─風 紋─


西への旅は続く。三蔵の意向で回り道をすることはなく、できるだけ直線のルートで。
「あっちィィィィィ!!!」
だから、こんな場所を通ることもままあるのだ。
「三蔵〜、何でわざわざこんな道通るんだよ?」
「うるせぇ、黙って歩け。余計なこと喋らせんな。口ン中が干からびる」
「つーか、ジープ!何でお前は車にしか変身できないんだ?」
「キュ〜」
「ジープに当たるのはやめてください、悟浄。ここまで砂が深いとタイヤを取られるじゃ
ないですか。ちょっとぐらい歩いてください」
前の村を出るとき、そこの住人から2種類のルートを教えられた。
1つは、平坦な森の中。
ただ、砂漠を大きく迂回するのでちょっと時間はロスをするかも知れない。
そしてもう1つは、この砂漠の中を突っ切っていくルート。
「なあに、真っ直ぐに突っ切って行けば良いんだ。途中にオアシスもあるから、そう大し
たことないと思うぜ」
そう断言してくれたのだが、きっと通り慣れている地元民であるから「大したことがなか
った」のだろうと、今なら分かる。
歩き慣れない砂漠に砂で足は取られるわ、遮るものがなくて直射日光が当たってジリジリ
とするわ、更に風が強くて日差し避けのために被っているマントは吹き飛ばされそうにな
るわ、あの太鼓判を押してくれた村人のヘラヘラした顔を一度踏んづけてやらないと気が
収まらない。
「こんな話あったよな〜、『北風と太陽』だっけ?。つーか、ダブルタッグじゃん。
今なら、マントどころか服だって脱いでやっても良いぜ」
「裸になりたいならどーぞ。皿の上の水がいっぺんで蒸発して死んじゃいますけどね」
「八戒・・・、その爽やかな笑顔のまま実は不快度MAXつーのは気付きずらいからやめて
ください」
ちょっとしたコミュニケーションなのか、はたまた本気なのか分からない会話を悟浄と
八戒が繰り広げている間に、前を歩く悟空が力なく呟いた。
「あぁ、俺もおダメかも〜。こんな砂漠のど真ん中に森が見える〜」
「悟空、安心しろ、俺にも見える」
三蔵の返答に、悟浄と八戒は視線を上げる。
確かに緑色の木々かうっすらとだが見えていた。
どうやらあれが、村人の言っていた『オアシス』だったらしい。
「み〜〜〜〜〜ず〜〜〜〜〜〜だあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
人間というのは、とても都合良くできているのだ。
今にも這いつくばりそうだった悟空は一目散にオアシスに向かって駆けて行く。
八戒の「悟空、集団で蜃気楼を見ているのかもしれませんよ〜」などという夢を打ち砕く
ような警告もきっと耳には届いていないだろう。
現金な4人組は、繰り出す足も軽やかに憩いの場所に近付いていった。



果たして、そのオアシスは消えることなく、旅の一行を迎え入れた。
それぞれ銘々に泉の水を浴び、木々の陰に座り、ひとときの休息を堪能している。
泉の水を浴び、さっぱりとした表情で地面に寝転んでいた悟空がふ、と何かを見付けて八
戒に声をかける。
「八戒、砂漠に波ができてるよ?」
「はい?」

全員が水を飲みどうやら安全らしいと判断した八戒が泉の中に水筒を沈め、満タンに満た
している。その蓋をきっちりと閉めながら、悟空の言葉に耳を傾けた。
悟空の示す指の先に、なるほど。砂漠の砂が波打っているように見えた。
「あぁ、風紋ですね」
「ふーもん?」
「風が吹くと、流動系なものの表面が動かされて模様ができるんです。例えば、この砂や
水・あと雪なんかもそうですね」
「ふーん、雪にもできるんだ」
「今度雪が降ったら見てください。新雪ならできるはずですよ?」
「斜陽殿でも見られるかな?」
雪が怖かった悟空は、それまで雪を見る、ということもなかったのだろう。
新しい発見に瞳をキラキラさせながら八戒を見上げている。
そんな素直な反応に暖かいものを感じながら、八戒が応じた。
「多分見られるでしょうね、現に・・・僕も悟浄の家で見たことがありますから」
そう返しながら、八戒はその時のことを思い出していた。





