「うわ、雨かよ。」 ぽつ、と大粒の水滴が掌に落ちてきたかと思うと、みるみるうちにそれは 大雨へと変化した。 突然降り出した雨に、悟浄は慌てて走り出す。 近くの店の軒下にとりあえず避難して、恨めしげに空を見上げる。 空は澄みきった青空のまま。なのに雨は降り続いている。 俗に言う、狐の嫁入りという奴だろう。 「変な天気だぜ、ったく。」 悪態をひとつつくと、悟浄はポケットの中から煙草をとりだし口にする。 季節変わりの不安定な気候のせいなのだろうか。 ここ数日、日中の気温が激しく上下していた。 その温度差に、彼の同居人は体がついていけなかったようだ。 少しだが、熱が出てしまった。 まだ完全に治癒したとはいえない傷をふたつも持っているのだから、 そうなっても仕方がないところなのだが、彼はまるでそれが罪悪である かのように己の不調をひたすら隠そうとする。 そんな彼を半ば強引にベッドに押し込むと、悟浄は薬を求めにこうして 街までやってきたところだった。 「水も滴るイイ男ってか。冗談じゃねえぜ。」 ひと通り愚痴り終ると、銜えたままの煙草に火をつけようと少し前かがみに なった視界に、ふと緑の何かが見えた。 「ん?」 何となくその緑に視線を向けると、それは路地裏に転がった人形だった。 恐らく持ち主の子供に飽きられ、そのまま置き去りにされたのだろう。 薄汚れたその人形は、ぽつんと寂しげに雨に打たれていた。 何の変哲もないそんな人形であるにも関わらず、悟浄はそれをじっと 見つめたまま動かない。 いや、動けないでいたのだ。 作りがよいとお世辞にもいえないほど粗末な人形の腹は大きく裂け、 詰めている綿が飛びだしていた。 そして、その右目をかたどるボタンはとれてしまっていた。 うち捨てられて、ただ雨に打たれるだけのその姿は、否応なく誰かを 悟浄の中に浮かび上がらせた。 そう、数カ月前…叩き付けるような土砂降りの中で拾った…。 今のこの人形のようだった…。 「やっぱ、拾わないといけない…よな。この場合。」 大きくため息をついて悟浄は軽く肩を竦めて呟くと、大股で歩み寄り片手で ひょいとその人形を持ち上げた。 少し濡れているせいか、見た目より重い気がする。 軽く汚れを手でぽんぽんと払うと、改めてその人形を見つめる。 「大の男が持つようなモンじゃないんだけどねぇ。」 ため息交じりにぼやいてはみるが、捨てる気にだけはなれなかった。 見なかった振りして、立ち去ることもできた。 しかし、それをするには、あまりにもこの人形が誰かを思わせる。 傷の位置も確かに同じ場所にある。 そう、嫌になるくらいに。 ただそれ以上に似ていると感じたのは、こんなにも全身ボロボロなのに、 なおも笑みを浮かべたままのこの口許だった。 ――雨、よく降りますね。―― ――僕?僕は大丈夫です。何でもないですから。―― 彼が拾った生きた人形は、雨が降るとたちまち空虚な笑みを浮かべ出す。 大切だったものを全て失って、なんにも残ってないくせに。 ずたずたになった自分の心の傷が、悲鳴を上げている事にさえ気付けない くらい痛いくせに。 それでもその唇だけが笑みをかたどる。 まるで、それ以外の表情の作り方を忘れてしまったとでも言うように。 「…笑うなよ。笑いたくもないくせに。」 ふとそんな言葉が口から出る。 そして、これが本当は自分が言いたい言葉なのだと知る。 言いたくて、言えなかった…言葉。 ――熱ですか?大した事ないんです。本当に。―― ――やだなぁ、そんなにヤワに見えます?―― 血の気の失せた白い顔でそんな風に言う奴の台詞を、いったい誰が信じると 思っているのだろうか。 目を離せば、たちまち自分で自分を殺しにかかる彼を、何度この世に引き とどめただろうか。 「泣けよ。そんな顔で笑うくらいなら、いっそ泣いちまえ。」 手の中の人形にそう語りかける。 人形を通して、今、八戒と名乗る彼の同居人に。 見ているほうが痛くなるような彼の虚ろな笑顔を、どうしたら止めさせ られるのか解らなくて。 何を言えば、どうすればその深い傷を癒してやれるか解らなくて。 ただ黙って…彼が自分の痛みに耐えるのを見つめるだけで。 そんな自分に苛立ちだけがつのっていく。 どうして関わってしまったのか。 そんなやっかいな手間のかかるだけの男に。 どうして拾ってしまったのか。 あの雨の夜、道端で死にかけていた彼を。 己の中で繰り返される質問。