「スマーイル。」 むにゅ、と気難しげな表情で本を読んでいる悟能の両頬に手を添えると、 そのまま花喃は左右に広げる。 「か、花喃?」 突然の行為にびっくりしたのか、目をしきりに瞬かせながら悟能は目の前に 立つ花喃を見上げる。 「笑わなきゃダメ。そんなにムッツリしてたら幸せ逃げちゃうわよ悟能。」 「…楽しくもないのに笑えないよ、花喃。」 困った顔で悟能がため息とともにそう言うと、めっというように花喃が人さし 指をその唇にあてる。 「ため息ひとつつくと幸せがひとつ逃げるの、覚えておいてね。」 「困ったなぁ…。」 子供に諭すような態度でそう言われて、悟能はかすかに苦笑を浮かべる。 すると花喃はくすりと笑って、空に向かって手を伸ばした。 「困ることないわ。ほら今日はこんなに澄んだ青空でしょ。 なにかいい事ありそうな気がしない?」 踊るような足取りで、花喃は側にあった樹や花に触れていく。 「樹も緑でいっぱいだし、花だってきれいに咲いている。素敵じゃない。」 「そう…かな。」 悟能にとって、花が咲くのも青空も特別な事とは思えなかった。 だから花喃のその言葉を聞いても、戸惑うばかりなのだ。 「そうなのよ。こんなに素敵なものが今ここにあるっていう事がすごい事 なんだから。だってそれを奇麗だって感じる私がいるって事だもの。」 「…自己の存在認識ってこと?」 花喃の言いたい事を自分なりの言葉で確認するように告げると、軽く口を 尖らせて花喃が言う。 「もう。そうやって難しく考えるの、悟能の悪いクセよ。」 そう言って花喃は頬に手を当て少し考え、にっこりと微笑みながら悪戯めいた 視線を悟能に向ける。 「じゃあ、こう考えて。今日はとってもいい天気だし花もこんなに きれいに咲いてるから二人でピクニックに行きましょう?」 「…ああ、それなら僕にも解るよ。」 ぎこちないながらもようやく笑顔を浮かべた悟能に、くすくすと笑いながら 花喃はふわりとスカートを膨らませながら一回転してみせた。 花喃が笑う。 春の日差しをそのまま映したように。 花喃が歌う。 小鳥がさえずるようなきれいな声で。 悟能はそんな花喃の姿に、自分の胸の奥からゆっくりと温かい何かが沸き始め るのを感じる。 ひどく幸せなその感覚が嬉しくて。 不器用な笑みでそれを告げれば、花喃がよりいっそうきれいに微笑む。 翡翠の両瞳は澄んだ湖水のようで。 自分と同じ筈なのに、全く違う色に感じる。 花束を抱えた花喃が、ゆっくりと振り向きながら言う。 「笑って悟能。あなたの笑顔が好きよ。」 それはまるで夢のように…。 本当に夢のような…。 「……ん。」 日差しの温かさを瞼越しに感じ、八戒はゆっくりと目を開けると、とたんに 強い光が飛び込んできた。 あまりの眩しさに少し顔をしかめ、反射的に八戒が目の上に手をかざす。 そんな日差しを遮るように、誰かが目の前にしゃがみ込む。 「起きたか?」 「ご…じょう…?」 声を掛けられて、のろのろと頭を巡らせる。 逆光で影としか認識できないが、耳に馴染んだ声になんとなく確認するように して名を呼ぶと、苦笑する音が聞こえる。 「なに?まだ片足夢の中?」 「そう…かも…。」 揶揄するような声音に、小さく笑いながら八戒はほうと息をつく。 足が何故か温かい事に気付きふと視線を下ろせば、膝の上で丸くなって気持 ち良さそうにジープが眠っている。 昼食の後、少し休憩しようと木陰で足を投げ出した事までは覚えているが、 そこから先の記憶が無い。 ジープがいつ自分の膝の上に乗ったのかも覚えてはいない。 「どれくらい眠ってました?」 「ん?ほんの一時間ってとこ。」 ジープのたてがみをゆっくりと撫でながら八戒が尋ねると、あっさりとした 声で解答がやってくる。 「…結構寝てたんですねぇ。」 「いいんでない?たまにはさ。」 悟浄は軽く両肩を竦めて言う。 旅の間の細々とした皆の世話や、ジープの運転を一切受け持っているうえに、 例の清一色と名乗る変態易者との戦いから数日と経っていないのだ。 心身ともに疲れている八戒が、涼しげな木陰で少々寝入ったからと言って、 とがめる奴はいない。 現に悟空はともかく、あの三蔵さえも、気持ちよさそうに眠っている八戒を 起こさないように、黙ってこの場を離れたくらいなのだから。 「三蔵と悟空は?」 「あいつらならあっちの方。悟空は泉の中ですっかり野生に戻ってるし、 三蔵はこーんな顔して新聞読んでたぜ。」 そう言いながら悟浄が三蔵のしかめ顔を正確に再現して見せると、たまらず 八戒は吹き出してしまう。 「思いっきり想像できますね。」 「だろ?」 