵一つねぇA玉なんぞにゃ、興味ねぇンだよ。 B玉に疵入れたB玉以下かもしれないコイツとA玉が落ちてたら、俺はコイツを拾ってくる」 コイツ…と、水面が波立つほどにグラスを揺らして囁かれたダメ押しの一言に、八戒は、 このまま心臓が止まって死んでしまうかも知れないと、本気でそう思った。 悟浄は、自分が何を言っているのか、理解しているのだろうか。 聞きようによっては、悟浄の言葉は、八戒が隠そうとしている醜い感情を認めているよう に受け取れる。 悟浄の言葉は八戒の醜さを認めているのみならず、それを綺麗だと言っているようで── なおかつ、八戒自身が醜いと嫌うそれを持っているからこそ、同居を許していると言われ ているようにしか聞こえない。 いや、悟浄は、そう聞こえるように言っているのだろう。 つまりこれは、八戒が必死に隠そうとしていた醜い部分を、悟浄はとっくに知っていたと いうことで───知っていて、受け入れているとの宣言だ。 それとも八戒の耳が、自分に都合の良い幻聴を聞いただけなのだろうか。 手にしたワイングラスを揺らして、悟浄が悪巧みに成功した少年のように笑う。 「綺麗だろ?オマエ、そっくり」 グラスの底を転がる硝子玉がキラリと光る。 「悟浄、あなた絶対に目が悪いです。早く眼医者に行った方がいいですよ」 動揺を隠さずに告げる八戒に、悟浄は機嫌の良い猫が喉を鳴らすような、くぐもった笑い をもらした。 「そりゃ、オマエでしょ〜?悟浄さんは両目とも、バッチシよ」 「それじゃあ、きっと、何か勘違いをしているんです。そうに決まっています」 「素直じゃねぇなぁ…って、ほら。その屈折しまくっているところなんざ、まさにそっく りじゃねぇの」 二の句が継げない八戒に、悟浄は楽しげに片目を瞑って笑った。 「ま、そ〜いうトコもイイんだけどな」 「え…?」 どういう意味かと問い直す前に、悟浄は灰皿を掴んで歩き出していた。 「あの、悟浄…?」 「んじゃ、おやすみ〜」 窓際に取り残された八戒は、窓枠に置かれたグラスの縁をそっと手でなぞった。 水の底で、内部の疵に光を抱くように煌めく2つの硝子玉。 暗い夜の、あまり明るくはない月の下で見るからこそ、疵が影に見えるのだということに、 ふと八戒は気付いた。 本来が光を通す無色透明の硝子玉である。陽光にかざしたなら影を落とすことなどなく、 ただキラキラと疵に光を反射して宝石のように輝いたに違いない。 だから悟浄は、月の光にこの硝子玉をかざして見せたのだ。 疵の断面が夜闇の暗さを映すように影を作ることを知っていて、八戒に見せた。 疵が、つまり影があるからこそ、光が綺麗に見えるのだと気付かせるために。 水を入れたのは、より光を屈折させるためか。 それとも水面に浮かぶ虹色の影を効果的に見せたかったのか。 どちらにせよ、気障なことをするものだと、八戒は苦笑した。 グラスの底に沈められた硝子玉が2つなのは、きっと自分と悟浄を表しているのだろう。 悟浄も八戒も、たくさんの傷を負って生きてきた。その心の内には、未だ血を流し続けて いる、癒えぬ傷がある。 醜い内面を隠しているのは、闇を宿しているのは、オマエだけじゃない───と、悟浄は 言葉にする代わりに、硝子玉を2つにすることで伝えたのだ。 「参ったなぁ…」 本当に、悟浄には敵わない。 迷惑をかけるとわかっていても、己の醜さを知られているとわかっていても尚、側にいた いという気持ちが込み上げてくる。 悟浄が八戒の醜さも受け入れると言うなら、気付かぬふりをしてではなく、本気で甘えて しまおうか。 そうだ。これは悟浄の八戒の醜さを受け入れるとの意思表示だ。ならば、遠慮などするこ とはない。 悟浄には、己の内に巣くう闇ごと全てを受け止めて貰おうではないか。 開き直ったら、今までの鬱屈が嘘のように心が軽くなった。 「そうですよね。拾ってきたのは悟浄なんですから、最後まで責任を取って貰わなきゃい けませんよね」 八戒の身体のみならず、心までも、拾ってその懐に入れたのだから、どんな理由をつけよ うとも、捨てるなど許さない。 翌朝─── コンロの上に放置されていた片手鍋の中には、無数の硝子玉が光を散らしていた。 全く疵のないものもあれば、見事に真っ二つに割れているものもある。 だが、ほとんどの硝子玉は、昨夜、見せられたような内部にだけひびを入れた状態だった。 悟浄が選び出したものは、その中でも特に複雑にひびが入ったものだったようだ。 「困った人ですねぇ…」 少しも困ったようでも、怒ったようでも呆れたようでもなく呟いて、八戒はその硝子玉を 手に取った。 使いっぱなしで放置しておくなんて、悟浄にはきちんと躾をし直さなければならない…と 考えた途端、叱られて子供のように拗ねる悟浄の姿が思い浮かんで、八戒は笑ってしまっ た。温かなものが心に満ちあふれてきて、微笑まずにはいられなくて、頬が緩む。 自分だけではない。 悟浄も、この硝子玉と同じなのだ。 疵があるからこそ、光を素通しせずに複雑に屈折するからこそ、綺麗で愛しい。 悟浄が作った疵入りの硝子玉達は、八戒の手で2つずつ水と共にグラスに入れられて、家 中に飾られて光を散らしている。 *END* |
《LUNAさまのコメント》 ええっと、まずはキーワード。 単語でしか出てこないものも含めて『煙草・影・月・モノクル・夢・水』を使用です。 今回、「疵入りのビー玉を八戒に見せる悟浄」が書きたくて、そこから思考が動かず グルグルしてた私。結花お姉様、助言ありがとうございました♪ おかげで、なんとか書き上がりました。あ、でも〆切破りでスミマセンですm(_ _)m 私的にはラブラブ?な悟浄と八戒です。 なんかお互いに片思いだと信じていそうな、でも相思相愛の二人…端から見てたら 殴りたくなっちゃいますね。 悟浄の「遠回しなプロポーズ」の小道具がビー玉だったんですね。(違う) LUNAさんとこの悟浄は、よく歌を歌っています。 それがなんともカッコイイ!と思うのは、八戒だけではないようですvv たいしたお手伝いにはなってないけど、こんな素敵なお話が読めるのだったら なんぼでも使ってやってくださいませ。ぺこぺこ。 |