風の強い夜だった。窓ガラスを風が打ち付ける音が聞こえる。
食事を済ませた八戒が、飼っている小竜を伴って自室に入ってきた。
この家の家主は、夕方出掛けたきり帰って来ない。
午後まで穏やかだった筈の天気が、悟浄が出掛けた途端崩れだした。
どうやら、薄暗いように感じたのは短くなった日の所為だけではなかったようだ。
この荒れた天気では今晩帰って来られるかどうかも怪しいものである。
暖房機にスイッチが入ると、ジープがお気に入りの場所を陣取ってうたた寝の体勢に入る。
それを横目で見ながら八戒は、日中行なっていた部屋の片付けの続きを始めた。
片付け、と言っても普段から整頓を行なっている彼にとっては、あまり時間の掛かること
はないだろうと思われた。
しかし、生活をしていると物が増えてくる。
もう使わなくなったものは一気に処分してしまおうと思い立ったのが午後のこと。
それから日常の家事をこなしながらやっていたので、思ったより時間を費やしてしまった。
「さて、後はここだけですか」
デスクの脇においてあるミニチェスト。
その一番下の引出しに手をかけて引き出す。
ここは、八戒がこの家で暮らし始めた時の細細とした物を入れておいたはずだ。
引出しを開けて、一番上に乗っていたものに目を留めた。

──止まってしまった時計──

それが、ただ1つの彼女の形見と言っても良いだろう。
碧の瞳は手の平に乗るほどの小さな機械を捉えたまま動けなくなってしまった。
まるで、この時計と一緒に彼の時間も止まってしまったかのように。
最近は、そんなこともなくなっていた筈なのに、またあの日の事が思い出されたのは何故
だろうか?
戸外の風の流れる音が記憶を遡る音に聞こえた所為なのかも知れない。
彼は、時計から目をそらすと、窓際へ歩み寄り気温差で曇ってしまったガラスを左手で拭
った。そこに映るのは、表情を無くした自分の顔と、風に煽られて踊っているような白い
物体。
「空から降っているものなのに・・・」
踊り狂う雪に向かって呟く。
その小さな呟きに、いつもと違うものを感じたのか暖房機の傍でまどろんでいたジープが
顔をあげて、飼い主の方を見やる。
「何故雪は平気だったんだろうね」
空から降っているモノは同じなのに。
ただ、気温が下がったから、結晶に変わってしまっただけなのに。
彼は、右手に機械を握り締めたまま踵を返すとドアに近付く。
ノブを回し、暗い廊下に体を滑り込ませると、ドアを閉じてしまった。
室内のジープの叫ぶような声は、今彼の耳には入っていなかった。



戸外へ続くドアを開けると、冷たい空気が頬を打った。
それに構わず彼は、一歩一歩家から遠ざかる。
森の中まで行けば、木々が邪魔をして雪の量も減ってくる筈なのだが、そこに到達する前
に、足を取られて崩れ落ちてしまった。
そのまま、それ以上進む気にもなれないのか、彼は右手に握り締めていた時計を耳に当て
たまま動かない。
このままこうしていれば、きっと花喃が見付けてくれる。
だって僕は、花喃の大事にしていた時計を持っているんだから。
己を打ち付ける冷たい風も、今は寒く感じられないのが不思議だ。
もうすぐ、花喃ともう1人の『僕』のところへ行けるのだろう。
そう思うと、自然と笑みが浮かんできた。
だから、視界が暗くなり誰かの影が降りて来たと感じた時も、それが花喃のものだと疑わ
なかった。
「かな・・・・・」
「ナニやってんの?ガマン大会?」
一瞬
話し掛けた人物が誰だか分からなかった。
彼の中では、まだ逢ったことのない人物だったので。