けけっと悪戯に成功した悪ガキの顔で悟浄も笑うと、八戒の隣に腰を下ろす。 手慣れた仕草で煙草を口に銜え、ライターの火を近づける。 赤い火がちろちろと揺れながら、煙草の先をそれ以上の色に染めていく。 かちり、とライターを片手でポケットにおさめながら、もう片方の手で煙草を 吸い、ふう、とうまそうに煙を吹き出す。 「で、どんな夢だった?」 「…え?」 そんな一連の動作を何気なく見つめていた八戒は、ふいにそう問われてまじ まじと悟浄の横顔を見る。 が、悟浄はこちらをちらりと見ることなく、煙草をゆっくりとふかしている。 そういってわざわざ聞いてくるところをみれば、余程変な顔で自分は眠って いたのだろうかと八戒は思ってしまう。 「どんな感じでした、僕。」 「んー?なんか楽しいのか哀しいのか解らないっていう顔で、 口だけ笑ってた。」 器用な奴だよなぁ、お前って。 言外にそう言われて、八戒はただ苦笑をするしかない。 「…花喃の夢、見てました。」 「ふーん。」 八戒がそう言えば、悟浄は興味なさそうな顔で返事をする。 思えばこうやって彼女の話をするのは初めてではないかと八戒は気付く。 彼女…花喃との思い出は、ただ優しくて…愛おしくて。 そして深い痛みを伴うものだった。 だからこそ、こんなに素直に口に出せる自分が少し不思議だった。 「僕は…笑わない子供でした。」 「へえ?」 思い出すようにそう言えば、悟浄が初めて少し驚いたような顔で八戒を見る。 今の八戒を知るものからすれば、それはあまりにも意外な事だったからだ。 「何も楽しいことなんてなかった。自分をとりまく世界の 全ては灰色で、無機質なものでしかなかったんです。 あの頃の僕はただ生きていただけでした。」 「笑わない八戒…ねぇ。」 想像できない、といった顔で悟浄が煙を吐き出す。 あまりにも正直なその反応に、却って八戒はおかしくなってしまう。 「意外でした?」 「とっても。」 そうでしょうね、とくすくすと八戒が笑う。 そうやって笑う横顔を見れば、よけいに想像できない。 「花喃が…教えてくれたんです、笑い方を。」 夢の中の姉の微笑みを思い出しながら、八戒もまた同じように笑う。 ただそれは悟浄からすれば、寂しげとしか見えなかったが。 「昇る陽、沈む陽の美しさ、花が咲くことの待ち遠しさ、吹き抜ける風の 心地よさ。そして何かを…誰かを愛おしいと感じる心。全て花喃が僕に 教えてくれました。」 八戒は淡々とそう喋りながら、眩しそうに目の前に広がる草原を見つめる。 花喃と暮らしたあの日々を八戒はそっと思い出す。 幸せで…ただただ幸せだった、小さな箱庭のような生活。 傍から見れば、それがどんなにいびつな形だとしても、自分にとってあの時間 はかけがえのない大切なものだった。 一年と続くことのなかった時間の中で、数多くの大切なものを彼女は自分に 与えてくれたのだから。 「花喃が僕を灰色だけだった世界から、 色のある世界に引っ張り出してくれたんです。」 何かを感じたのか、ゆっくりとジープが首をもたげ、主人の顔を見上げる。 そんなジープの首筋を、大丈夫だというように八戒は小さく微笑むと、 指先で優しく撫でる。 「そして…身を引き裂くような苦しさ、哀しさも彼女が教えてくれました。 花喃は人間として…命ある生き物として必要なもの全てを、僕に与えて ひとりで逝ってしまいました。」 それはまるで、花喃が己の全てを自分に与える事で役目を終えたかのようで。 ふたつに分かれた魂が、ひとつに戻っていったかのようで。 そんな都合のいい夢を時々見てしまう。 自分をひとり残して逝ってしまった彼女を、恨んだことなどなかった。 ただ彼女を…己が半身を失ってしまった哀しみと嘆き。 救えなかった自分の力のなさに、身を引き裂かれそうな辛さと苦しさだけが、 体の中で荒れ狂い。 誰も愛した事がなかった自分に、愛する心を与え。 哀しみなど知らなかった自分に、涙を教えてくれて。 愛するから苦しくて。 哀しいから愛しいと知り。 こんな感情が自分にもあることなど気付きもしなかった。 苦しさも愛しさも、哀しみも喜びも。 すべて彼女が与えてくれた、大切な…心で。 だからこそ、今ここに自分がいる。 花喃以上に大切なものなどなかった自分に出来た、かけがえのない人たち。 そんな彼らと共に旅を続けていくうちに、少しずつ何かが変わって。 「前に、悟浄言いましたよね?あの時…僕が笑ったから拾ったって…。」 「ああ。」 ふいにある事に気付いた八戒が、小さく笑って悟浄に言う。 その時の事を悟浄も思いだしながら頷く。 