在天願作比翼鳥

在地願為連理枝



 「これで、終了っと…。」
干してあった洗濯物を全て取り入れると、僕はふうと軽くため息をく。
そして何気なく空を仰げば、思ったよりも雲が高くなっているようだ。
気がつけば、暑い夏はいつの間にか終わり、秋の足音が近づいてくる季節に
なっていた。
 「少し風が冷たくなってきましたね。」
 「そうか?」
そう言えば、窓辺に座って煙草をふかしていた悟浄が訝しげな声を出す。
だらしない格好で窓枠に頬杖をつき、時折煩げに中途半端に伸びた髪を
かきあげている。
結ぶには短すぎる髪は、風にぱらぱらと梳かれている。
紅い髪の色が、色のぼやけた風景の中でひときわ鮮やかに映る。
 「ええ。もう秋の始まりなんでしょうね。雲もずいぶん高いです。」
 「ふーん。」
こんな気候の話には全く興味が無いといった態度のまま、彼は生返事をする。
僕は少し笑ってまた空を見上げる。
晴れているとはいいがたいような天気だ。
空一面に薄い雲が立ちこめ、その雲の間から薄日が時折地上へと届いている。
いい天気とはいえないが、雨は降らないだろう。
 「…雲の流れが早いなぁ。風も出てきたし。」
時折強く吹きつける風は僕の髪を乱し、悟浄の紫煙を横向きに流す。
さすがにこの風では吸いにくいのか、諦めた様子で、悟浄は煙草を灰皿に
押し付けながら言う。
 「嵐でもきそう?」
 「まさか。」
からかうような悟浄の口調に、軽く僕が笑って否定する。
ちらりと悟浄は一瞬僕の顔を見るが、すぐに視線を手にした雑誌へと向ける。
 「…コーヒーでも煎れましょうか?」
 「ああ、たのまぁ。」
僕がそう尋ねると、悟浄はこちらに顔を向けもせずに返事をする。
微かに、本当に微かに笑って僕は家の中へと足を向ける。
悟浄は僕が雨に弱いことを知っている。特にそれが夜なら致命的だ。
雨の降る夜は、僕は自分を保てなくなる。
制御できない怒りと絶望、そして殺意に飲まれ、自分で自分を殺しにかかる
僕を幾度となく彼がこの世界に引き止めてくれた。
彼がいなければ、とうの昔に僕は存在しなくなっていただろう。
そう、たった今も天候の崩れが僕の精神に影響していないか、実にさりげなく
気づかってくれた。
新しい生を歩めと八戒という名を与えられ、転がり込むようにして悟浄の
家に住まわせてもらうようになってから四ヶ月が過ぎた。
体の傷はもう普段の生活では痛みを発しない。
自分で抉った右目も義眼を入れてもらい、今のところ不具合は出なかった。
四ヶ月、という時間は確実に僕の中を通り過ぎているようだ。
住まわせてもらう礼のつもり、という訳でもなかったが、家事一切を仕切る
立場となった僕は、それなりに忙しい。
朝早く起きる僕とは対照的に、夜型の悟浄が起きだすのは昼近くだ。
お互いが、お互いなりに規則正しい生活を送っている。
互いに干渉しないように、適度に距離を置いて。
でも全く気にかからないわけではなくて。
そんな微妙な位置は、ひどく心地よくて安心できる。
気がつけば、まるで何も起きなかったかのように、穏やかな時間だけが
ゆっくりと過ぎていく。
   
  ――でも、彼女はどこにもいない。――
   
彼女を取り戻したくて、ただそれだけの思いで僕は殺戮を繰り返した。
しかし、結局、数えきれない程の犠牲者の血で染めあげたこの手では、
何も掴めはしなかった。
荒れ狂う感情の波も今は凪ぎ、残されたのはあいまいな空虚感だけで。
それでも生きていこうと決めたのは、自分をここにつなぎ止めてくれる
紅の戒めを持つ人に出会ったから。
でも、まだぽっかりと空いた心の穴は埋まらなくて。
時折本当に穴でも空いたかのように、冷たい風さえ感じる。
   
   
   