碧の瞳が2.3度瞬いた。
視界がだんだんとクリアになってくる。
徐々に指先が痺れている感覚が伝わって来た。
「ごじょ・・・?」
「うわ!お前なんつー唇してんだよ!。兎に角家に入れ」
紫を通り越して白くなっている口元を見て悟浄は有無を言わさず八戒を抱え起こした。
そのまま引きずるように室内に連れ込み、バスルームに向かう。
服を脱がす間も与えず湯船に放り込んだ。
悟浄がようやく安堵のため息をついたのは、八戒の唇に血の色が戻ってきた時だった。
「ビックリさせんなよ〜、ガマン大会するにもちょっと行き過ぎだろーが」
「あはははは。すいません」
「後は、気がすむまでゆっくりと浸かってろ」
バスルームを出ようとした悟浄を八戒が引き止める。
眉尻を下げたまま「すいませんが」と碧の瞳が悟浄を見上げた。
「着替えを持ってきてくれませんか?この状態で家の中を歩くのはイヤなので」
言われてみれば成程。何も持たずにここへ来てしまったのだから、最低でも拭くものと、
着替えは必要だろう。
軽く左手を上げるとそのまま八戒の部屋へ向かって行った。
悟浄が脱衣場に用意してくれたものに着替えリビングに入った途端、いきなり目の前が白
いもので遮られた。
「ジ、ジープ?」
このふわふわした感触は、どうやら自分のペットらしい。
顔にへばりつくジープを何とか引き剥がし胸に抱きかかえると、視界に同居人の煙草をふ
かしたニヤニヤ顔が映った。
「俺がお前の部屋に入ったらさ、コイツが飛び掛って来やがンの。泣きそうな顔してたぜ」
そろそろと視線落とし、胸の中の小竜を見やる。
いきなり置いてきぼりにされた彼も不安でいっぱいだったのだろう。
八戒は、謝罪の意味を込めて、ぎゅっとジープを抱き締めた。
その光景に、自然と口元に笑みがこぼれる。
穏やかな表情で彼らを見守っていた悟浄が、口元を引き締めて八戒にソファに座るよう声
をかける。
ジープを膝に抱いたまま八戒が腰を落ち着けたのを確認して、短くなった煙草をもみ消し
ながら話を切り出した。
「何があった?」
戸外で八戒を見付けたときには、まだぼんやりとした疑惑しかなったのだが、ジープの様
子を見て確信に変わった。
自分が出掛けている間に何かあったのだろう。
問われた方の八戒は、紅い瞳に射抜かれているように感じながら、誤魔化しは許されない
と悟った。
暫くテーブルの上に視線を落とし何事かを考えていたが、目を伏せ再び顔を上げると真っ
直ぐに悟浄の顔と向かい合って口角を引き上げる。
「久しぶりに、『悟能』に逢いました」
きちんと笑顔を作って話せているだろうか。
「え?」
「もう、半年近く経ってなくなってきたと思ったんですが、雨じゃなかったから大丈夫だ
と思ったんですが、いきなり来たんですよ。『悟能』が」
雨の日に現れていた『悟能』。
悟浄も一度だけ見たことがある。
あれから、不安定になることはあっても、はっきりと、八戒が別人に見えるほどの出現は
なかったと思ったのだが。
「お前・・・。雪もダメなの?」
「いえ、そんなことはないと思いますよ?今まで平気だったんですし。ただ、今日は・・・」
そこまで話していて、気がついた。
家の中に入った時、自分の手には感覚がなかったのだ。
そしていま、手の中にはあの時計がない。外に置いて来てしまった。
「八戒?」
いきなり立ち上がった八戒を訝しげに見上げた。
ジープが飛び上がりながら、不安そうに鳴き出す。
再び戸外に出ようとノブを握る手を力強い悟浄の手が引きとめた。
「八戒、どーした?」
「あ。すいません、外に置いてきてしまったんです。花喃の時計」
「・・・・・・。スイッチはそれか・・・」
深いため息と共に、悟浄が呟いた。
事情を知っても、悟浄の左手はノブから離そうとしない。
碧の瞳がイライラと悟浄を睨みつけた。
「お願いです、たった一つの形見なんです。早く見付けないと・・・」
碧と紅の視線がぶつかる。
八戒の言っていることが分からない訳ではない。
しかし、一言一言噛み締めるように悟浄は言葉をつむいだ。
「俺は・・・、『悟能』と暮らしてんじゃない、『八戒』と暮らしてんだ」
「悟浄・・・」
先に視線を外したのは悟浄の方だった。
少し俯き加減で小さく嘆息すると、再び視線を八戒に向ける。
先ほどの厳しい色は消えて、普段の温かい瞳が戻っていた。
「でも、『お前の』大事なものなんだよな・・・。いーわ、俺取って来るから・・・」
ノブをひねりドアを開けると、一面の白が映った。
風に煽られて、積もったばかりの新雪が流されていく。
先ほどつけた足跡も消えかかっており、雪上の模様が海の波を連想させた。
戸外に出て行こうとする悟浄は、まるで深い海の底へ潜っていくようだ。
「悟浄・・・」
「時計ってどんなの?」
「良いんです、僕が落としたんですから。僕が取ってきます」
「つーか、お前湯冷めして、風邪ひくぜ?」
確かに、一度湯に浸かって湿り気の帯びた髪や身体では、今吹雪の中に飛び込んで行った
ら、風邪をひくことは避けられないだろう。
任せなさい、と笑顔を向ける悟浄は、どうやっても折れてくれない。
ここは悟浄の好意に甘えることにした。
「懐中時計です。金色の丸い、鎖のいついた・・・」
「りょーかい」
そう言って、ニヤリと笑うと、ドアをバタンと閉めた。