答えは解っているようで解っていない。 ただ、もうあの日以前には戻れないし戻るつもりもない。 一度ならず二度までも、自分のテリトリーに引き込んだのは彼自身だ。 「…ちっ。」 悟浄は小さく舌打ちをすると、人形を小脇に抱えて歩き出した。 雨の上がった、空の下を。 「おかえりなさい、悟浄。」 家の扉を開けると、そこには八戒が立っていた。 皿を手にしているところを見れば、食器の整理でもしていたのだろう。 大人しく寝ているとは思っていなかったが、こうも予想通りだとそれはそれ で腹が立ってくる。 「ったく、寝とけっていったろーが。」 ため息とともに、少しのびた前髪を乱暴にかき上げながらそう言う。 自分の怒りを敏感に感じとった八戒は、戸惑ったように口を開きかけて そのままうつむく。 「…ええ。でも大したことないのに寝ているなんて…。」 「お前はよくても、俺が落ち着かないの。」 八戒のその手をとると、引っ張るようにして連行しようとする。 困ったような笑顔を浮かべていた八戒は、ふと悟浄が小脇に抱えている ものに気付き、首をかしげて尋ねる。 「それ、何ですか?」 「…あーっと…。」 今のやりとりですっかり忘れていたその存在を思い出し、一瞬躊躇したが 何でもない風を装ってそれをテーブルの上に投げ出した。 「人形、ですか。」 「落ちてたから拾った。」 「そう…ですか。」 不本意だとでも言いたそうな悟浄のぶっきらぼうな口調に、思わず 微笑みながら八戒はその人形を手に取る。 乱れた髪をそっと指先で直してやりながら、小さく呟く。 「なんだか、他人のように思えないですね、これ。」 「…お前は人形に知り合いでもいるのかよ。」 八戒のその台詞に呆れたような声で悟浄が言うが、当の本人はすました 顔でさらりと応えた。 「ひょっとしたら、いるかも知れませんね。」 「あっそ。」 ひょいと小さく肩を竦めただけで悟浄は懐の薬を取り出すと、それを 八戒の目の前にこれみよがしに置く。 「ほら、これ飲んで寝ろ。」 「あ…はい。」 まだぼんやりと人形の髪を撫で続けていた八戒が、その声に我に返る。 そして、少し戸惑ったような顔で悟浄に問いかける。 「これ、どうするんですか?」 「どうって…なーんも考えてない。なんかさ、拾って欲しそうだった から拾っただけだし。」 「…そう、ですか。」 何がおかしいのか、そんな悟浄の台詞に小さく笑うと八戒は再び人形に 視線を落とす。 「これ、僕がもらってもいいですか?」 「…いいけど、どーすんの?そんなボロッちー人形。」 その『ボロッちー』人形をわざわざ拾ってきた悟浄が、けげんそうに 眉根を寄せた表情で尋ねる。 すると八戒が、ふいにくすくすと声に出して笑いだした。 「なにがオカシイのかな?八戒さんは。」 「いいえ。なんでもないです。」 さらに眉根を寄せて悟浄が尋ねるが、笑いすぎて目尻にうっすらと浮か んだ涙をぬぐいながら、八戒はそう言って誤魔化そうとする。 なんとなく言いそうだなと思っていた台詞を、悟浄がそのまんま予想 通りに言ったので、おかしかったのだ。 「なんでもなさそーには見えないけど?」 笑われたのが面白くないのか、むすっとした声で悟浄が尋ねる。 椅子の背もたれを抱えるようにして座り、口を尖らせる悟浄のその 仕草は、どこか幼い子供を連想させる。 それが微笑ましくておかしいのだとは、さすがに言えない。 言えば、今度こそ完全に拗ねてしまいそうで。 「ああ、でもちゃんと洗って修理すれば、結構可愛いと思いますよ。 この人形。」 「どーせカワイコちゃんなら、俺は生身の方がイイ。」 「そう言うと思いました。」 悟浄の台詞に、またくすくすと八戒が小さく笑いだす。 笑いの材料にされたのは確かに少し不満ではあるが、それでも今目の前に いるこの同居人が、作り笑いでなく本心から笑ってくれるのなら。 喜んで道化にでもなろう。 そう本気で悟浄は思っていた。 言われるままに、八戒は薬を飲むとベッドに横になる。 枕元には、あの人形を置いて。 「似合いすぎって言われましたね。」 先程の悟浄との会話を思い出し、小さく微笑みながら人形に話しかける。 「どういう意味なんでしょうね、あれは。」 八戒がこの人形を抱えて部屋に戻ろうとした時、悟浄がそう言ったのだ。 からかっているのかと思い、軽く睨もうとしたが、意外にも真面目な 顔でそう繰り返すので、どう反応していいのか解らなくなってしまった。 