玄関の扉の開く音に、八戒は料理をしていた手を止めて、壁にかかっている時計を見上げた。 いつもなら、まだ悟浄の帰ってくる時間ではない。 けれど廊下をこちらに向かって歩いてくる足音は聞き間違えようもなく悟浄のもので、キ ッチンにいた八戒は濡れた手を拭きながらひょいと廊下を覗き込んだ。やっぱり悟浄だ。 「おかえりなさい。早かったんですね」 「タダイマ。気分乗んねぇからさぁ、帰ってきちゃいました。何やってんの?」 「夕飯の支度です。いい機会ですから、お酒は控えたらどうですか?」 「無理。酒あっての人生でしょお」 八戒に続いてキッチンに入ってきた悟浄は、まずまっすぐに冷蔵庫に向かって冷えた缶ビ ールを一本引っ張り出した。 プシッといい音をたてて缶を開け、そのままコップに注ぐこともなく一気に半分ほどをあ けてしまう。 「八戒も飲むー?」 「いりませんよ。今、料理中ですから」 「ビール程度で酔うお前さんじゃないでしょ」 「いりません」 悟浄から料理に戻った八戒は、後ろを向きもせずににべもなく拒絶した。 悟浄はそれに一瞬不満そうな顔をして・・・それから、悪戯を思いついた子供のようににや りと笑いを浮かべる。 「八戒さん、冷たぁい」 ふざけた言葉とともに、流しで汚れ物を洗っている八戒の背中に、どしりと圧しかかった。 背丈は同じくらいでも体格に差のある二人だ。 いきなり背中から体重をかけられて、八戒は手に皿を持ったままでよろよろと足元をふら つかせた。 「悟浄!危ないでしょう!」 「なーにー?俺、お手伝いしようと思ったのよー?はい、洗い物ー」 見た目それほどとも思えないが、酔っ払っているのだろうか。 悟浄は流しに立つ八戒の手首を、背中側から回した両手でしっかりと掴むと、自分自身の 手ではなく、八戒の手を使って器用に皿を持ち上げようとする。 「はい、持ってー」 「はいはい」 こんな状態にも関わらず皿の一枚も割らずに洗い物を終えた。 仕事の後の一服と煙草に火をつけた悟浄は、一息大きく息を吸い込んだ後、今初めて気が ついたといわんばかりに八戒を見た。 「ひょっとして、一人でやった方が簡単だったカモ?」 「当たり前ですよ」 溜め息まじりで答えると、悟浄はへへ、と子供みたいな笑顔を浮かべた。 いつもは斜めに構えた姿勢を崩さない悟浄がたまに浮かべるこの笑顔が、八戒は好きだ。 誰でも見れるという顔でもないというのが、自分が悟浄にそばにいる事を『許されている』 みたいで、嬉しくなる。 ただ悟浄がこういう顔をするのは大抵悪戯が成功した後とか、ろくでもない事をやらかし た時ばかりというのが何なんだが。 仕方ない。と思ってしまうのは、悟浄に甘いのだろうか。 「お手伝いしてくれるんなら、そこのお皿をテーブルに並べてくれますか?」 「へ〜い」 皿に盛った料理を指差すと、悟浄は素直に皿に手を伸ばす。 けれど、八戒の声の方が早かった。 「煙草は吸わないで下さい。灰が落ちます」 悟浄は火をつけたばかりの自分の煙草と、にこにこしてるのに妙に迫力のある八戒の笑顔 を交互に見つめた。 けれど結局八戒に逆らうのは得策ではないと判断したらしく、口に咥えた煙草を右手に戻 す。その煙草を灰皿に押し付けるのかと思いきや、流しの近くに立っている八戒のすぐ脇 からひょいと腕を伸ばし、流しの底に溜まっていた水に煙草をつけた。 じゅ。 滑らかな煙をあげていた煙草が水につけられて、抵抗するように乱れた線になる。 そして、すぐに火が消えた。 「流しで火を消さないでくださいよ!」 「今度から、気ィつけまーす」 ふざけた返事。八戒の笑顔が、深くなった。 「・・・三蔵のやり方を、見習いましょうか。何度言っても覚えられないなら、 躾も必要ですよね」 「家の中で拳銃ブっぱなすのは、勘弁・・・」 料理は大半出来上がっていたので、悟浄が何度かに分けてテーブルに運び終わった頃には 八戒の用事も終わっていた。 テーブルのいつもの位置、悟浄と向かい合わせの席に八戒は座る。 そういえば、悟浄と一緒に食事をとるのなんて久しぶりではないだろうか。 朝は遅く、夜も遅い悟浄と規律正しい生活を送る八戒の生活リズムは大きくずれていて、 八戒が昼間買い物に出かけていたりすると、顔を合わせないままになる事だってある。 「イタダキマス。」 「はい、召し上がれ」 悟浄が食事を口に運ぶのを、じぃっと見守る。 俯いた拍子に長い髪がばさりと落ちて、浅黒い顔に陰影を落とした。 「なに?」 八戒が食事に手もつけずに自分を見ているのに気付いて、悟浄が顔を上げた。 「・・・いえ。髪、邪魔じゃありません?皿に入っちゃいますよ」 「邪魔。でも、ゴムない」 「あっちで見ましたよ」 「遠い」 我が侭な子供みたいだ。お腹が減っていたのか食事の手も止めずに言う悟浄に苦笑を浮か べて、八戒は悟浄の代わりに立ち上がった。 