 「どうぞ。」
 「ん。」
煎れ立てのコーヒーを悟浄の前にことりと置くと、僕は向かい側の椅子へ
腰を下ろす。
二人何も言わずに、ただコーヒーを口に運ぶ。
そんな沈黙も、決して苦痛ではなくて。
不思議なくらい落ち着いている自分に気がつく。
チチチッ…という高い鳴き声に、我に返った僕はその声を視線で追う。
窓の外、薄曇りの空を、二羽の鳥が寄り添うように飛んでいくのが見えた。
それをぼんやりと見ていた僕の中に、ふいにひとつの詩が浮かぶ。
昔何かの本で読んだことのある、詩。
 「天に住まば比翼の鳥に、地に住まば連理の枝とならんと…。」
 「…なんだそりゃ。」
いつの間にか、僕は声に出していたらしい。
訝しげな顔で悟浄が聞き返す。
僕は窓から目を離さずにぽつぽつと説明する。
 「比翼の鳥っていうのは、ひとつの目と片翼だけを持っている
  想像上の鳥のことです。雌と雄が一対になっていて、二羽が揃って
  初めて空を飛べるらしいですよ。」
 「へえ。」
聞いているのかいないのか、解らないような生返事をする悟浄に、
僕はつい薄い笑みを浮かべてしまう。
 「連理の枝は、一本の木の幹や枝が他の木のそれと連なって、
  ひとつの大きな樹のようになるということだそうで。」
 「で、なに、それ。」
相変わらず、気乗りのしないといった口調で悟浄が先を促し僕は言う。
 「愛を唄う詩…です。あなたと離れては生きていけない。
  一生離れることなく互いに寄り添っていたい。
  そういう意味だったと思います。」
 「オッソロシイねぇ、それ。」
悟浄がふいにそんな感想を漏らす。
思ってもみなかった反応に、僕はまばたきを数度繰り返す。
 「…そうですか。」
 「そうそう。そーいうタイプの女は怖いよ。後引くから。」
僕が首をかしげて尋ねると、ニヤリと男臭い笑いを片頬に器用に浮かべて、
煙草を挟んだ手の先をこちらに向けそう言う。
 「経験あり、ですか?」
 「ないない。俺、器用だから。」
かすかにからかいを込めて僕がそう言うと、悟浄は余裕の態度を崩さぬまま
煙草をゆっくりとふかす。
 「でしょうね。」
 「だろ?」
くすりと笑って僕が頷けば、鮮やかな紅い虹彩でウインクしてみせる。
そんな気障としか言い様のないポーズが、何故か全く嫌みではない。
それどころか不思議なくらい似合っているのだ。
確かにこの男なら、女性が騒ぐのも無理はないだろうと素直に思う。
 「なに?俺に見惚れてる?」
 「見惚れてほしいんですか、男の僕に。」
妙に嬉しそうにそう尋ねてくる悟浄に、そう言ってやれば少し考え込む。
 「う〜ん、美人さんだからオッケーかな。」
 「許容範囲、意外に広いんですね。」
確かうら若い女性以外はお断りだと公言していたですよね、と視線で確認
すれば、どこ吹く風といった顔つきで悟浄が応える。
 「俺って博愛主義者だから。」
 「…辞書貸しましょうか?」
なんとなくおかしくなって、ふいに二人とも吹き出してしまう。
こんなたわいない軽いやり取りができるくらいには、互いに互いの存在に
慣れたのだと思う。
まだ自分をさらすのが怖くて、僕は僕の事を話せずにいるし、悟浄もまた
無理に尋ねようとはしない。
そして彼自身、自分のことを喋るわけでもない。
たぶん、そう簡単に語れるほど軽くはないのだろうと、なんとなく想像
できるが、僕もあえてそれを尋ねようとは思わなかった。
それは逃げ、なのかもしれない。
そう解っていても、この心地よい距離を崩すのは怖かった。
 「でもね、僕は昔そんな風に生きたいと思っていたんです。」
ふと真顔になって、僕はそう言ってしまう。
昔、といったけれど、それはそんなに過去のことではなくて。
 「……。」
悟浄は何も言わない。
煙草をふかす態度も、その速度も変えない。
聞いているのかいないのか、解らない態度をとってくれる。
それが彼の優しさ。
だから安心して、僕は喋ることが出来る。
 「そんな風にありたい人がいたから…。」
詩のように、なにもかも二人で分けあって生きていたいと思ったのは
唯一愛した女性であり、たったひとりの姉でもあった人。
そうあるのが当たり前だと思っていた。
この世に生まれてくる前から、同じ胎内で時間と血肉を分け合ってきた
双子だったから。
だから、死ぬときも二人で一緒に逝くのだと盲信していた。
しかし現実は…。
 「比翼連理はもうこりごりです。」
コーヒーカップを両手で握りしめ、僕はそうつぶやく。
片翼だけ残されて、二度と飛べぬ鳥は今の自分だ。
苦しくて、引き裂かれた心が痛くてどんなに泣き叫んでも、失われた
片翼は二度と戻ってはこない。
地面に惨めに転がりながら見上げる空は、ただ痛いほど青くて。
焦がれて、焦がれすぎてそのまま朽ち果てていく。
こんな思いはもうたくさんだ。
だからもしも次に生まれてくるとしたなら、半分の体ではなく
ひとつの個でありたいと、ただそれだけを願う。
    