「花喃が僕に笑い方を教えてくれなかったら、僕は今ここにこうして いなかったかもしれませんね。」 ふと煙草を口に運びかけた手を止め、悟浄は少し考えてからにやりと笑う。 「じゃ、感謝しないとな。」 「そうですね…。」 答えるように笑うと、八戒は右手に視線を落とす。 数日前に悟空に書かれた油性ペンの生命線は、まだうっすらと残っている。 落とそうと思えばできたが、なんとなくもったいない気がしてそのままにして いたのだが、やはり日を追うごとにそれは薄れていく。 しかし、決して忘れはしないだろう。 今までの事も、そしてこれから起るだろう事も。 「今の僕は、花喃が生んでくれた…花喃の命そのものなんだと… 最近やっと思えるようになりました。欺瞞かもしれないですけどね。」 今も彼女があの時あの城で、何を考え、何を感じ、たったひとりで死んでいっ たのかは解らない。 でも彼女は自分を道連れにはしなかった。 ――ごめんね。―― 花喃はそう謝ってひとりで逝った。 一緒に逝こうとは言ってくれなかった。 もしあの時、花喃がそう言ってくれたのなら、迷うことなく自分は彼女の手を とっていただろうに。 「だから今は生きていたいです。花喃が託してくれた生命だから…花喃が 残してくれた生命だから…精いっぱい生きなければ、いつか彼女に 会ったとき、僕、怒られちゃいます。」 そう言いながら、八戒は微笑む。 置いていかれた苦しさは、まだ少し胸の中に残っている。 でも、花喃が自分を残したかったのなら。 生きて欲しいと願ってくれたのなら。 生き物である以上、死はいつか必ず自分のもとにもやってくる。 ならばそれまで、精いっぱい生きていかなければならない。 花喃の願いを叶えるために。 「…少しだけ、よかったかなって思うことがあるんですよ。」 「なに?」 くすりと八戒は悪戯めいた視線を送りながら笑うと、悟浄は訝しげに眉を 軽くしかめる。 「花喃が生きていたら、きっと悟浄は彼女を好きになっていたと 思いますから。」 「…その自信はどっからくんの?」 不思議なくらいそうはっきりと言い切る八戒の言葉に、唖然とした表情で悟浄 が尋ねてくる。 「だって僕の姉ですよ。悟浄の言葉を借りればとびきりの 『イイ女』でしたから。」 「…はァ。」 花喃の事を自慢したいのか、と最初思った悟浄は八戒の瞳の奥にあるひとつの 感情に気付き、片頬だけで器用に笑う。 「…それってヤキモチかな。」 「さあ、どうでしょう。」 からかうような口調で悟浄がその顔を覗き込めば、すました顔で八戒は答えを はぐらかせる。 風にのって遠くから悟空の声が聞こえてくる。 膝の上のジープも目を覚まし、軽く羽根を動かし始める。 「そろそろ出発の準備をしないと、三蔵の銃が火を吹きますね。」 「額に銃弾でピアスなんて、願い下げだしな。」 そう言いながら八戒は立ち上がると、悟浄もまた苦笑でおどけながら同じく 立ち上がる。 「…ああ、いい天気ですね。」 雲ひとつない空を見上げて、眩しそうに微笑みながら八戒が言う。 そんな澄みきった青空の中で、ひとつの笑顔と言葉が鮮やかに心の中で蘇る。 『辛いときや哀しい時は、嘘でもいいから笑ってみるの。 するとね、ちょっとだけここが軽くなるのよ。』 以前、花喃が笑顔とともに言ったその言葉が、今になって八戒の胸にじわりと 染み込んでいく。 ――ああ、そうだね。だから僕は笑うよ。―― ――生きていたいから。彼らと共に歩いていくから。―― 心の中でそっとそう囁けば、胸の中の花喃が鮮やかに笑う。 それは何年もの時を経て、ようやく思い出した彼女の微笑みだった。 *END* |
まだちょっと不完全燃焼な気がしますが、とりあえず今の私の 精いっぱいの文というところでひとつ。 例の油性マジックのあたりで、八戒の脳裏に浮かんだ花喃が 微笑んでいるシーンを見て、 「ああ、ようやく少しだけ八戒は自分を許したんだなぁ。」 と思ったんです。 死者は化けてでないかぎり笑ったり泣いたりしないので、 どの表情を思い出すかはその人による訳で。 それまで彼女の死に際の泣き笑いしか思い出せない様子だった 彼が、花喃の本当に嬉しそうな笑顔を思い出した、という事は 今生きている自分を完全ではないにせよ、認めた…というか 許した…というか。そんな感じかなぁと思ったわけです。 どのみち、笑わない子供だった悟能が、今のように虚実交えて 笑みを浮かべるようになったのは、やっぱり花喃の教育の タマモノだとしか考えられない私でして。 そして笑うことを知らなければ、悟浄との出会いはなかった 訳だし。そう考えれば、花喃サマサマじゃないかなぁっと。 結局はこれかい、私。 |