外に出るときは眼鏡をかける八戒も、目をつむっていても歩けるほどに慣れた家の中なら そんなものは必要ない。 スムーズに歩いて、キッチンに置きっぱなしになっていたゴムを手に戻ってきた。 もう片方の手にはさっき悟浄が半分ほど飲んだビールの缶も持っている。 「忘れてましたよ」 「あ、さんきゅ」 八戒からゴムとビールを受け取り、髪を括るより先にビールの缶に口をつける。 「ナマぬくい・・・」 一口飲んで気持ち悪そうに唇を離した悟浄に、八戒は笑ってしまった。 それはそうだろう。そのビールは、かなり長い間放っておかれたのだから。 炭酸だって抜けかけているかもしれない。 「いい!氷とってくる!」 ゴムのためには席を立たなかった悟浄が、冷たいビールのためにあっさりと立ち上がって キッチンに向かった。 戻ってきた時には片手に氷の入ったグラスふたつ、片手に缶ビールを持っている。 「僕は飲むなんて言ってませんよ」 「いいだろ。俺一人で飲んでたら、淋しいじゃん」 「あなたも飲まない、って選択肢もあります」 「言いっこナシナシ!」 強引に八戒の手にグラスのひとつを押し付け、氷の入ったグラスにさらに冷蔵庫から取っ てきたばかりの冷えたビールを注ぐ。 しゅわしゅわと炭酸の弾ける音と、氷がたてる音が涼しげだ。 悟浄が自分の席に座ると、正面の八戒がグラスをテーブルに戻した。 そのグラスは、すでにからっぽである。 「ウワバミ・・・」 「失礼ですね」 言いながら、悟浄は腕を伸ばして八戒のグラスにもう一度ビールを注いでくれる。 今度は八戒も一息に飲み干しはしなかった。 悟浄が再び食べ始めるのを見て、八戒も自分の前の料理に手を伸ばした。 「八戒外見た?すっげー満月!綺麗だぜ」 口に食べ物が入ったまま喋るのはよくない。 とはいえあんまり嬉しそうに言うので注意する気も失せてしまい、八戒はカーテンの閉じ た窓の方を見た。 立ち上がって窓辺に近寄る。かつてこの家は綿埃と砂によって床一面覆われ、歩くたびに 白いものがもうもうと立ち上がったのだが、八戒が来てからというものそれは一変した。 床も窓も綺麗に磨き上げられ、かつての雪を刷いたような姿は見る影もない。 食事中に席を立っても大丈夫にするのに八戒が要した時間は膨大なものだった。 カーテンを開ける。途端、照明の点いた室内に柔らかい光が差し込んできた。 「うわ・・・」 「な、綺麗っしょ」 背後でどうだと言わんばかりの悟浄の声がする。それもそのはずだ。 雲ひとつない天空に輝く月は大きく、他に言葉が出てこないほどに美しかった。 銀色の皿のようだ。 八戒がぼんやりと空を眺めていると、背中でぱちんと音がして、室内の照明が消えた。 「悟浄?」 「こんなけ明るかったら、電気なくても大丈夫っしょ。せっかくだからさぁ、 このままにしようぜ」 たしかに月はかなり明るいが、照明なしでいられるほどではない、気がする。 というか、見ようによっては侘しくないだろうか。 「ロウソクでも点けましょうか」 「お、いいかも。でもそんなもん、この家にあったっけ」 「・・・ありました」 八戒がこの家に来る前に、すでにあった。 けれど家主がこの調子なので当然それは埃を被り、棚の奥にしまいこまれていた。 試してみたが火はつかず、八戒は他の防災用具と一緒に買い足して今では取り出しやすい 位置に移動していたのだが、やはり家主は気にもかけていなかったらしい。 八戒がロウソクを取ってきて悟浄のライターで火を灯すと、柔らかな灯りが部屋の中を満 たした。 「これでよしっと。メシ喰おうぜ」 満足そうに悟浄が席に戻った。珍しいのが嬉しいのか、楽しそうだ。 その悟浄を見、八戒はもう一度窓を見た。明るい月。 正面を見る。味について特に言いはしないが、言うよりも雄弁に食べている悟浄をみれば 美味しいと思ってくれているのだろうと分かる。 八戒も、自分の食事を再開した。 変わり映えのしない日常。それこそが、夢のような日々。 *END* |
《有島圭さまのコメント》 キーワード、全制覇を目指しました(笑)<そんな事やってっからギリギリにな るんだってば。 時計、煙草、水は普通に使ったのですが、影、月、眼鏡、雪、夢、砂、拳銃に苦 労・・・って半分以上やん!特に雪と砂と夢はどう使っていいか分からず、結局 文字が出てきただけになってしまいました・・・ああ、勿体無い!せっかくの面 白企画なのにぃ!文章力の不足に、つくづく泣きそうです・・・でも、人様がキ ーワードをどう消化なさったかを見るのは、非常に楽しみです♪ 八戒に子供のようにべったり甘える悟浄が可愛いです。 わがまま言ったり拗ねてみたり、それを許して受けれてみたり。 人に慣れない二人が、こんな風に甘えたり、甘えさせたりできるのは、 それだけたくさんの「想い」を積み重ねてきたんだろうなぁと思います。 |