結局、そのまま持って入った八戒は、人形を自分の枕元に置いた。 「ひと眠りしたら、修理しましょうか。」 はみ出した綿を指先でつつくと、苦笑いを浮かべる。 きっとそれは、自分とおそろいの縫い目になるに違いない。 とれた右目と同じものを探してみよう。 本来の瞳と同じでなければ、それはきっと義眼と一緒で。 不思議なくらい、自分に似ている。 だが、不愉快な気持ちはまったくなかった。 「悟浄に拾われたところまで、一緒だ。」 何故だろう、それがどこかくすぐったいような気持ちになる。 『なんかさ、拾って欲しそうだったから拾っただけだし。』 悟浄の台詞が脳裏に浮かぶ。 では、自分もあの時そんな目で彼を見たのだろうか。 覚えていないが、そうだったのかもしれない。 捨てられた人形。 捨てられたのはもういらないから? 壊れてしまったから? 新しい人形がもう主のもとにはあったから? だからもう…いらない? 破れた腹は、縫えば直る。 でもこわれてしまった事実は決して消えない。 名を変え、人から妖へと己が身を変化させ、過去の自分を全て無くしたと しても犯した罪は消えはしない。 そう、彼自身がこの地上から姿を消したとしても罪の記憶は残り続ける。 それほど重たい、大きな罪。 あの日、朽ち果てて土に還るはずだった自分は拾われた。 そう、ちょうどこの人形のように。 神なんて信じない。いたとしても無能だ。 かつてそう口にした自分の言葉は間違っているとは思わない。 無能だからこそ、花喃は自ら死を選ぶほど酷い目にあったのだから。 彼女は特別なことは何も望んではいなかった。 ただ、ひっそりと小さな幸せを欲しがっていただけなのに。 どうして被害者である彼女は死に、大量虐殺を行った自分がこうして 生き延びているのだろうか。 全てを『神』のせいにするつもりなどない。 結局は、自分で選び自分が招いた結果なのだから。 でも…もし『神』がいるのなら。 こんな自分に救いの手を伸ばしてくれた存在を『神』と言うのなら。 自分にとっての『神』は、血のように紅い髪と瞳を持った彼のことだ。 「悟浄は…優しいから…。」 囁くように言うその顔は、せつなそうに歪んで。 その優しさに、すがって甘えて。 まだひとりで立てない自分がもどかしくて。 それでも精いっぱいの虚勢を張れば、簡単に見抜かれて。 結局、迷惑しかかけていない自分が、ここにいる。 「どうして…僕なんか…置いてくれるんでしょうね…。」 つぶやきながら寝返りをうつと、その振動で人形が床に落ちる。 慌てて拾おうと、ベッドの上から手を伸ばせば。 「…ああ、そうか。」 ふとあることに気付いた。 そして人形を拾い上げると、まじまじと見つめる。 「この人形、僕だけでなく花喃にも似ているのかも。」 人形は、女の子をかたどっている。 自分に似ているこれが女の子なら、それは花喃かもしれない。 腹の子供と一緒に自らの命を絶った、花喃に。 「じゃあ、僕たちふたりして悟浄に拾われたってことかな。」 その考えが何故か無性におかしくて、八戒は笑い続ける。 声を殺して、涙を浮かべて。 拾われて、よかったのかもしれない。 拾ってくれて、本当はただ嬉しいだけなのかもしれない。 理由も理屈も抜きで、自分はただ生き延びたかっただけなのかもしれない。 誰からも省みられなかった自分たち姉弟を、こうして拾って命を与えて くれたのがあの悟浄なら。 「そう、思うことにしましょう。」 ね、花喃。 人形にそう語りかけると、八戒は目を閉じた。 八戒によって丁寧に洗われ、目と腹を修理したその人形は見違えるほど きれいになった。 そして人形は、八戒の部屋の窓辺に今でも飾られている。 側には、常に花が添えられて。 しかしその人形に『花喃』という大切な名が与えられた事を知るものは 彼以外にはいなかった。 *END* |
あれ?いつの間にこんな話になったんだろう? もうちょっと暗い話になる予定だったのに、気付けば徐々に 方向が曲がっていってこうなっていました。(^^;) 暗いのか、そうでないのかよく解らない話ですねぇ。 悟浄は自分の力が足りないと思っているけど、八戒はそんな 彼にちゃんと救われていると解っているんですよね。 でも八戒は、自分の存在が既に悟浄の中でどれだけ大きいか いうのは、まだ解っていないっと。 でなければ、悟浄が落ちてる人形に八戒を重ねたりしないし わざわざそれを拾ったりしないと思うんだけど。 もどかしいですねぇ。 |