「八戒、八戒ってば!」
「え・・・?悟空?」
記憶の中を彷徨っていたらしい。
寒い冬からいきなり灼熱の砂漠の中に戻ってきて、くらりと眩暈を起こす。
その様子をみとめて、悟空が心配そうな表情をした。
「大丈夫?」
「はい、ちょっと雪の中に潜ってました」
「はっかい・・・」
いよいよ泣きそうな表情で右手をおでこに当てられた。
冗談ですよと軽くかわして、水筒を持って立ち上がった。
結局。
悟浄は、スコップを持ち出して八戒が倒れていた辺りの雪掻きを始めた。
風でちゃんとした場所が分からなくなってしまったため、その作業は1時間ほど続けられ
てしまったが。
宝物を見付け出したように誇らしげな表情で家の中には行ってきた悟浄は「良い運動にな
った」と八戒の掌に時計を乗せると、2.3度軽く八戒の頭を叩きながら前を素通りして
いき、そのままバスルームのドアを開ける。
あの時、悟浄が何も言わずに時計を委ねて行ったということは、信用してくれていたのだ
ろう、自分は大丈夫だ、と・・・。
実際、あの後時計を見ても思い出は蘇るが『悟能』は現れなかった。
いつも悟浄には迷惑を掛けてしまっている。
それなのに、それを当たり前のようにこなしてしまって、八戒には何もさせてくれないの
が尚更悔しい気がする。
自分は悟浄に甘えてばかりだった。あの雨の日からずっと・・・。
「あぁ。なんっか、うっすらと町のようなものが見えた気がします」
オアシスを挟んで、今通って来た砂漠の反対側を眺めた八戒が呟く。
きっと向こう側までもうすぐですよと、他の3人に笑顔を向けた。
「オイ、その確信のもてない案内は更に心配になるぞ」
「とりあえず」
一行のリーダーがようやく腰を上げた。
「ここにいても始まらん、残りの砂漠を歩くしかねぇだろ」
彼の号令で再び灼熱の地面へ足を踏み出した。
──…一体僕は彼に何ができるのだろう。──
旅はまだ長い。その間にその答えも自ずと見付かるかも知れない。





その晩。
ようやく辿り着いた宿屋で八戒はふと目を覚ました。
悟浄が何かを話しているようだ。
訝しげに頭を上げて様子を伺うが、起きている気配はない。
何とも言いようのない、苦しそうな声。
どうやら、夢を見ているらしい。
起こした方が良いのだろうか?と自分の布団に手をかけたところで悟浄のうめき声が止ま
り、「夢・・・か・・・」という呟きと荒い息遣いが聞こえてきた。
ゴソゴソと何かが動く音が聞こえ、一瞬ぼんやりとした明かりかついたかと思うと、いつ
もの嗅ぎ慣れた煙草のにおいが漂ってきた。
今なら、僕はちょっとでも何かが出来るかも知れない、彼に。
スウッと息を吸うと、思い切って声を掛けた。
「どうかしましたか?」












《日常の破片》







《言の葉あそび》