 ――生まれ変わりなど信じてはいないけれど。――
    
 「鳥とか樹とか、そんなもんは知らないけどさ。」
悟浄の声に、はっと僕は我に返る。
そしてそんな僕の顔をちらりと見ると、悟浄が煙草を灰皿に押し付けながら
何でもないような口調で言う。
 「別れたんなら次探せばいいっていう気がするし、樹だって根がありゃ
  枯れやしない。そいつだけが全てっていうのはシンドイと思うぜ?」
悟浄のあっさりとした言いかたに、僕はただ小さく笑う。
そうやって、重くなってしまいそうな僕の思考の先を、軽くかわしてくれる
言葉が心地よい。
 「そうですね。僕もそう思います。」
 「それにさぁ、縦半分の鳥なんて気持ち悪いって。どうやってそれで
  空飛ぶっていうんだか。考えたやつの顔が見てみたいっての。」
あまりにも呆れたような口調の悟浄に、僕は耐えきれずにとうとうくすくす
と笑いだしてしまった。
 「鋭すぎです悟浄。まあ確かに半分は半分ですよね。」
どうあがいても、半分は半分。
いち個体として存在できない中途半端な生き物で。
自嘲気味な笑みを消すことも出来ずにそんな事を考えている僕に、悟浄の手の
中のライターがしゅぼっという音を立てる。
 「いんやぁ?半分じゃないと思うぜ、俺はさ。」
 「え?」
悟浄ののんびりとした口調に、僕は反射的に聞き返す。
彼が言わんとしていることが、一瞬理解できなかったからだ。
そんな僕に視線をあわせることなく、悟浄はふうと煙草の煙を吐き出し言う。
 「それでひとつの個なんだろ?傍から見れば半分だろうがなんだろーが、
  そんな風に生まれてきたんなら、さ。」
思ってもみなかった悟浄の言葉に、僕は目を見開き…そしてゆっくりと俯き
口許に複雑な笑みを浮かべる。
 「…コーヒー、おかわりいかがですか。」
 「おう、くれ。」
悟浄は短く返事をくれ、僕はそれを理由に席を立ち台所へと向かう。
 ――なんて真直ぐ前を見ているのだろうか…悟浄は。――
羨ましいくらい、いやいっそ嫉ましい程に。
彼のようになりたいと時折思う事がある。
何ものにも捕らわれず、自由に真直ぐ進む彼のように。
 ――彼は彼で、自分は自分。――
そんな事が解らないほど、子供ではないし愚かでもない。
それぞれが己の思うがままに、生きたいように生きればいい。
解ってはいるのだ。解っては…いるつもりだ。
それでも気がつけば、彼の持つあの鮮烈な紅い髪と瞳に焦がれている自分が
いるのだ。
まるで彼自身を映したかのような、命のエネルギーに満ちたあの紅に。
そして、そんな風に誰かを羨むだけで前へ進むこともできない自分の醜さに
吐き気すら覚える。
 「強く…なりたい。」
聞こえないくらいの小声で呟きながら、僕は自分の胸のあたりを強く掴む。
そう、強くなりたい。
もう二度と飛べないのなら、この大地の上で生きていけるくらいに強く。
自分の生き方を見つけ、それを貫けるくらいに。
強く…強くなりたい。
台所の窓から見える空は、僕の心のようにはっきりとしない色をしていた。
   
   
   
 「天に住まば比翼の鳥に、地に住まば連理の枝とならんと…か。」
悟浄はそう呟くと、銜えた煙草を深く吸い込む。
肺の中にまで届いた煙を、勢いよく吐きだしてみる。
そうすれば、胸の奥で疼くもやもやとした何かまで出ていくのでではいかと
ほんの少し期待して。
  ――僕は昔そんな風に生きたいと思っていたんです。――
  ――そんな風にありたい人がいたから…。――
八戒の言葉が、何度もリフレインを繰り返す。
かつて悟能という名だった八戒が、自分の全てをかけて愛した女がいた。
それは彼の双子の姉であり、恋人だった花喃という名の…。
 「ふ…ん…。」
なんと表現していいのか解らない疼きは、苛立ちに変わり。
その気持ちのまま、悟浄は煙草を灰皿の上で乱暴に押しつぶす。
 「比翼…連理、ねぇ。」
そんな風に誰かを愛したことなどなかった。
そんな風になりたいと思う相手もいなかった。
愛なんて知らない。知らなくても今まで生きてこれた。
それはただの誤魔化しだと解っている言葉で。
本当は傷つけるのも傷つけられるのも嫌だから、誰とも本気で向きあわな
かっただけだ。
一定のテリトリーを決め、それ以上は誰も踏み入らせなかった筈なのに。
それなのに、今は一緒に住んでいる奴がいる。
彼を拾ったのも、同居を許したのも、自分でも解らない衝動にかられたから。
それが何なのかはいまだに解らなくて。
でも、ひとりでいた時よりも心地よい時間が何故か増えていく。
何かが変わっていく、そんな予感。
だからこそ、わざと茶化して自傷に走りそうな彼の思考を誤魔化してみる。
八戒を少しでもこちら側に引き止める為に。
 「…ああ、そうかもな。」
ふいに悟浄は発作的に笑いだしたくなる。
愛は知らない。解らない。
でも、失いたくないもの、無くしたくないものはできたようだ。
初めて固執する「もの」が。
まるで宝物ができた餓鬼のような、そんな心境にある自分がおかしくて。
でも決して不快ではない気持ち。それどころか…。
 「楽しそうですね。なにかありました?」
コーヒーを満たしたカップを持った八戒が、不思議そうな顔で悟浄を見る。
手を伸ばしてそれを受け取りながら、悟浄はにやりと口許だけで笑う。
 「んー、知りたい?」
 「…ええ、できれば。」
 「ナイショ。」
悟浄の子供じみた仕草と返事が、かなり予想外だったのだろう。
翡翠の両眼が大きく見開かれたかと思うと、ぱちぱちと瞬きを数度繰り返す。
そしてゆっくりと困ったような、面白がっているような微笑みを浮かべる。
 「内緒、ですか。」
 「そ、ナイショ。」
八戒の反応に気を良くした悟浄が、問われてさらにそう答える。
そんな悟浄の口調がおかしかったのか、くすりと声に出して八戒が笑う。
 「なんだか、子供みたいですよ。」
 「そぉ?でも俺まだ未成年だからオッケーね。」
 「酒場の女性の方々に、そう言って甘えてみてはいかがです?」
 「子供より、オトナの甘え方のほーが俺としては好みだから。」
意味あり気な笑みでそう悟浄が軽口を返せば、仕方ない人ですねと言いたげな
苦笑が八戒の口許に浮かぶ。
その微笑みを見ながら、悟浄はコーヒーをすする。
  ――そうやって、笑っていればいい。――
比翼だろうが連理だろうが、知った事ではない。
こいつがこうやって笑っていられるうちは、死に全てを取られずにすむ。
時間はかかるだろうが、目の前の八戒という存在は必ず自分の足で立ち、
歩きだすはずだ。
こいつはそんなに弱くないから、必ずそうなる。
 「どうしました?悟浄。」
 「んー?別にぃ?」
自分の顔を見つめたままぼんやりと考え込んだ悟浄に、訝しげな視線を向けて
八戒が尋ねるが、のほほんとした口調で答えてやるとただ微笑む。
失いたくないものが出来た。だから今度こそうまくやろう。
そうすれば、たぶん、何かが変わる。
それは、確信。
悟浄は残ったコーヒーをぐいと飲み干した。


*END*






季節や気候の雰囲気と、二人の距離のとりかた。
一緒に住み初めてまだ浅くもなく深くもないあたりの日常の風景
というものを書いてみたかったんですけど、どんなもんでしょ?
あんまりメリハリのない話ですが、私的には気に入っています。
まだ恋愛未満ですね。このふたり。(^^;)


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